2002年 学界展望
労働法理論の現在─1999~2001年の業績を通じて(11ページ目)


8. ユニオン・ショップ

紹介

大内伸哉「ユニオン・ショップ協定が労働団体法理論に及ぼした影響」

次は、ユニオン・ショップをテーマとした大内さんの論文を紹介します。

この論文は、題名こそ「ユニオン・ショップ協定が労働団体法理論に及ぼした影響」となっていますが、実際には、その主題は、ユニオン・ショップ協定の及ぼした影響の分析そのものよりも、任意団体としての労働組合というものを前提とした場合に、労働団体法理論はどのように再構築されることになるのかを提示することにあります。

論文では、まず、労働組合が組合員に不利益な決定や行為を行う場合に、その正当性は組合員の意思に求められなければならないが、ユニオン・ショップ協定締結組合では組合への加入は強制され、脱退が制約されているために、その前提に欠けることになる。そこで、ユニオン・ショップ協定有効論は、その正統性を補うために、個別に不利益制限法理を模索せざるを得ず、さまざまな面でその法理を発展させてきたというように評価、批判いたします。さらに、最近のユニオン・ショップ無効論についても、結果的には労働組合の正統性を軽視し、不利益制限法理を許容していると批判します。

次いで、ユニオン・ショップ協定の効力について論じており、そこでは、最近のユニオン・ショップ協定違法論とは異なり、消極的団結権を強調しています。それ以外にもいくつかの論拠が示されますが、そういったことを論拠として無効説をとったうえで、労働組合を組合員が任意に加入・脱退できる任意団体としてとらえた場合には、意思形成過程の民主性が確保されている限り、団体としての決定は正統性を持つことになるから、ユニオン・ショップ協定有効論のような特別の不利益制限法理は不要であるという前提に立って、各論的検討に入っていきます。

ここではさまざまな論点が取り上げられてますが、主な点を列挙しますと、まず、組合の対内的関係については、組合員資格は組合規約によって自由に決定することができ、性別や思想信条を組合員資格の条件として定める組合規約も有効とされます。統制処分の関係では、規約を中心とした組合加入契約の内容に応じて、あくまで自主的に決定されるべきもので、除名処分についても、特にその有効性を限定的に解釈する必要はないという主張がなされており、とりわけ裁判所による司法的介入には非常に消極的な立場がとられています。さらに、違法争議指令には拘束力があり、政治活動の自由を制限する組合の決定にも拘束力があるのは原則であるという、これまでの理解とは正反対の主張が展開されます。また、組合の対外的関係については、労働協約には、公正代表審査のような条件を付するまでもなく、当然に拘束力が認められ、違法争議についての個人責任は否定されませんし、山猫ストは正当性を欠くといった、大胆な結論が出されます。ほかに、立法政策論として、従業員代表論などにも触れております。

この論文の主旨は、労働組合は任意団体である限り、加入・脱退は自由であって、労働者が組合に加入し、民主的な決定がなされた以上、それに従わなければならないが、それに従いたくなければ、いつでも組合をやめればよいし、それかできるのだから、加入強制や脱退制限を前提とする不利益制限法理は一切不要であるということにあります。また、自己決定に伴う自己責任を貫徹しようとする点にも大きな特徴があると思います。このように、大内論文では、任意団体としての労働組合が大前提となっているわけですが、まさにそのような任意団体としての労働組合がどのような趣旨のものであり、そもそもそういう労働組合は存在しうるのかということが、問題になると思います。

たしかに、そういった任意団体としての労働組合を純粋な理念型としてとらえるならば、大内理論は非の打ちどころがない一貫した理論だということができるでしょう。しかし、現実の労働組合が、果たして、大内さんが想定しているような労働組合像と合致するのかどうか。大内さんは、ユニオン・ショップがあると加入強制・脱退制限が働くとおっしゃいますが、では、ユニオン・ショップ協定を締結していない組合は、大内さんが想定される任意団体として把握され、大内理論がそのまま適用されるのでしょうか。しかし、現実の労働組合は、たとえユニオン・ショップ協定を締結していなくても、何らかの強制や制限、制約という要素がつきものなのではないでしょうか。ユニオン・ショップ協定締結組合自体の強制が事実上のものだとおっしゃるのですが、たとえ締結していない組合であっても、仲間を裏切ってはいけないという仲間意識のような心理的圧迫によって加入を余儀なくされたり、脱退が制約されたりすることもありうるでしょう。形式的な強制はないというだけで、加入・脱退が任意だととらえて、そのことを前提とした議論を展開するのは現実的ではないようにも思えます。

