2002年 学界展望
労働法理論の現在─1999~2001年の業績を通じて(8ページ目)


5. 賃金の基礎理論

紹介

盛誠吾「賃金債権の発生要件」

大内

では、次に盛教授の「賃金債権の発生要件」を取り上げたいと思います。盛論文は、賃金債権の発生をめぐる法的な諸問題を論じています。労働者の労務の履行が何らかの理由で行われなかった場合、あるいは不十分にしか行われなかった場合に、一体、反対債権たる賃金債権はどうなるのか。民法の双務契約に関する一般法理はどこまで妥当するのか。このような点は労働契約論にとって極めて重要な課題であるにもかかわらず、これまで十分な検討は行われてきていませんでした。本論文はこれらの問題について体系的に分析を行い、盛教授独自の見解を出そうとするものです。

まず、盛教授は、賃金債権の発生について、ノーワーク・ノーペイの原則に依拠したり、民法536条2項だけで処理しようとしたりする従来の議論が労務の不提供という例外的な場合を念頭に置いており、賃金債権発生それ自体の要件を明確にしてこなかったと批判し、そのうえで次のように述べられます。労働者は所定の労務提供の準備を整えて、所定の就労場所に赴いたときは、使用者は労務の受領があったと推定すべきであり、使用者は労務の受領を明確に拒否していて、なおかつそれが自己の責めに帰すべきものでないことを立証しなければ賃金支払義務を免れない、と。

また、賃金については、その多様性を考慮した検討をするべきであると指摘し、具体的には、例えば賞与について、就業規則などで支給要件や支給基準が定められている限り、労務提供に伴って賃金債権はその都度発生し、その具体的な額は人事考課や査定により特定されるが、使用者が査定を行わなかった場合でも、賞与債権の実現を妨げる債権侵害として労働者に損害賠償請求権が認められ、その額は基準が明確でない場合には、裁判所が補充的・形成的に決定できる、と主張しています。また、使用者は、査定を行う場合には、公正な評価を行う義務があるとし、それに違反した場合には、労働者は公正な評価に基づく場合との差額を訴求することかできると述べられます。このほか、支給日在籍要件については、使用者側の都合により、支給日前に労働契約関係が終了したような場合には、労働者は在籍日数に応じた賞与相当額を損害賠償として請求することができるとされます。

次に、労務の提供が何らかの形で不完全な場合の賃金はどうなるのかという点について、本論文では、「債務の本旨に従った履行」を賃金債権の発生要件として厳格に適用することに消極的な立場に立っていると思われます。例えば、不完全な労務提供であっても、使用者の指揮命令を完全に排除するものではなく、本来の労務の履行自体が可能である場合には、労務の提供自体はあったものと判断すべきであると述べられています。

また、使用者からの受領拒否があったケースについて、最近の裁判例が民法536条2項の適用が認められるためには、労働者が客観的に就労する意思と能力を有していることを主張・立証する必要があるとしている点を批判し、使用者の労務受領拒否がその責めに帰すべき事由によるものと認められ、使用者が労務受領拒否の意思を継続している限り、改めて労働者が就労の意思を有しているかどうかを問題とする必要はない、と述べられています。

以上の盛教授の見解は、賃金債権の発生を労務の提供との関係でとらえ、しかも、「労務提供」があったかどうかという点について、これを広く認めようとする理論志向を示したものではないかと思われます。そこでの「広げ方」には大きく二つのタイプのものがあるようです。一つは、労務提供があったかどうかという際の判断基準についてです。盛教授は、賃金債権の発生要件となる「労務提供」の範囲は、労働契約の内容で決まり、これはある程度広くならざるをえないという立場をとっていると思われます。さらに、違法解雇後のバックペイの請求について、労働者の就労意思を厳格に要求しない主張もこの考え方に連なっているように思われます。もう一つの「広げ方」としては、賞与に関して主張されているように、賃金請求権と賃金債権とを区別し、後者の賃金債権は、賃金請求権の発生前であっても、「労務の提供」によって逐次発生していくと主張しています。

