2000年 学界展望
労働経済学研究の現在─1997~99年の業績を通じて(9ページ目)


第2部 90年代後半期日本の労働経済研究─全体的特徴と今後の方向性

玄田

最後に、90年代後半の日本の労働経済学全体の特徴と今後の方向性について、皆さんからご意見をいただきたいと思います。

海外と日本との研究動向比較

三谷

この3年間の労働経済学の研究を概観して感じたのは、海外の研究動向と日本の研究動向が、割に波長が合ってきたというか、同じような方向に向かっているなという気がしました。たとえば企業内訓練や、解雇規制、こういった問題も最近海外で盛んに研究されています。雇用創出・喪失の議論は、ヨーロッパでは1980年代に盛んに研究された分野で、むしろそこは日本が欧米に近づいていったということかもしれません。研究動向が非常に似てきたなという感じかしています。そういう意味では、今後もっと国際的な共同研究が盛んになってもよいと思います。最近EU諸国などは、盛んに国際共同研究をやっていますよね。

もうーつは、国際比較の視点が少し目立たなくなってきたということです。日本の労働市場を分析するうえで、国際的に見てどうなのかという視点は必要なのですから、もう少し国際比較をすべきではないか。それも日米だけではなくて、ヨーロッパとの比較研究をもっと精力的に行ってもいいのではないか。幸いにEU諸国では、最近やっと労働統計が整備されてきて、環境ができつつあります。その意味で日本労働研究機構で、小池先生たちが行われたホワイトフカラーの技能形成に関する国際比較研究注38などは、非常に興味深い研究だと思います。

研究手法の動向とデータアーカイブの利用可能性

川口

3年間の研究を見て、研究手法というところから印象を述べたいと思います。やはり個票を使った研究やパネルデータを使った研究が非常に増えたという印象を受けました。個票に関しては、すでにあるデータを借りてきて使うというだけでなく、自分たちでアンケート調査をして集めたり、企業で調査して集めた個票を使った研究もいくつかありました。玄田さんも言われましたけど、どういうデータをつくるか、集めるかで、研究の善し悪しがかなり左右されるようになってきたと思います。

ただ、パネルデータについては、企業に関連したデータは公表されていてパネルにしやすいのですが、個人の労働供給や職探しをパネルでやろうとしたら、これはかなり集めるのが大変で、まだ外国と比べると、そういうデータの利用は遅れているなという気がします。

玄田

その意味では、樋口美雄さんたちの家計経済研究所の「消費生活に関するパネル調査」など貴重ですね注39

川口

データヘのアクセスという点からは、東大社研のデータアーカイブ注40が注目されています。今年できたばかりで、利用者が少ないということですが………。

玄田

佐藤博樹さんたちが一所懸命にやっているICPSR(Inter-University Consortium for Political and Social Research:政治・社会調査のための大学協会)の大学への普及努力も大切な仕事です。一定の金額を大学が払うことによって、研究者のみならず大学院生が膨大なパネルデータ、個票データにアクセスできるというのは重要な試みで、今後もっといろいろな大学に広がればいいですね注41

川口

特に大学院生は、これまで個票は入手しにくかったと思うんですよ。データアーカイブは、大学院生も指導教員の推薦があれば使えるということですから、積極的に使っていただきたいですね。

理論研究と実証研究の均衡を求めて

玄田

川口さんは日本のオリジナルな理論研究の必要性を感じますか。

川口

労働経済の理論というのは、実証分析とセットで発展しているように思います。だから、日本でもパネルデータとか、もっとそういうデータが整えば、それを使って分析できそうな理論ができてくると思うんです。実証不可能な理論をつくっても、あまりみんなが評価してくれませんから。

阿部

僕は、パソコンの技術革新が速くて、以前に比べて計量分析するのが簡単になったなと思うんですね。僕が大学院生のころは、大型計算機を使っていて、計算するのが大変で、プログラムを覚えるのも大変でした。もっとも僕たちの前の世代になると、最小二乗法もプログラムしないと計算できなかったわけですが。

