2002年 学界展望
労働法理論の現在─1999~2001年の業績を通じて(9ページ目)


6. 健康配慮義務

紹介

渡辺章「健康配慮義務に関する一考察」

続いて、渡辺章先生の「健康配慮義務に関する一考察」を取り上げます。この論文は、前半では健康配慮義務の問題が、後半では健康診断の問題が取り上げられていますが、ここでは主に前半部分を紹介いたします。

この論文は、これまで健康配慮義務が安全配慮義務の下位概念として理解されてきたことに対して、この二つの義務をその法的根拠や、義務違反に対する法的救済の理論構成に関して、あくまで峻別すべきであると主張した点に意義があります。

まず、安全配慮義務とは、使用者による労働場所の「指定」、設備・器具の「供給」、労務提供過程での「指示・管理」のいずれかの面に労働者の生命、健康に対する危険が内在し、それが顕在化した場合(これは業務要因性と呼ばれます)、労働契約上の信義則を根拠に使用者に損害賠償責任を負担せしめるものとしています。

これに対して健康配慮義務は、具体的な内容またはその義務違反が問題になる状況によって、労働契約規範または不法行為規範のいずれかの性質を有する義務とされ、その内容は二つに区分されます。一つが、業務要因性のある危険からの労働者の保護、もう一つが、直接業務起因性のない労働者の肉体的、精神的素因ないし基礎疾病の発症、増悪の防止を含む健康自体の保護であり、その点で安全配慮義務と区別する意味があるとされます。

そして、労働安全衛生法の第7章に定められた、事業者の健康保持増進措置の性格を三つに分けます。第1が安全配慮義務の内容になるべきもの(65条など)。第2が安全配慮義務または健康配慮義務のいずれかの内容になるもの(65条の3など)、第3が健康配慮義務の内容になるもの(66条1項など)です。

労働者が健康を保持することは、本来、労務提供義務をその債務の本旨に従って履行するための労働者自身の注意事項ですが、特に、業務の客観的に危険な属性のほか、業務の量的・質的な「過重性の介在」によって自然的経過を超えて発症が増悪したと認められる場合は、まさしく労働災害防止義務の違反ないしは安全配慮義務違反の有無の問題ということになります。

次に、先ほどの第2の範疇ですが、これに関しては、労働者の既存の健康障害状態には、業務要因性のある負傷・疾病の場合と、本人の素因ないし基礎疾病による場合とがあって、当該健康障害防止措置は、前者については安全配慮義務の問題となり、後者については健康配慮義務の問題になるということです。

第3の範疇は、それ自体としては、労働者自身の健康に対する注意ないし自己管理に事業者が積極的に協力するよう義務づけられたものです。特に健康診断がその内容になりますが、その違反は、労働環境の場にふさわしい内容の、不法行為上の注意義務違反の問題として検討されるべき性質のものであると指摘されています。

このように、安全配慮義務は労働契約に基づく義務として、健康配慮義務は労働者の健康に対する一般的な不法行為上の注意義務というように明確に区別して位置づけた点に、この論文の特徴があります。従来の理解とは大きく異なるわけですが、今後、健康配慮義務が果たす役割を考えると、これは非常に重要な問題提起だと思います。というのは、最近、厚生労働省では、メンタルヘルスに関して、使用者の注意義務を強化する方向で政策を進めようとしていて、メンタルヘルスのための管理者を指定させるとか、そのための研修システムを立ち上げるといったことをしています。つまり、労働者の健康問題は、単に業務との関連性を問題にすれば足りるというものではなく、労働者が生活時間のかなりの部分を企業において過ごしていることや、これからの保健医療のあり方を考えれば、やはり、業務との関連性を超えた、労働者の一般的な健康に配慮する使用者の義務というものを問題にしていかざるをえないと思います。もちろん、そのことについて、どこまで使用者に負担をさせるべきかという問題はあります。しかし、全体の方向性としてはそちらに向かっていくでしょうし、そのような観点から、健康配慮義務をこれからより具体化していく作業が必要になると思います。

これと対照的な論文が水島郁子「ホワイトカラー労働者と使用者の健康配慮義務」(日本労働研究雑誌492号)です。水島論文では、過労死や過労自殺に関する裁判例において、しばしば言及されている適正労働条件措置義務、健康配慮義務、適正労働配置義務の内容を詳細に検討したうえ、特に健康配慮義務が、通常の労働関係においても使用者が労働契約上負う義務となるのかどうかという問題について考察した論文です。