この論文の評価としては、賃金を、履行が不十分であったというケースを想定したいわば裏側からの議論をするのではなく、労務の提供という、正面からの議論をしようとされている点が重要な理論的試みではないかと思います。ただ、労働契約が使用者の指揮命令を受けて、特定された労務を提供し、それに対して報酬を支払うものであると考えますと、盛先生の考え方は、その基本構造に合致した見解であるのかという点が気になりました。つまり、労働者の従事すべき労務は、あくまで使用者の指揮命令により特定され、それに違反した労務の提供は「債務の本旨に従った履行」ではないという議論のほうが理論構成としては労働契約の構造と整合的ではないのかとも思われます。

具体的な例を挙げて言いますと、使用者の労務の提供と受領という問題について、普通は労働者が労務を提供して、使用者がそれを受領することによって賃金請求権が認められると考えると思うのですが、盛先生の見解では、労働者が所定の労務提供の準備を整えて就労場所に行った段階で、労務の提供はあったと構成し、受領を事前に明確に拒否していて、それが、しかも使用者側の帰責事由がないということで、やっと賃金請求権の発生が阻止されるという論理構造をとります。私の理解では、労働契約は、使用者によって、まず、指揮命令で特定された労務がある。その労務の提供をして初めて債務の本旨に従った履行があると言える。そして、それを使用者が受領して、賃金が発生するという構造に思えるのですが、それと盛先生の見解とはやや違う。つまり、この論文では、比喩的に言うと、使用者の受領という問題も、労務の提供の中に入ってしまっており、要するに労務提供の範囲を広くとらえすぎているのではないか、と思います。

以上が、盛論文に対するコメントですが、このほか賃金については、奥冨論文も注目されます(奥冨晃「雇傭契約における報酬請求権発生問題の基礎理論的考察」南山法学23巻1=2号)。同論文は、賃金支払債務の発生について、雇傭契約における労務提供義務が絶対的定期行為であって、自己の意思による労務不提供が直ちに履行不能となるという点に売買契約との違いがあり、このような特殊性にかんがみると労務を提供しない者に賃金支払債務が発生するのはおかしいとして、結論として、ノーワーク・ノーペイの原則が妥当するとします。ノーワーク・ノーペイの原則は労働法学の通説が認めるところですが、民法学の立場からも、雇傭契約には双務契約の一般原則が妥当しないということを理論的に論証した点に、奥冨論文の意義があると思います。

討論

労務の提供と債務の本旨に従った履行

大内

盛論文について、水町さんどうですか。

水町

私も、賃金についてはこれまで理論的にあまりクリアにされてこなかった点が多いので、非常に興味深く読ませていただきました。この論文の最大の意義は、ノーワーク・ノーペイの原則という原理原則論ではなくて、賃金の実態の多様性に応じて個別具体的にその発生や特定を判断すべきという点を明らかにした点にあり、この点で非常に重要な功績を残した論文だと思います。また、そのこと自体は、多様化する賃金の実態にかなった妥当な解釈だと私自身も思っています。

ただ、個別の論点についてはいくつかの疑問があります。特に疑問なのは、大内さんが先ほど指摘された、労務提供と債務の本旨の解釈についてです。つまり、債務の本旨に従っていない労務提供でも、実際に提供されれば、その対価は発生すると解釈されていますが、この問題はまさに債務の本旨に従っているか否か自体の問題なのではないか。理論的には、債務の本旨に従っているか否かを個別の契約の趣旨に即して解釈するという性質の問題なのではないかと私は思います。もし、この点についての盛論文のねらいが、実際に労務提供されれば、その中身に関係なく賃金を発生させるという点にあるとすれば、労務提供中とか、労務提供をした後になって契約の趣旨に沿わない履行であったことが初めてわかるようなケースではどうなるのか。このようなケースでは十分に対応できないのではないか。