特に気になったのは、嫌ならやめればいいという指摘です。それを言ってしまうと、それ以上議論が進まないことになってしまう。やはり、嫌でも組合にとどまる利益とか、少数者の保護というものは認めざるをえないのではないでしょうか。先ほど言った仲間意識ということもあるでしょうし、とりわけ、労働組合の組織が民主的な組織であるとするならば、常に少数意見が多数意見に変わる可能性があるはずだし、そのための条件が確保される必要があると思います。

それから、加入や脱退が任意の労働組合は、今でも労働者が作ろうと思えば自由につくれるわけです。それにもかかわらず、実際には組織率が恒常的に低下していて、俗にいう組合離れが進行しているわけですが、そのことをどう理解すべきなのか。大内流に自己決定と自己責任を結びつけて、組合をつくれるのにつくらないのは労働者の自己責任の問題だとして突き放すことでよいのかどうかです。

討論

大内論文の評価

大内

どうもありがとうございました。唐津先生、どうですか。

唐津

ユニオン・ショップ協定の有効・無効論について、仮に大内さんの考え方に立つとしても、労働組合のいろいろな活動に対して、司法的なコントロールは及ばないものとして考えるべきである、とされている点がひっかかります。大内論文では、そういうスタンスでいろいろな局面での解釈を展開されているのですが、組合加入契約の合意内容いかんで結論が決まってしまう点が気になるのです。つまり、入り口で決まる。ところが、組合の内部運営については、そこで意思決定をなすというときには、今度は民主的でないといけないんだという、任意団体と言われるのに、なぜそれが出てくるのか。組合運営の意思決定のレベルだけ民主制を要求して、それ以外ではこれを要求しない、例えば、性別による組合員資格の制約を肯定したり政治活動の自由も制約できるという論理を採られているが、そこでは、憲法上の規範である法のもとの平等、一定の事由に基づいて差別的な取扱いを受けないという論理が遮断される。その区分けと根拠は一体どこにあるのかという疑問があります。

水町

盛先生が指摘された点ですが、ユニオン・ショップ協定がない現在の農会については大内理論ではどうなるのか。それはおそらく任意団体で、大内さんが想定しているような組織であって、大内理論がそのまま及ぶということになると思います。そこで、事実上の強制や規制あるいは仲間意識などがあったとしても、それは事実上のものに過ぎないので、法的には考慮しないというのが、おそらく大内理論なのだろうと思います。その意味では、全く抽象論かというと、今の現実の社会の中でも一定の現実性を持った理論であるし、これまでの学説に対して理論的にクリアな整理をしながら、非常に独創的な見解を提示しているところが、とてもおもしろい。ただ問題は、そのような解釈がもたらす社会的帰結がどうなるのかという点です。

特に、大内さんの議論は、私的自治と自律的な労働組合を出発点として、そこから理論的整理をしているのですが、やはり私的自治には内在的な問題がある。個人には情報や能力の点で限界があるというのは今でも本質的には変わっていないのですから、労働者個人には交渉力の限界があるという点は変わらない。この点について、大内さんの考え方では、労働組合を自律的に結成して、そこで集団的に交渉すればよいということになると思うのですが、労働組合にも、社会的・歴史的なコンテクストから見るとやはり問題がある。労働組合自体はそもそも工業化時代で均質的な労働集団を前提にして、組織を拡大しながら集団的な力で交渉しなさいという組織で、今の憲法も法律も、それを前提とした労働組合像を描いているのですが、現在のポスト工業化の時代趨勢の中で、労働組合が社会的求心力を失っているのは、歴史の長い流れの中で見ると、ある意味では歴史的必然のような気がする。大きい組合では多様な利益や複雑な動きに対応できない。では、小さい組合を多数つくればいいかというと、小さい組合では交渉力が弱いので、現在想定されている労働組合ではやはり対応できない。