そういう意味では、今の大学院生はデータの構造をあまり知らなくても計算できてしまうというのがありますね。

それから、難しい計算をやっているんだけれども、たとえば誤差項をチェックするとかがおろそかになっていたりとか、もっと統計処理をしっかりやらないといけませんね。「統計パッケージがあるから何でもできるよ」という人もいるかもしれませんが、僕はそれでは困るなと思います。理論と実証を考えてデータマイニングしていくという点が重要ではないかな。

玄田

それはこれからの労働経済学教育のあり方とも関係しています。大学院生でも個票データが使えるようになってきているのはいい。でも実証分析の追試が難しいような状況では、その結果は信じるしかないわけで、研究での最低限のマナーを守るような「教育」がなされていないと大変なことになる。結果が容易に出る分、誰も致命的なエラーに気づかないことがあると、経済学の信頼性にもかかわる大問題になります注42

ケーススタディと労働経済学の接合点

阿部

それから、ケーススタディが増えてきたのを、われわれはやはり重要視しないといけないのかなと思いますね。

ちょっと会社を回ってみても興味深い発見がありますし、多分ケーススタディを積み重ねていけば、理論家への話題提供はできるのではないか。ケーススタディにはデータ以上に質の高い情報が含まれている可能性もありますね。たとえば、大内さんの論文注43を取り上げると、彼女はしつこくて……。

玄田

しつこくて?(笑)

研究者の「こだわり」

阿部

そのしつこいというのは大事だと思うんですよね。しつこいので、彼女は実際に今までやられなかったような、ケースの追跡調査ができた。そういうのはかなり評価できるんじゃないかなと思います。彼女は労働経済学者ではないですけども、今後の研究も期待されます。

あと、社会学が専攻の西川真規子さんがとりくんでいる問題注44にも、経済学でも考えられるような課題がいっぱいある。

玄田

たとえば?

阿部

ジェンダー論の枠組みで、日本とイギリスの女性労働を比較するのですが、イギリスには女性職が多くて、日本は中間職だったり、男子職が多いらしいのです。それで、M字型に落ち込む日本と、落ち込まないイギリスを比較するとおもしろいという話なのですが。イギリスでは女性職が多いので賃金が低いのですが、かえって再就職のアクセスがしやすいのですよ。日本の場合は、中間職や男性職が多いから、賃金も高いんだけれども、アクセスしにくい。だから、日本ではM字型ができやすいのではないかという話です。日本はM字型が残っているのはなぜかという問題は、まだ経済的にはうまく説明できなくて、たとえば需要と供給をジェンダー論で話してみるとそういうふうに見えてくるのですね。

それから、安倍由起子さんなどがとりくんでいる大学銘柄効果というのも、難しいです。やろうとしていることは、大学教育そのものの効果なのか、それともシグナリングとしての効果なのかを分けたいということなんです。それをどうやって分析できるかというのは、研究者のしつこさにあって、安倍さんなどはいろいろやられていますけれども、まだ解決されない問題が多い注45。ここにもいっぱいやるべき問題がある。技術革新の話で、中馬論文によると、統合化されたスキルが重要になり、高度化しているわけですね。ある企業は、女性の一般職でも四大卒しか採りませんと言っている。そうすると大学の効果とか、教育の効果って、今後より重要になる可能性が高い。この前の竹内洋さんの話注46もすごくおもしろかった。他の学問分野と連携していくことも重要だと思います。

労働経済のマクロ研究と経済政策

玄田

これまでの話題の中でもう少し議論したいのが、労働経済のマクロ研究という点です。マクロ的な視点からの労働経済学が少ないという話だったのですが、実際、最近の労働経済学の教科書ではマクロのパートは少なくなって、応用ミクロ経済学の一分野のように労働経済学がなりつつある。この点を、三谷さん、どう思いますか。

三谷

もっとやるべきだと思います。特に政策との接点といいますかね、政策を考えるうえでは、やはりマクロで考えないと意味がないわけですね。個別でやってミクロレベルでいかに改善しても、結局はマクロの日本全体で改善しなきゃいけないものですから、そういう意味では、非常に重要だと思います。特に労働需要側の分析が重要になってくると思います。

