2002年 学界展望
労働法理論の現在─1999~2001年の業績を通じて(13ページ目)


10. 労働法の未来

紹介

水町勇一郎「法の『手続化』─日本労働法の動態分析とその批判的考察」

唐津

水町論文は、日本労働法にも、法の「手続化」という趨勢、傾向が読み取れるとして、そこにはどのような問題点があるのかを論じたものです。労働法の規制のあり方を根本的に問い直す視点を提示したものとして注目されます。

水町さんによれば、これまでの「労働法」は画一的な社会的モデル(「工場で集団的に働く賃金労働者(従属労働者)」)に対して、画一的に設定された規範(法律、労働協約等)を機械的・演繹的に適用するもの(いわば上からの規制)として形成されてきたのですが、社会的モデルが分散化・多様化して、社会における利益状況が複雑化・不確定化していくにつれて、このような画一的・硬直的枠組みでは、多様な利益状況を十分に反映できず、複雑化する諸問題にも対応できない。そこで、利益当事者に開かれた交渉の場で、多面的・複眼的で柔軟な議論・調整が行われることによって、複雑な問題を解決する道筋をつけるという方向での規制(いわば下からの柔軟な規制)が要請される、これが法の「手続化」であるということです。

前段については、一般に認識されていることで、何も目新しいことを指摘されているわけではありませんが、後段、すなわち法の「手続化」というコンセプトによって、21世紀の社会における労働法の姿をイメージし、法の「手続化」にかかわる日本固有の歴史的・社会的背景に特に留意し、検討すべき問題があることを論じている点に本論文の特徴と意義があります。

具体的には、まず、就業規則変更と整理解雇をめぐる近年の裁判例の動向において、当事者の協議・交渉過程を重視しようという動きが見られること(判例法の「手続化」)、また、近年の労働時間法制改正に見られる画一的・硬直的な実体的規制から、当事者による多様な交渉・調整を可能とする柔軟な規制への移行の動き(制定法の「手続化」)があることを指摘され、この日本労働法の「手続化」の背景・要因には、西洋先進諸国と共通する現代的要因とともに、日本社会に固有の伝統的要因、すなわち近代的個人主義に基づく西洋の法文化とは異なる日本固有の伝統的法文化が存在しているとして、特に後者が法の「手続化」を受け入れやすくする社会的土壌となっていると論じられています。

水町さんによれば、この日本の伝統的法文化の特徴は、第1に共同体における和を重視する点、第2に紛争解決の方法として話し合いによる柔軟な解決を重視する点ですが、これは労働関係・労使関係において、長期雇用される従業員を構成員とした企業共同体が形成され、そこでの労使協調的な話し合いによって問題の解決を図るという日本的雇用システムに受け継がれています。

日本の判例法と制定法の「手続化」は、その方向としては、より多様化・複雑化する社会状況への適応を可能とするための改革と言うことができますが、一方で、前近代的な性格を持つ閉鎖的・共同体的な話し合い文化が各企業内に残存しつつ、他方では西洋近代的な労働立法も実態としては社会に十分に浸透していない状態で、当事者による問題解決へ法の重心を移行していくということは、近代的な保護を後退させ、前近代的・封建的共同体社会への回帰へと進んでいくことになりかねない。ですから、水町論文では、日本では、このような前近代的な共同体社会に内在する危険・弊害、具体的には外部に対する閉鎖性、集団による個の抑圧、少数者の排除等を十分に意識し、これらの問題を回避しながら真の「手続化」の方向へと歩みを進めていくことが重大な課題になるとされており、日本における法の「手続化」に際しては、協議・交渉の開放性・透明性、および、協議・交渉における多元的・複線的調整の必要性が検討されるべきであるとして、具体的には労使協議や団体交渉は(複数組合併存の場合にも)同一のテーブルで利益当事者に開かれた透明性の高い形で行うようにすること、労基法上の過半数代表などについて、多様な価値・利益が反映される民主的な選出方法(例えば従業員の多様な価値・利益が比例的に反映される選挙方式)とすること、そのうえで協議・交渉の場において少数者の利益をも踏まえた多元的な調整がなされたかの審査(手続的公正さの審査)を裁判所等の第三者が行う等の法的制度化が今後の重要な課題であると述べられています。