それによりますと、使用者はまず、すべての労働者に対して適正な労働条件を決定することが求められ、健康診断を実施し、その結果に基づいて労働者を適正な職場に配置すべき義務を負いますが、これは安全配慮義務の履行として理解されます。しかし、それ以外には使用者は基本的には健康配慮義務を負うものではなく、ただ、労働者(特に基礎疾病を有する労働者)の申出があれば、その労働者の健康に配慮した適正な職場に配置する必要があるという限りで、健康配慮義務の存在意義を認めるというものです。したがって、健康配慮義務は、水島論文の場合には、疾病労働者が業務の軽減や配置換えを求める場合に、使用者がそれに応じなくてはならない根拠として機能するということになります。

もともと水島論文と渡辺論文は、基本的な発想が全く違っています。特に水島論文の場合には、判例による安全配慮義務が、とりわけ過労死、過労自殺というような極限状態を前提として拡大されてきたということに対する疑念があります。それをそのまま労働契約の内容に持ち込むわけにはいかないという観点から、一般的な労働契約上の義務としての健康配慮義務を限定的に解釈するという意図に基づくものではないかと考えられます。

したがって、同じ健康配慮義務というテーマを扱っていますが、二つの論文は全くと言っていいほどかみ合っていない。両者を比較することで、今後の健康配慮義務の性格、位置づけはどうあるべきかについて改めて考えてみる必要があると思いました。

それから、やや気になったのは水島論文の前提です。これは、大内さんも主張しておられたと思うのですが、安全配慮義務の内容とは、ほんとうに拡大されすぎているのかという点です。例えば、電通事件(最二小判平成12年3月24日労判779号13頁)では、上司が過労自殺した社員の状況を把握していながら、有効・適切な措置をとらなかったことが健康に配慮する義務違反に当たり、そのことが民法715条によって会社の責任になるという構成をとりました。本件に関しては、そこまで使用者に健康配慮の義務があるのかという批判があることはたしかですが、そのことが労働契約上の一般的な健康配慮義務の拡大をも意味すると理解してよいのかどうか。その点、疑問に残りました。

討論

健康配慮義務の及ぶ範囲

大内

どうもありがとうございました。ちょっと質問していいでしょうか。渡辺論文では、健康配慮義務の範囲を画定する基準が出されているのでしょうか。

明確には出していないと思います。要するに、これまで未分化だった安全配慮義務と健康配慮義務を区分したうえ、労働安全衛生法上の健康確保措置義務の内容を整理しようというのが論文の意図です。論文自体が、その整理だけで終わっていますので、それ以上に、健康配慮義務の範囲を画定する基準は取り上げられていません。

大内

渡辺論文は、労安衛法上の規定をいろいろ区分できると指摘したうえで、健康配慮義務が不法行為によって根拠づけられる場合については、基本的な発想として、人が他人と接触する場合にはそれにふさわしい注意義務を負うという、そういう注意義務から根拠付けられています。ですから、渡辺論文では労安衛法上の規定しか述べられていないけれども、このような根拠からすると健康配慮義務は、広い射程をもちうることになりそうです。一体どこまでこの義務が及んでいくのかということを知りたいし、それがはっきりしなければ、渡辺論文をどう評価するのかは難しいと思います。逆に、水島論文では、健康配慮義務をむしろ限定する発想が示されており、その点でははっきりしています。

唐津

労安衛法の中にはいろいろな義務規定がありますが、渡辺論文はそのえり分けをやろうとなさったのかなという気がします。健康配慮義務は、一般的に使われる用語ではあるけれども、この概念と安全配慮義務との相互関係はあまり明確ではありません。ただ、使用者が負うべき注意義務の内容として健康に対する配慮があると一般に理解されている。

水島論文では、これは安全配慮義務でカバーしてはいけないという発想があるのでしょうか。それは、契約上の義務ではなくて、不法行為上の義務として構成したほうがいいと考えられているのか。しかし、水島論文の理解の仕方が果たして適切なのかという疑問はあります。また、盛先生がおっしゃったように、安全配慮義務の内容はほんとうに肥大化したと見るべきなのかという点にも疑問があります。