大内

盛先生が債務の本旨に従った労務提供を厳格にとらえているかどうかという点なのですが、本論文では、片山組事件の最高裁判決(最一小判平成10年4月9日労判736号15頁)を引いた後に、「労務提供義務は、それは人間労働を内容とするものである以上、常に一定の質や量によって特定されうるものではなく、労働者の経験や熟練、その時々の健康状態や加齢など、多くの要因によって不断に変化することが予定されているものである。したがって、そのような予定された範囲内の労務提供であるかぎり、たとえ通常とはその質や量において異なるものであっても、債務の本旨に従ったものと解さなければならない」(講座第5巻76頁)と書かれており、やや広くとらえているような感じもあります。

水町

この部分は契約の趣旨に沿った柔軟な解釈でいいのですが。

大内

その前の74頁では厳格なとらえ方がされています。76頁のほうでは柔軟です。ただどうも、基本的には、柔軟なとらえ方をするというのが盛説ではないのか、と理解していました。

水町

74頁のリボン闘争のところでは、債務の本旨に従っていないリボン闘争であっても実際に労務が提供されたかどうかで賃金の帰趨が決まるとされていて、「債務の本旨に従った履行」の解釈に一貫性がないような気がします。

大内

私は債務の本旨に従った履行というのは、やはり厳格に解釈したほうがいいのではないかと思っています。先ほど指摘したように、まず使用者の指揮命令があって初めて労働債務の内容は特定されるものですから、ある程度客観的にきちんと決まっているものだろうと。だから、まずは債務の本旨に従った履行かどうかを判断したうえで、本旨履行と判断されたときに、それを使用者側が受領拒否すると履行不能になる。後は、民法536条2項の帰責事由の有無について、ある程度弾力的に柔軟な判断をしていけば、妥当な結論が導き出せるのではないか、と思います。債務の本旨に従った履行のところで、いろいろな事情を考慮するか、民法536条2項の帰責事由の判断でやるか、どちらがいいのかという問題です。私は、536条2項でやったほうが、理論的にはおさまりがいいと考えています。

水町

これは二つの次元の異なる問題で、一方では、債務の本旨に従った履行かどうかの債務不履行の問題があり、他方で、その履行できなかった場合の履行不能・危険負担の問題については、使用者の帰責事由の有無によって反対債権である賃金債権の帰趨が決まるという性質の問題だと思います。

大内

たしかに両者は違う問題なのですが、実際の考慮事由はかなり近寄ってきませんか。私がそういう発想を持ったのは、JR東海の新幹線減速闘争事件(東京地判平成10年2月26日労判737号51頁)においてです。あの事件では、債務の本旨に従った履行というのはかなり弾力的に判断されていて、提供された労務が賃金の支払を拒否するに足りる程度に不十分といえるかどうかという観点から、債務の本旨に従った履行の問題を判断しています。そのような判断は、本来は民法536条2項の枠組みで行うべきだと思うのです。

唐津

盛論文は、多様な賃金形態を念頭に置いて賃金の発生要件という基礎理論的なところを押さえたうえで体系的な解釈論を展開したものとして優れた論文だと思いました。ただ、労務提供の準備を整えて所定の場所へ赴くということで、労務の受領があったと言われるのですが、それで特に不都合はないのか。私は、労務の受領というのは使用者による指揮命令のことだと考えています。つまり、指揮命令をその間に置いておいて、そこで賃金債権が発生すると。たしかに、労務の受領も広くとらえて、自分で常日ごろの労務提供をすれば、そこで賃金債権は発生するということは、労働契約のモデルとしてありうるという気がする。ただ、賃金債権が発生するためには使用者による指揮命令という受領行為が常に必要であって、労働者が所定の場所に来ただけで使用者がそれを例外的に拒否しない限り賃金債権が発生するのではなく、賃金と指揮命令は対になっているものなのではないか。労働者がいったん使用者の指揮命令下に入れば、途中、明確な離脱がない限りは、債務の履行があった、と考えるべきなのでしょうか。基本的に、不完全な労務履行や労務中断があったときには、賃金債権の問題として処理するのではなく、例えば、懲戒処分や人事考課の問題として処理をすれば足りるのではないか、と思います。ですから、債務の本旨を核とした賃金論のほうがいいとする大内さんの考え方のほうに、私も同調するのですが。

