1997年 学界展望
労働経済学研究の現在─1994~96年の業績を通じて(10ページ目)


終わりに

駿河

最後に総括をお願いします。

金子

たくさんの論文を見てきたわけですけれども、二つはっきりとした分析手法の変化が見られます。一つは、モデル分析と実証研究をいかに整合的にやるのかということで、パネルデータがないとか、個票データが自由に手に入れられないという範囲の中で、モデルをつくって、モデル分析をして比較静学をする。ある制度変更が労働市場に及ぼす影響がモデルからはっきりとわかるわけですね。そのモデル通りに日本の労働市場が実際に機能しているかどうかを調べるために、研究者はデータの扱い方に対して工夫をしていることがわかります。

それから計量経済学的なテクニックが非常に進んでいる。モデル分析については、3の海外生産活動と国内雇用のところで、深尾論文も、デュアリティー(双対性アプローチ)を使っていて、経済の環境変化が起こるときに、企業がインターテンポラルな費用関数を最小化するということからモデルをつくり、比較静学を行っています。同様の費用関数を使った分析は早見さんの『日本経済研究』の論文があり、モデル分析や実証分析の推計式の導き方でも新しいテクニックが入ってきています。

そういう近年の動向を考えると、一つはますますモデル分析と実証分析をくっつけるセンスをわれわれ労働経済学者は高めていかなければいけないと思います。

最後に、やはり望みたいことは、データをもっと自由に使えるようにするということと、労働経済学者の要望をある程度反映したようなデータが欲しい。一つはパネルデータです。ユーロスタットでは、パネルデータを各国が、少なくとも同じ項目を入れるように整備しましょうというような動向がありますから、わが国でも、パネルデータをつくることに関して努力があってもいいような気がします。家計経済研究所で1993年から始まった「消費パネル調査」の開発を期待しているのですが、これはあくまでも経済学者の要望です。

奥西

私も、今の金子さんのコメントとほぼ重なります。私の場合、バブル期をはさんで6年ほど日本にいなかったので、日本のこういう労働経済学界の状況はどうなっているかあまり知らないできたんですが、一昨年帰ってみて、かなり進んできているなという印象を率直に言って持ちました。

アメリカにいたとき、労働経済学の研究に関して三つのことを思ったんです。一つは、単にデータを使って計算したらこうなりましたというのではなくて、何がしかの理論モデルに基づいた実証分析ということが非常に強調されている。

それから、実証分析面では、個票データを使うのはほぼ当たり前になっているし、さらにそういうことを前提として、計量手法等もかなり精緻なものが出てきている。

3番目には、非常に政策的な関心が強くて、そのときどきのホットな政策問題に経済学者がどんどんアタックしている。

そういう三つのことを感じたんですが、日本でも、多かれ少なかれ、そういった方向に動いているという意味で、非常にいい傾向だと思いました。

ただ、個別に見ると、問題がなくはない。たとえば今、金子さんが言われたデータ利用の問題。私がアメリカにいたとき、高齢者の年金や健康保険制度のあり方が大きな問題になったとき、何人かの研究者が音頭をとって、政府も協力して早速パネルデータをつくろうということになったのです。そういうことが日本でもあるといいのではないか。現状は、役所のデータは役所が中心に使い、それ以外のことを外部の研究者がやろうとすると、細々とした委託研究等で個別にやる。そうすると、回答する側も非常に大変ですし、社会全体として大きな非効率を生んでいると思うんです。その意味で、もう少し公共財としてのデータの生産、そういったシステムが工夫されていいんじゃないか。

政策的関心についても、同様のことが言えて、パート税制と労働供給の関係等、いくつか政策的な関心に基づいた研究が出てきていますけれども、たとえば最近の規制緩和の問題とか、あるいは各種公的年金・保険制度、助成金等さまざまな政策の費用効果分析ですね。そういったものがなかなか行えない。行政側のデータがなかなか得られないというところに、最大のネックがあると思うんですが、そういう面でも改善が図られていくと、日本の労働経済学研究もますます進むんじゃないかなという感想を持ちました。

駿河

データについては、私も全く同意見ですね。以前は、日本企業、あるいは日本経済はどうしてこんなに強いんだろうか、それを解明するという形で、労働市場の分析が行われていたのがかなり多かったんですけれども、そういう視点が全然なくなり、日本の労働市場あるいは企業をどういうふうに、いかに効率的にするかというような問題意識でほとんどの問題が取り上げられているという印象です。

ただ、失業率がかなり上がってきているんですけれども、失業率に直接アタックした研究というのが全然見当たらなかったというのは非常に残念ですね。

それから、以前多かった高齢者、外国人労働、それから勤労者生活などの問題を扱った論文が非常に減っている。これらは、労働供給制約化という問題意識で検討されていた問題ですけれども、長期的に見れば、労働供給制約化というのが出てくる可能性があるので、こういった分野の研究も将来必要かと思います。

また、理論、実証両方がある文献が増えてきたのは非常に喜ばしいことで、経済合理的な視点から、日本の労働問題を解明しようという傾向があって、すばらしいと思いました。もともと労働経済学というのは、直接輸入された仮説を調べるというのではなしに、日本独自の仮説というのをかなり生んできた分野です。ただ、以前は、労働経済学の理論的なフレームワークと日本の労働分析がほとんど交流なしに勝手に進んでいるという状況だったんですけれども、そういう状況は脱してかなり両者の密接な関係ができてきているという印象を持っています。今後も一層、労働経済学の理論と日本の分析、これが密接につながるようになることが求められると思います。

もちろん、データはみんながアクセスできるような形になってほしいと思いますけれども、データよりは仮説のほうが重要ですし、日本から世界に通用するような普遍的な仮説が生まれてほしいと思っています。