大内

水島説は、健康配慮義務を不法行為法上の義務として論じていますか。

いや、契約上の義務だと思いますよ。おそらく、安全配慮義務に関する判例は、むしろ債務不履行ではなくて不法行為のほうで構成しているという前提に立って、それが労働契約上の一般的義務としての健康配慮義務の内容になっていく、という考え方に立っていると思います。だから、水島論文でいう限定的な健康配慮義務とは、あくまでも契約上の義務という理解だと思います。

唐津

そうすると、水島論文は、今まで安全配慮義務の内容になっているとして論じられていたもの、あるいはそのレベルで議論されていたものを、安全配慮義務という概念から取り出して、別の概念としてその義務の内容を制約的・具体的に論じたというところに意味があるのでしょうか。

大内

従来の裁判所で出てくるのは、損害賠償のケースですよね。そのときに出てくる安全配慮義務違反の議論を、そのまま使用者が履行すべき義務という行為規範のレベルにそのままもってきていいのかという発想が水島論文にはあるのだと思います。もう少し限定したほうがよいという主張なのだと思います。

唐津

電通事件の最高裁判決は注意義務の内容を論じていますよね。

大内

そうです。でも、高裁までは安全配慮義務という言葉を使っていたはずです。いずれにせよ、水島論文では、その義務の内容を、行為規範のレベルでは、例えば、疾病があるか、どんな病気をしたかなどの細かい健康管理は使用者に求められないとし、使用者に義務づけられるのは、せいぜい一般的な健康診断で出てきた情報か、あるいは本人の申告に基づいて配置の配慮をするぐらいではないかとするわけです。使用者に積極的な疾病状況の把握などをするよう求めるべきではないという議論であり、私はその点には非常に賛成できます。

そうなると、渡辺論文で取り上げられている労安衛法上の健康確保措置は、水島説ではどう理解されるのでしょう。それはあくまでも公法上の義務として理解されるのか、それとも、一般的な適正労働条件措置義務に関係するのでしょうか。

大内

水島論文でも、一般健康診断の実施は、安全配慮義務というより、公法上の義務として当然に義務づけられるということが前提なのだと思います。労安衛法上の義務が契約の内容となるかどうかは一般法理に委ねられるので、当然に労働契約上の安全配慮義務の内容となるというわけではないと思います。労安衛法の義務と労働契約の義務とは別の問題ですから。

でも、健康診断といっても、特別健康診断ではなくて、一般の健康診断が安全配慮義務の問題かどうかというと、やや疑問です。その点では、渡辺説のほうに説得力があると思うのですが。

大内

でも、渡辺説では、健康配慮義務としてはやらなきゃいけない。

適正労働配置義務

唐津

適正労働配置義務というのは、健康という観点からの適正さを言っているのですか。そうでないとすると、適正労働配置義務はどういう仕事をやらせるのか、それ自体を要求できるということになりますよね。

大内

非常に血圧が高い人にストレスのたまる仕事をさせないとか、そんなイメージではないですか。

唐津

申出があれば、それには配慮しなければいけない。

大内

水島論文の健康配慮義務は、申出があって初めて出てくる義務なのです。だから、使用者側から一方的に、従業員の健康状況を探索するところまでは義務づけられないから、それは使用者がやらなくても、責任を負わなくて済むということです。

唐津

水島論文では、疾病労働者が業務の軽減、配置替えを求める場合には、それには応じなければいけないとされています。その場合に使用者には健康配慮義務があるわけです。だとするなら、これは、労働条件の内容を変えるという意味で、労働者の側の一種の労働条件変更権に当たるように思うのですが、そういうものを肯定できるのですか。

大内

そこまで踏み込んでないのかもしれませんが、つながるのかもしれません。

唐津

例えば、労基法上、妊娠中の女性は軽易業務への転換を請求できる権利を認められていますが、申出というのは、それとパラレルに考えているのでしょうか。

大内

水島論文では権利があるとまでは言っていません。でも、申出があって、それに使用者側が適切な対応をしなければ義務違反になる。それによって損害が生じた場合、例えば、死亡したり、病気になったりするということになると、損害賠償責任が発生するでしょう。

唐津

そうすると、労働者が例えば配置替えを求めたけれども、その求めたものを与えられなかったから欠勤をした。それで、懲戒処分を受ける。その懲戒処分の適法性を争うという形で健康配慮義務の議論が生きてくるんですかね。