大内

もちろん、盛説でも、どんな就労でもよいというわけではないはずです。契約の範囲による限定があるはずです。ただ労働場所に行って、ゲームをしていたというのはいけないわけです。

唐津

ただ、「明確に離脱したと認められない限り」とありますから、そこでの債務の履行というものは一体どういうものを想定されているのでしょうか。

大内

私の理解では、盛説によっても、契約により許容される労務の範囲が狭まってくれば、賃金の発生要件も狭まってくると思うのです。ただ、現状では労働者がやるべき仕事の内容は漠然としか決まっていないから、使用者がはっきりと受領を拒否しなければ、労働者がやった行動がある程度広く労務提供と評価されやすくなる、こういう構造になっているのだと思います。

水町

おそらく局面の違いの問題ですね。労務受領を拒否したら、その時点で労働不能になって民法536条2項の問題になるのですが、受領した後(労務提供を実際にさせて後)では、債務不履行、債務の本旨に従っているかどうかの問題になる。

大内

指揮命令は事前になされ行うべき労務は特定されると思うのですが、なにも指揮命令しなくて、ただ労働者が会社にやってきた場合はどうなるのか。それでも、はっきり使用者のほうが拒否をしなければ、つまり指揮命令を行使しないとはっきり言わなければ、賃金が発生してしまうということになるのか。

水町

指揮命令をしない、自由に働いていいという契約であれば、それが債務の本旨に従った労働になりますが、実際に労務提供の中で個別の契約の趣旨に沿った履行がなされているかが、その債務の本旨に従っているかどうかの問題としてあらわれるわけですよね。

大内

盛論文では、その契約の趣旨というのは非常に広いのでしょうね。

水町

賃金の多様性やそれを含む労働契約の多様性を考慮に入れるのであれば、個別に契約の趣旨を見て、その中の一つとして指揮命令がどういうもので、それに沿った履行がなされているのか否かを個別に判断していくというのが筋だと思います。

賃金請求権と賃金債権

大内

盛論文の賞与論についてですが、労務の提供によって賞与債権が発生しているというのは、そこまではっきり言っていいものなのでしょうか。

唐津

これは賞与の額が決まるような仕組みがある場合でしょう。

大内

基準が就業規則などで定められているということが前提です。

唐津

盛論文では、成果主義賃金が採用されている場合や、使用者による考課査定によって変動するような賃金については、その賃金の内容は平均賃金や過去の支給実績などに基づいて裁判所が補充的に決定できるとされています。けれども、たしかに考課や査定を縛る論理は当然出てくると思うのですが、裁判所が補充的に賃金債権を特定できるという論理がどこから出てくるのかなという気がするんですけど。

水町

公正査定義務という契約上の義務が措定されるとして、その履行を求める方法として公正査定の直接履行やこの査定に代わる判決を求めることができるのかがまず問題となります。もしそれができないとすれば、債務不履行として損害賠償を請求することになる。その場合に問題になるのは、義務違反によって生じる損害額の算定の問題で、ここでは賞与額自体の認定ではなく、賞与相当額の認定となります。そこを賞与額自体の認定だというふうに踏み込んで考えているとすれば新しい考えだし、逆に理論的にどう構成するのかが問題になると思います。

大内

盛説は、支給日在籍要件については、支給日以前に整理解雇をされたような場合に、そのときまでの額が損害賠償として発生するということなのだと思います。債権は発生するけれども、請求権はない。そういう場合の処理として損害賠償でやるんだというアプローチだと思うのです。これは新しい考え方ではないですか。