なお、水町さんによれば、国家は市場、つまり当事者による交渉・取引によっては十分に守られない基本的な価値、つまり人間的・社会的価値の保障等の基本原則を設定するにとどまりながら、手続面で利益当事者による開放的で透明な集団的交渉・調整が、国家が定めた基本原則の枠内で公正に行われたかを事後的に審査するという方向で、その役割を変容させていく、法の「手続化」を進めていくべきものとしてとらえられており、規制の体系である労働法のとらえ方について議論を喚起しておられます。

水町論文は、法の「手続化」という視点から21世紀労働法を展望するスケールの大きなものですけれども、いくつか考えさせられることがありました。

第1点は、労働条件変更論や整理解雇理論における労使の当事者主義的な手続プロセスについての議論の展開が、法の「手続化」という法規制の転換を表象するものとして位置づけられるという指摘の妥当性についてです。といいますのは、労働法ルール(制定法ルール、判例法ルール、さらには自治的ルールを含めて)には、労働条件内容それ自体についての実体的規制と、労働条件内容形成についての手続的規制とが含まれていますが、これは相互補完的な機能を果たしているわけです。例えば、法システムのレベルでは、憲法27条第2項に基づく、国家による労働条件内容の直接規制としての労働者保護法があり、労基法は最低労働条件を保障する(実体的規制)という役割を担っておりますが、これと、憲法28条に基づく労働条件内容形成の手段としての労働者団結・団体交渉という労使自治の保障(手続的規制)とが相互補完関係にある。あるいは、具体的な規制のレベルでは、例えば、労基法における労働時間についての実体的規制と、この規制解除のための三六協定等の自治的、手続的規制との相互補完関係がある。けれども、その相互作用、あるいは補完関係について、実体的規制から手続的規制へと移行する、ここで言う法の「手続化」という現象を見て取ることができるのか、若干疑問があります。

特に、水町さんは、国家の役割を抑制的・謙抑的にとらえるべきであるとのお考えのようですけれども、その立場でも、例えば憲法27条2項による労基法、最低労働条件保障のための労働者保護法規の役割は変わらないのではないか。

第2点は、水町さんの言う法の「手続化」という視点ですが、法現象としては、法の「手続化」と言うよりも、手続の「法化」と呼ぶほうが適切ではないかと思いました。水町論文では、法の「手続化」を進めるために、特に日本的な歴史的・社会的背景から生じてくる問題点に留意して、先ほど紹介しましたような具体的な提言をされていますが、これは当事者自治、労使自治に法的な枠をはめる、法的にコントロールすることであろうと思われます。つまり、水町さんが今後進めるべきであると説かれる法の「手続化」とは、労使が自治的に利益調整をする仕組み、あるいは手続を法的にコントロールすること、言いえかえれば手続を「法化」することを要請しているものであるように理解されるわけです。ただ、ここでは、やはり国家の役割をどう位置づけるべきかという問題が出てきます。つまり、国家がどのような手続を法的にコントロールするのか、その基本的なポリシーのあり方はどうなのか、こういった問題をどういうふうに考えるかということは非常に難しい問題だろうと思いました。

ただし、水町論文からは、法の「手続化」を支持するかどうか、そのいかんにかかわらず、従来のいくつかの議論に見直しの視点が得られるのではないか、そういうふうに思われます。これが指摘したい第3点目です。一つは労使協議手続、あるいは労使自治による労働条件規制はたしかに現実のものとなっていますし、その重要性が増していることは誰しも否定できないところであろうと思いますが、水町論文は、その協議手続に対する法的なチェックポイントとして、理論的かどうかは別として、従来から日本の雇用労働関係の底流にあると指摘されているムラ社会、閉鎖社会の負の側面、多元的な価値観を排斥する、あるいは少数者を排除する、このような負の側面に目を向けさせるものです。

いま一つは、法の「手続化」という視点から、制定法ルールを新たに読み直すという可能性です。例えば、労基法の労働条件対等決定原則というのは、これまでは理念的な宣言規定と理解されています。しかし、この視点から、この原則は、例えば、労働条件決定に至る手続プロセスについての法ルールである、と理解し、したがって、労働条件にかかわる情報を開示するという義務がここに読み込めるとか、あるいは誠実交渉義務のような手続的なルールをここに読み取っていく、そういうことができるのかもしれないという可能性を感じました。