大内

そういうことだと思います。

ただ、健康配慮義務としては狭すぎるのではないですか。例えば、電通事件のように、だれが見てもおかしな状況になっているにもかかわらず、本人が何も言わない以上、使用者の責任を問えないというのはどうでしょう。それとも、その原因が業務に関連しているのだから、むしろ安全配慮義務違反の問題だというのでしょうか。

大内

電通事件のような場合なら責任を問えると思いますよ。でも、最近、使用者の健康配慮義務の範囲を広げようとする議論が強いわけです。それには行き過ぎの面もあるのではないか、と私は考えています。

水町

業務にかかわることと、業務にかかわらない労働者の人格や個人的な領域に当たるようなところとの線引きの問題については、水島論文では、使用者が権限として労働者を配置できるというところでは一定の義務を負うけれども、それ以上の、まさに人格やプライバシーにかかわるようなところには、使用者から積極的に介入することには懸念があるので、そこまで義務化するのは問題だとされています。渡辺論文は、逆に、少なくとも労安衛法で言っているようなことは不法行為法上の注意義務になるし、さらにそれから広がる可能性もあるという議論です。そこの線引きをどうするのか、それとも線引きしないで無限定に義務が広がっていく可能性を認めていいのかという問題は非常に深刻な問題だと思います。

唐津

ただ、健康配慮義務の問題は、個人的な事情である疾病にかかわることなのでしょう。労働者本人にとってそれがつらいから仕事の内容を変えてくれということも使用者は認めなければいけないんですかね。つまり、労働者が申出さえすれば、どんな内容でも使用者はいろいろ配慮しなければいけないのか。

安全配慮義務と健康配慮義務との違いはあるか

大内

そこも入っているんでしょうね。そういう意味では、配慮義務は労働者に優しいパターナリスティックな義務です。だからこそ、水島さんは、健康配慮義務という概念に押し込んで限定したのではないですか。安全配慮義務というのは、もともと判例では、やはり渡辺先生の言うような業務要因性と密接に関連をしている義務なわけです。そうなると、それ以外のところは、健康配慮義務という別の概念で受け皿をつくったほうがおさまりはいいのではないかと思うのです。

唐津

ただ、安全配慮義務の内容として、高血圧の人に対しては、それが増悪するような就労条件、例えば長時間労働であるとか、休みを取れないとか、代替要員がいなくて年休も取れないという状態であれば、やはりそれを改善する何らかの措置をとらなければいけない、と論じる。そのような措置を健康配慮義務としてではなく安全配慮義務として論じても、何の不都合もないんじゃないかという気がするんです。なぜ、そこで健康配慮義務なのか。例えば、基礎疾病がある人について、健康を害さないようにいろいろな措置を講じなければいけないということを、安全配慮義務として論じることは行き過ぎなのでしょうか。

大内

それは業務そのものの危険性に関係しないのではないですか。その意味で、このような義務はやはり一種パターナリスティックな性格のものです。安全配慮義務も健康配慮義務も、同じ配慮という言葉を使っていますけれども、安全配慮義務を業務要因性と関連づける考え方を純化するならば、それぞれの守備範囲を分けたほうがよいと思います。

そのような業務関連性がない場合にも、使用者に対して労働者の健康に対する配慮を義務づけるという意味では、健康配慮義務を独自の概念とする意味はあると思うのですが、それは必要かどうかという議論はありうると思います。

大内

水島論文では、それが必要な場合もあるということを言っているのではないですか。

唐津

そうすると、安全配慮義務の議論の中で、健康に配慮する義務の内容としてはこういうものがありますと言ってもおかしくはないんですよね。いずれも労働契約上の義務ですし。

大内

まあ、そうですけど。私は、安全配慮義務は決してパターナリズムから出てくる義務ではなく、業務の危険に関連するもので、使用者が本来負うべき義務だと思うので、パターナリスティックな義務である健康配慮義務と区別したほうがよいと思う。

業務が原因になって健康を害したという場合もありうるわけでしょう。その場合は、健康について使用者が配慮するのは、これは一種の安全配慮義務の一環ということになるわけですね。それ以外の場合にも、健康について使用者が配慮すること、例えば、メンタルヘルスの問題でカウンセラーを置くことを義務づけるという点では独自の意味はあるのではないですか。労働者が申し出たときに適正配置をすることだけが、健康配慮義務なのかなという疑問はあります。