水町

新しいと思います。

唐津

成果主義賃金の場合も同じような処理になるのではないですか。例えば、使用者には公正査定義務があるから、公正に査定しなければいけなかったのに、そうしなかった。それで、裁判所が補充的に決定する。けれど、賃金債権ではなくて、損害賠償という形です。

大内

そのほうが一貫しています。もちろん、使用者側が支給額の特定をしないがゆえに支払えないという場合には、その特定自身を訴求することもできるということも言っておられますね。

水町

発生と特定を分けているというところが盛論文の特徴なんです。にもかかわらず、賃金債権が発生して、その債権の実現が妨げられた場合には、この発生債権が特定されるという論理がよくわからない。発生と特定を区別するというところと、発生から特定につながるというところの関係が、理論的にうまく説明されていない気がします。

大内

では、この点についてご本人に聞きましょう。

賞与について言えば、債権侵害という形で処理したかったわけです。賞与支給日以前には賞与債権が特定されるわけではないけれども、既に抽象的にせよ発生した権利が侵害されたという点で損害賠償請求ができると構成したかったわけです。

水町

契約当事者同士で債権侵害というのはありますか。第三者による債権侵害という話はありますが、契約当事者同士で………。

債権侵害というのは、言い方が悪かったですね。要するに、使用者側の事情によって賞与債権が現実に特定されることが妨げられたという趣旨です。

大内

ちょっと、まわりくどい理論構成ですね。

従来の考え方によるとどうなるのでしょうか。菅野先生は、労働者が使用者側の事情によって賞与支給日前に退職せざるをえなかったような場合には、支給日在籍要件は適用されないと考えておられるようですが(菅野和夫『労働法(第4版)』177頁以下)、その場合には、いつどのようにして賞与請求権が発生するのでしょうか。

水町

支給日在籍要件が就業規則に書かれていて、それに合理性がないとして支給日在籍要件がなくなった場合に、どの時点で賞与が発生するのか。この点が必ずしも明らかでない。だから、結局、個別の契約の趣旨に即して合理的意思解釈として操作する、趣旨にかなった契約解釈をすると考えざるをえないのではないでしょうか。

大内

そういう裁判例もありますよ。団体交渉が遅れ賞与の支給日がずれてしまい、例年の支給日なら在職していたはずであったのに、支給日が遅れたためにそのときに在職していなかったという場合には、裁判所は賞与の支給を認めていますよね(最近では、例えば、須賀工業事件・東京地判平成12年2月14日労判780号9頁)。

それは、在籍すべき支給日は、賞与が実際に支給された日ではなく、支給が予定された日と解釈することでも対応できます。賞与が支給される期間というのは、社会的にもある程度限定されているわけですから。

大内

例えば、整理解雇の場合には、在籍要件としての支給日を前倒しすることで処理したほうがいいということでしょうか。

水町

ただし、盛先生がおっしゃっているように、賞与も退職金も多様だから、その個別の趣旨に即して契約の解釈がなされるというところを十分に認識しておかなければいけない。

退職金の請求権発生時期と没収可能性

大内

退職金でも同じような問題が出てきますね。

退職金が退職時に初めて債権として発生するという従来の考え方については、疑問に思っています。例えば、現在の企業会計原則によれば、在籍する従業員が退職することを前提として、必要な退職金を積み立てておく必要がありますし、賃金確保法による保全措置の定めもあります。では、なぜ、そういう仕組みがあるのに、労働契約上は退職時まで債権として発生しないのでしょうか。仮に、法的に退職金債権が全く発生していないのであれば、そういう処理自体がおかしいということにもなりかねません。退職金が全く恩恵的給付だというならともかく、やはり、法的にも退職金債権は抽象的には発生していることを前提として、退職金債権保護を考えないといけないのではないでしょうか。

唐津

盛説では、退職金債権は既に発生していて、その額については勤続年数に応じた決め方があるのでしょうが、退職時に特定する。退職時に額が決まるということになりますね。でも、退職金規定で何年勤続すれば金額はいくらってわかっているでしょう。だから、それは特定の問題ではなく、退職金の権利を行使する条件の問題で、退職時でないと権利を行使できないのかどうか、とういうことではないですか。