そうすると、やはり私的自治にも問題があるし、今の労働組合にも限界がある。その二つを出発点にしながら、理念型としての理論を組み立てた点では非常におもしろいのですが、現状の認識、将来の展望においてちょっと楽観的すぎる。

脱退の自由の意味

唐津

とにかく、嫌だったらやめればいいんだというのでは、議論が終わってしまう。

大内

これ、評判悪いんです。

唐津

意思決定過程における民主制というのは、要するに多数決の原理でしょう。少数派に転落したら、もちろん多数を形成する可能性があるんだから、自分でとどまるか、出るかは、それは自己決定だという議論もあるんだろうけれども、その少数者の権利も、任意団体といえども、実際の運営上はやはり配慮しなければならない。法理論的にも、組合が決めたことについては決まったことだから、決める過程に対する民主制のチェックだけで十分だというのは、私には納得できないです。

大内

脱退が自由な団体でもですか。

唐津

もちろんそうです。労働組合と言っても、一企業の中の一組合ではなくて、企業横断的な組合とか、いろいろあるわけでしょう。また、組合が下したある判断については支持しないかもしれないけれども、ある決定についてはものすごくサポートしたいという組合員もいるわけでしょう。その中でいろいろな利害調整をやるべきであるし、また、やらないと組合自体も運営できないと思うのです。企業内に組合があって、それに入るのも入らないのも自由、労働条件は自分で決めたらいい、おそらく、大内さんの頭にはそういう前提があるんじゃないかなという気がするのですが。

大内

嫌ならやめればよいというのを強調されるとちょっと困るのです。やめないで、組合にいる以上は組合の決めたことには正統性があるというほうを強調したいのです。組合の決定の内容は組合内部での問題であって、組合員はそこにおいて自らの活動や言論で、組合の決定に影響を及ぼすことができるはずですから。

組合の内部問題と司法介入

唐津

そういう面では、裁判所による司法的な介入も認めるんですか。

大内

いや、これは組合内部の問題であって、裁判所が介入するべきことではないと思います。例えば、高齢組合員に厳しい賃金の不利益変更をしたとします。内部で討議したことを前提にすると、使用者と協約が締結されたのに、その後、高齢者が、使用者に対して、この協約は無効であると主張できるとするとどうか。組合員である以上は、後から使用者に対して、うちの組合は合意したけど自分たちには効力が及ばないと主張するのは、何か筋が違うという気がします。

水町

そこでは手続に関する民主制のチェックはするけれども、実体に対しては裁判所は基本的に介入しないという考え方なんですね。その点は私も賛成です。

大内

ただ、ユニオン・ショップ協定締結組合だったら、そうは言い切れない。だから、ユニオン・ショップ協定が認められれば、特別な救済法理が必要となるのです。協約に対する内容審査は、そういう観点からであれば正当化できると思います。

大内さんの言わんとするところはわかりますが、やはり組合を構成する組合員の利害は、決して均一ではありません。そうした多様な利害が絡んでくるとなると、やはり、単純に民主制とか多数決原理だけで処理するわけにはいかないでしょう。多数の利害を調整するメカニズムというのは、組合内部の組織だけでは限界があるわけで、そこをだれがどうやってチェックするのかが問題となります。

大内

それを裁判所がやるというのは、おかしいんじゃないかという気がする。組合内部でできなかったら、それはもうしようがない。

改めて、利害が共通する人だけが集まって組合をつくればいいということですか。

大内

団体とはそういうものではないかなと思うのです。労働組合は違うのだと言われると、そうかなという気もしますけど、私自身は、労働組合を団体という面でそれほど特別なものではないと考えている。なるほど、組合に負わされている使命は大きいですよ。ストライキ権は特別な権限だし、社会的使命も大きい。だからといって、団体の性格まで変わるとみる必要があるのかという気がしています。