討論

「手続化」とは何か

大内

どうもありがとうございました。盛先生、いかがですか。

これは、これからの労働法の一つの方向性を示した有意義な論文だと思います。ただ、そのことを「手続化」と称することについては、若干の違和感を持ちました。「手続化」というと、いかにも実体法と対比された意味での手続法とか、プロセスというイメージが強いのですが、むしろ、実体法そのものの変化という側面も含まれているのではないかということです。水町論文では、規制手段、規制方法ということには触れていますが、規制主体そのものの変化もまた、現代の労働法の動向を特徴づけるものではないかと思います。例えば、労基法上の労使協定や、裁量労働制についての労使委員会決議がそうですが、法の枠組みのなかで労使が独自のルールを作っていくという意味では、その手続にとどまらず、規範の設定主体の変化や規範の相互関係という問題まで含めて考えたほうがよいのではないでしょうか。そうなると、「手続化」というよりも、何か別の表現があるのではないかと思ったわけです。そうは言っても、水町論文で指摘された内容については、かなり賛同するところがあります。

大内

最初は「手続化」と聞いてもよくわからなかったし、水町論文が述べていることを「手続化」と言うのが適切なのかなという気にもなりました。それはともかく、日本法において「手続化」が進んでいるという前提認識は正しいのでしょうか。例えば、就業規則の判例にある合理性法理は、決してそんな手続重視とは思えない。整理解雇法理でも、判例は、手続的な要件をむしろ最近軽視する傾向にある。それから、労働協約の不利益変更法理においても、裁判所は必ずしも労使の合意を尊重してはいない。動きとしてほんとうに「手続化」があるのかという疑問を感じます。

唐津

水町論文では、ヨーロッパで見られている法の「手続化」と類似した変化を、日本の最近の議論の中に見てみようということだと思います。ただ、労働法の各場面で、いろいろな労働条件についての実体的規制があるにしても、そのような実体的規制よりもむしろ手続的規制にシフトしていく、つまり国家が手を引いていくという流れがあってしかるべきではないか。それは水町論文の最後に出ている国家のスタンスの取り方にふれられています。そういう受けとめ方をしたのですが。

「手続化」と労使自治

大内

私も、やはり労使自治というのは重要だと思っていますから、国家が何でもかんでも介入すべきではないと思っている。だから、方向性としては水町論文で言われているのでいいと思います。ただ、現在、判例がそういう方向で進んでいるかというと、必ずしもそうではない。むしろ裁判所は、どんどん実体判断にふみこんでいってやろうという意識が非常に強いと思います。平成12年9月の最高裁の3判決(みちのく銀行事件・前掲、羽後銀行事件・最三小判平成12年9月12日労判788号23頁、函館信用金庫事件・最二小判平成12年9月22日労判788号17頁)は、それをはっきり示したのではないでしょうか。

それから、盛先生が指摘されたことにつながるのですが、「手続化」の議論でおもしろいのは、絶対的な価値というものを認めることに消極的で、手続の中から望ましい価値というのが出てくるという視点です。労使で下から実体法をつくっていくという発想ですね。他方でドイツ法的な影響を受けると、憲法理念などから演繹的にいろいろな結論が出てくるという、上からの発想となりますよね。日本法では多分、今のドイツ法的な発想のほうがまだ強いのではないかと思います。

唐津

ただ、水町論文でも、基本原則や枠組みでは、やはり国家の役割を認めているんじゃないですか。両当事者に任せていただけでは、まずいところもある。基本的な価値(人間的・社会的価値)の保障は、国家が担わなきゃいけない。でも、それ以外のところ、例えば、労働関係で起こる労使の利益対立を調整するのは、やはり当事者でありうるし、当事者で自由に妥協もできる。私は、当事者主義的な観点での紛争処理を重視したいと思っている。要するに個別的な自治の範囲内でいろいろなものを決めていく。ただし、その自治にも「枠」はあるよ、ということです。だから、ちょっと懸念しているのは、その「枠」が広がる、例えば、企画業務型裁量労働制の導入に際して多くの手続的な規制をかけているように、つまり、実体的規制は手を引くけど、今度は手続的規制でどんどん介入してくるという方向も一つ考えられるのではないか。

大内

その危険性はあります。だから、この議論は、やはり労使自治の重視という議論にしたほうがいいような気がします。今のリーガリズム的な手続の硬直化は、労使自治を重視すればかなり排除できる発想です。水町論文でも、手続の交渉の透明性とか、開放性などを議論をされているのですから。