唐津

私は、議論のメリットを考えているんです。たしかに、そういう概念を分けて、使用者の負うべき義務の内容を明確化するメリットはあると思います。権利義務の内容を明確化するという作業としては意味があるのだろうと。ただし、法律上の効果としてどのようなものを想定するかによるのですが、今言ったように配慮義務の内容を特定していくこととなるのであれば、それは安全配慮義務の下位概念として位置づけるしかないのではないですか。

大内

いや、両者は性格が異なるという見方もできるのです。

もう一つ、健康配慮義務を措定する意味があるとすれば、使用者がそれを履行しない場合に、具体的な作為を求める権利までも認める場合です。結局、損害賠償ということであれば、大きな違いはないわけですから。

大内

実際上の効果という点では、違いがないかもしれません。

水町

業務にかかわらない、いわゆる私疾病に関しても使用者には一定の義務を負わせることがあるとしていますよね。水島論文では、申告すれば私疾病も健康配慮義務によって、使用者の一定の適正配置義務が出てくる。他方、渡辺論文については、申告をかませないでも使用者は一定の義務を負うことがあるとしている。

大内

そこまで言っているのかどうかわからない。

水町

そこまで言っていると思います。そこが、画期的なところで、解釈論としてそれがいいかどうかを議論すべきなんだと思います。

大内

最初にも言いましたが、渡辺先生が健康配慮義務の範囲はどこまで考えておられるのか、私はよくわからなかったのです。

水町

労安衛法は最低基準になると言っている。それプラスどこまでいくかははっきりしていません。

法定基準が労働契約の最低基準だと考えると、一般的な健康についての配慮も契約上の義務ということになりませんか。

水町

なぜ不法行為上の義務と言っているのかも、あまりはっきりしない。一般人としての義務と言いながら、実際には使用者と労働者の関係の間で生じるような義務を想定しているのですから、契約上の義務と考えるのが素直なような気もします。

大内

やはり業務要因性で説明できないからだと思います。このようなものは、一つの議論としてはパターナリズムと言ってもいいと思うのです。それを渡辺先生はそう言わなくて、一般市民の義務としている。これは、労使間における使用者のパターナリズムと言ってもいいと思う。パターナリズムと言うと、そこでプライバシーとどう関係してくるのかという問題が出てくる。水島論文は、そこを意識して議論しているような感じなんですね。水島さんはパターナリズムという言葉は使っていませんが。

あまりパターナリズムを強調するのもどうかと思いますが。実際問題としては、労働者は生活時間の大部分を会社で過ごすわけですよ。そういう状況下で健康を維持するには、会社の協力は不可欠でしょう。病院に行くにしても、カウンセリングを受けるにしても。そういう意味で、それは無制限のものであってはならないとは思いますが、一定の明確な内容の健康配慮義務を考えるということは、善し悪しにかかわらず必要なことだと思います。

大内

プライバシーを侵害しないように注意をして会社が健康配慮を行いながらも、それが不十分だったと言われるとすると、使用者にはきつい。その意味で、健康配慮義務の及ぶ範囲を明確に画定しておく必要があると思います。

適正労働条件措置義務

大内

あと、水島論文で、重要だと思ったのは、適正労働条件措置義務がちゃんと履行されたら、適正労働配置義務違反は問題にならないと言っている点です。

たしかに、労働条件が適正であれば、過労死や過労自殺は問題とならないわけですね。しかし、適正な労働条件とは何でしょう。

大内

健康配慮の問題の核心は、実は、適正労働条件措置にあるのではないでしょうか。例えば、電通事件も、労働時間の管理をちゃんとしていれば、もしかしたら起きなかったかもしれない。三六協定の管理もいいかげんだった。あの事件は、労働基準法上の労働条件保護をきちんとやっていれば起きなかったかもしれない。こういうのが適正労働条件措置でしょう。

しかし、理論的には、適正労働条件措置義務が尽くされていないから、過労自殺について法的責任が認められるというようには直結しないように思います。そこはやはりもう一段、結果を責任に結びつける論拠が必要になってくる。だから、電通事件の場合には、上司が健康状態について十分知っていながら放置したということを媒介として、法的責任を認めるという構成をとったわけです。

大内

電通事件は、会社のほうで、まさに指揮命令の仕方に問題があったわけですよね。だから、そこに業務要因性があると思うのです。だから、あの事件は安全配慮義務違反と言っても、全く構わないケースなのですが、あの事件の最高裁判決から使用者が一般的な従業員の健康を把握する義務があるとまでは言えないのではないか、ということです。