大内

履行期をずらすということですか。そうすると、労働基準法24条との関係が出てきます。

水町

退職金不支給条項はおよそ無効ということになりますか。

大内

懲戒解雇のとき没収するというのも、できなくなるでしょう。権利が発生しているのだから。

それは僕は、最終的な特定に条件がついていると考えます。

大内

そうですか。私は、懲戒解雇のときに退職金を没収するというのは、ほんとうはいけないことではないかと思うのですが。

唐津

退職金債権について特に賃金の全額払い原則の適用を排除されていませんしね。

大内

懲戒解雇と退職金を結びつけるというのは、あまりにも露骨な労務管理手段であると思うのです。また、使用者は、損害を受ければ損害賠償を請求して取り戻すべきであって、退職金で自分の被った損害額に関係なく全額を回収するのはあまりにも都合のよすぎる方法ではないかと思うのです。しかも、退職金となると金額も高額です。

水町

損害賠償は労働者に故意重過失がある場合に限るのか、損害賠償の額は青天井なのかということなどを考えると、いろいろ難しい問題もからんできますね。

大内

この問題は、解釈論で対処できるのです。懲戒解雇没収条項を公序良俗違反で無効と解すればいいのです。それなら退職金の請求権の発生時期の問題に触れなくてもよい。労働者の損害賠償責任については、別途、責任制限法理で対処すればよいのです。

そうなると、盗人に追い銭という議論に必ずなる。

大内

よくそう言われるのですが、それは多分に感情論だと思います。

実際的な処理としては、留置権というか、支払留保を認めればいいんですよ。要するに損害賠償請求を前提とした支払の留保です。場合によっては、それを損害の補填に充てるということで。

大内

労働者が無資力の場合にも退職金から回収できるということですね。

債務の履行態様は、賃金の問題か懲戒の問題か

唐津

盛論文によると、発生と特定を区分けすると、特定段階で公正査定義務が発動されますか。

それは、個々の賃金形態に応じて決まるでしょう。使用者が特定について裁量権を有しているときは、当然、公正査定義務も問題になります。

最後に、一言反論したいのですが、3人とも問題を債務の本旨のところで処理すべきだというご意見ですね。しかし、債務の本旨に従った労務の提供ではないということから、ただちに賃金債権が発生しないということにはなりません。これまでの裁判例も、債務の本旨に従った履行ではないから賃金債権が発生しないと言っているのではなく、あくまで、使用者による労務の受領拒否が、使用者の責めに帰すべき事由に当たるかどうかということで問題を処理しているのです。

それに、債務の本旨のところで賃金債権の問題を処理しようとすると、結局、使用者側に簡単に賃金カットの権限を認めることになってしまいます。労務の提供が債務の本旨に従ったものでなければ、最初から賃金債権が発生しないとか、不完全な程度に応じてしか賃金債権が発生しないとすると、使用者は、減給の制裁によらずに賃金の減額ができることになります。そうなると、懲戒処分や減給についての規制の存在意義がなくなってしまいます。働きぶりが悪ければ、それは債務の本旨に従った労務の提供ではない。だから、賃金請求権の全部または一部は発生していないから賃金カットだと言えるわけですが、それはどうでしょうか。やはり、債務の本旨については、労務の提供があったかなかったかというレベルで議論して、たとえ不完全にせよ、労務の提供があった以上は、賃金債権は発生すると考えるべきだと思います。それが結果的に不都合だというのであれば、使用者としては懲戒処分で対処することもできるわけですから。

大内

先ほどの唐津先生の指摘と逆ですね。つまり、まずは賃金論でやって、いきなり懲戒論でやるべきではないということですね。

逆に、賃金カットができないから、懲戒処分で対応する合理性が出てくるとも言えます。

唐津

ただ、賃金カットの適否を争うことと、懲戒処分のレベルでその適法性を争うことは、結局同じではないでしょうか。