唐津

ただ、判例法の「手続化」が見られるというところでは、先ほど大内さんが指摘されたように、労働協約のレベルでの協約内容についての裁判所の介入の仕方を見ていると、ほんとうにそうなのかという疑問は当然出てくるでしょうね。

大内

だから、議論の進め方としては、現実は「手続化」が進んでいない。進んでいないから、「手続化」を進めなければいけない、という議論だと思うのです。

唐津

しかし、「手続化」で労使双方に任せると、本来、労使自治は個を生かすためのもののはずであるのに、日本では特有の労使自治の内部で、逆に個を殺すような風土がある、そこはやはり気をつけなきゃいけない、というのが水町論文の指摘するところです。

それと、「手続化」に関連して労使自治という場合に、その労使自治の主体が何かということは、重要な問題です。例えば、ドイツだと、いわゆる開放条項ということで、労働協約に対して制定法とは異なるルールの設定を認めますし、フランスでも、同様に、特例協定と呼ばれる労働協約が問題とされます。立法的規制に代わる労使自治の主体は、あくまで団体交渉当事者なのですね。ところが、日本の場合、労使協定の締結や労使委員会委員の指名については、過半数組合に限らず、過半数代表者でも足りるわけですが、それらはもともとよって立つ基盤が違うわけで、同じように労使自治といってよいのかどうか、十分な自主的規範設定を期待できるのかどうかについて、疑問が残ります。水町論文では、いろいろその条件を提示していますが、やはり、労使自治に委ねるにしても、さらに大内さんがおっしゃるような正統性が何に求められるのかということが、一つの問題になると思います。

大内

さて、水町さん、われわれの議論は的を射たものとなっていますか。

水町

交渉の主体についてですが、私が念頭においている交渉の当事者は、今の労使とはまた違うものです。いわゆる過半数代表と言われているものとも違うもので、少数者の利益とか多様な価値・利益を吸い上げながら調整できるような新しい開かれたフォーラムを、どう制度化していくか。場合によっては解釈論の中でできることもあるし、新しく法をつくらないとできないところもある。前近代的な問題もあるし、逆に社会が多様化して脱近代的な問題も出てきている。その二つの問題を同時に踏まえながら、ありうべき集団的利益調整のフォーラムをどうつくっていくのかが、私が念頭に置いていた課題なんです。

大内

それは労働組合ではない?

水町

現行法上の労働組合とは違うものです。

大内

私は、そういうのは労働組合でいくという未来像を描いているのですが。

企業別組合を前提とした日本的従業員代表制ということもありうるでしょう。

唐津

水町さんの考えでは、それを制度的に構築するんでしょう。

大内

ネオ・コーポラティズム的な法政策形成というのは「手続化」になるのでしょうか。

水町

政労使という固定的な当事者を設定している時点で、既に私の「手続化」に反することなんです。利益にかかわるような人たちには情報を開示して、意見を出せるような場をつくることが大切。労働組合といってしまうと、組合の外の人が排除されてしまうので、そこをどうするか。

ただ、現在の社会の仕組みからすると、労使の全国組織がそれぞれの利益を代表して発言力を行使している限り、実際にそういう一般的な制度を実現することは困難です。よほど、強力な政治的イニシアチブがあるとか、特別の状況でもなければ、簡単にはいかないでしょう。

大内

それは、よく言われる社会的推進力がないということですね。でも、これは学者の議論だから、あるべき姿を提示して、いつかは社会的にコンセンサスを得ればいいじゃないですか。

水町

遠くない将来に。

大内

むだな議論かなと思いつつも、いつかは理解してもらえるかなと思いながらやる。

だいたい、社会の仕組みが大きく変わるというのは、よほどの社会変革があったときですよ。そういう意味では、日本は過去50年間全然変わっていない。

大内

だから、知的パワーで変えるのです。

水町

その意味では、情報公開というのは大きなターニングポイントになる可能性がある。政治的なプロセスが大きく変わっていく可能性はあると思います。

唐津

それは情報をみんなが共有できると、いろいろなリアクションが出てくる可能性があるということですか。

水町

情報公開したら、利益団体がエゴイスティックな発言をしにくくなるということです。だから、みんなが正論だと思うことは、政治的プロセスに乗って、社会的に実現される可能性が高くなる。我々としてもいろいろな発言をすることに意味があるし、同時に責任をもたなければならない社会になってくると思います。

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