労働組合は公的団体か

唐津

ただ、公的団体論にも関係するのですが、民主社会の一員である以上は、やはりいろいろな面で制約は受けるし、特に、労働組合という、特別な権限を一定の要件をクリアさえすれば享受できる存在であれば、やはり単なる任意団体ではありえない。

大内

そういう意味ではね。ただ、いろいろな権限があるということですと公的団体になってしまうのでしょうか。

唐津

もちろん直結はしないけれど、それは無視するわけにはいかないのではないか。単に私的な任意団体ということだけでは説明がつかないものがある。例えば、男だけの組合である、女だけの組合であるということ、それはみんなが合意しているから、それでいいじゃないかということで足りるのかなという気がする。

大内

男だけの組合には、団体交渉権が憲法上保障されない、ということになりますか。憲法28条から、こんな組合じゃなきゃだめだという結論を導きだすことはできないのではないかと思うのですが。

唐津

ただ、団結権などの労働基本権を保障する憲法28条は、憲法の中の規範ですから、法の下の平等を保障する憲法14条の規範も当然、そこで考慮しなければいけない。だから、労働組合は単なる私的な任意団体ではありえないだろうと私は思うのですが。

大内

男性組合は違憲ですか。

唐津

憲法の中での団結権保障や法の下の平等などのいろいろな権利保障は、それら全体が整合性を持っていることを前提としているのではないですか。

大内

だって、女性だって女性組合をつくれるんですから、どこにも差別はないでしょう。

たしかに、職種別組合がよくて、男性・女性組合がだめというのは、考えてみると変な話で、好きな連中と集まって組合をつくれるというのは原則でしょう。でも、労働組合として、より一般的な課題に取り組むとか、企業内の労働条件を統一的に決定しようとする場合には、男性や女性だけの組合による交渉で決めていけるかというと、やはりそれは否定せざるをえないと思います。

実は、私自身は大内さんのおっしゃることにもある程度賛成でして、労働組合法5条との関係で法律上の救済を受ける必要がないなら、性別や思想信条を組合員資格としたとしても、それ自体は法的に禁止されないし、労働組合ではないということにはならないと考えています。

大内

その点は、同じですね。

ユニオン・ショップが禁止されるとどうなるか

大内

あと、組合はユニオン・ショップを使わず労働者を集めろと言いたいのです。

唐津

それはわかります。

大内

チェックオフもやるべきではないと思っています。そうしてこそほんとうの強い組合ができる。

でも、それだと、たいていの労働者にとっては、かえってしんどいことですよ。そこまでしなければいけないのなら、組合なんか入らないし、やりたくもないということになるでしょう。

大内

私はそのへんの認識が違っていて、既存の組合は怠慢じゃないかなと思うのです。労働者のニーズにどれだけこたえるサービスを提供できているのか。

そういうこともあるでしょうが、それなら、ユニオン・ショップを禁止して、チェックオフもやめさせたら、理想的な労働組合が出現して、組合運動が活性化するかというと、おそらく、そうはならないと思います。かえって、組合組織の離合集散や組織率の低下の結果として、使用者に対する対抗勢力としての存在意義すら危うくなるのではないでしょうか。

水町

そうなって必然的に組織率が下がったときに、組合と企業が交渉した結果をどこまで拡張適用していくかという点も問題になると思います。4分の3という基準ではない、新しい拡張適用制度をつくらないと、団体交渉は形骸化してしまいかねない。

フランスでは、代表的だとされる五つの組合が、それぞれ1~2%ぐらいしか組織率がないにもかかわらず、その一つでも合意すれば、その労働協約が全体に拡張適用されるという制度をつくって初めて労使関係が成り立っています。

そういう場合には、組合が組合員だけの利益を代表するのではなく、労働者全体とか、組織対象として予定された労働者の利益全体を代表するという役割を果たすことになるわけですね。それに対して、わが国の企業別組合が有する最大の問題点は、企業の正社員の利益しか代表していないことにあります。私自身は企業別組合の従業員代表機能を重視する立場ですが、同時に、そのような限界性をも十分に考慮すべきだと思っています。