幸い日本の場合はデータも結構あるわけですから、もっともっとマクロに目を向けるべきだと思います。そのとき、併せて政策への志向というか、あるいはもっと問題意識を強烈に持つというか、特に若い研究者たちが、政策的な問題意識を強烈に持てば、マクロ的なところにも目がいって、いい研究ができるのではないかという気がしますが。

玄田

僕が大学院生のときは「下手に政策に手を出すな」といわれました。きちんと理論的なバックボーンを備えてから政策を考えないと根なし草になっちゃうという教育を受けた記憶がある。政策問題に対して労働経済学者はどう付き合っていけばいいんだろうか。

川口

労働経済学というのは、政策にどう応用するかという意識でやっている人が多いように思います。論文を読んでも、現在必要とされている政策というところからテーマを見つけて研究されている方は多い。

玄田

自分はどうなの。

川口

僕はちょっと好き勝手なことをやっているんですよね、例外的な方で……。(笑)

玄田

阿部さんは、マクロ研究とか、政策研究についてはどういう考えですか。

阿部

そうですね、個人的には組織の経済学だとか、人事の経済学とか、マイクロな問題を実証したいなという気持ちがある。でもそれだけじゃなくて、マクロ経済にマイクロな要素がどういう影響を与えているのかを考えていく必要もあります。

ただし、浜田・黒坂の研究注47にもありましたが、オーソドックスなスタイルの研究もやるべきですね。マクロ経済学にあまり詳しくないのですが、現在では教科書をちょっと読んでも、浜田さんたちとは違う視点(マクロ経済のミクロ的基礎という視点)からしか分析されていませんからね。

日本の労働経済学の課題─結びにかえて

玄田

最後に一つ。日本の労働経済学の改善すべき点があるとすれば、どの辺ですか。こういうところはもっと変えていかなきゃいけないんじゃないかというのがあれば一言。

阿部

僕自身の反省点としては、太田さんのような理論パートと実証パートがきれいにつながっている論文というのがすごく少ないことでしょうか。後輩にはちゃんとそういうのを頑張ってやってほしいなという気がしますね。

それから、もう一つ。ゲーム理論や契約の理論だとか、応用経済学で出てきた理論仮説を実証分析したいなとも考えています。その場合、理論と実証がどうくっついてくるのか、たとえばゲーム理論できれいな結果が出てきますが、そんなにきれいな現実は観察できないわけです。だから、理論と実証の間をどうやって結びつけるのかを、今後は詰めるべきですね。

玄田

川口さん、どう?

川口

あまり偉そうなことは言えないのですが……。

玄田

偉そうに言ってください。

川口

さっき阿部さんがおっしゃっていた「しつこい研究」というのが大切だと思います。いろいろな方向から一つのテーマを追いかけていくというのが。たとえば野田(知彦)さんなんかは労働組合の研究で、しつこいでしょう。

玄田

しつこいね、あの人は。

川口

世の中の流行がどうであれ、政策的な必要性がどうであれ、私はこのテーマをずっとやるんだというようなのがもっとあっていいんじゃないですか。女性労働をやっている人はわりとしつこい人が多いんですけどね。

玄田

しつこいね、脇坂さんも。

川口

だけど、その利点というのは、一つのテーマを掘り下げていくと、経済学の手法だけじゃなくて、社会学だとか、心理学だとか、いろいろな分野の研究を応用できたりするんですね。だから、一つのテーマを追求するというのは非常に大事ではないかと思います。

玄田

三谷さんは?

三谷

データの話ですけれど、先ほどから最近の労働経済学では個票データやパネルデータを用いて分析することが多くなっていて、こうしたデータにアクセスできることが研究の成否を決めるような話が出ていましたよね。逆にこうしたマイクロデータを使うことに腐心して、公表された集計データをうまく使って分析することをおろそかにする風潮があるように思うんだけど……。たとえば賃金センサスの公表データでもまだまだ十分使い切っていないと思うんですよ。誰かの言葉じゃないけど、ほんとうに「骨までしゃぶって」使い切ればいい研究がいろいろできると思いますね。(笑)

玄田

Kさん、編集の立場から労働経済を見ていてどうですか?

編集部K

聞いてみたいと言うよりも、これは私の全くの感想なんですけれども、今まで労働経済学というと、何か雲の上というか、理論だけがあって、要するに実生活にどういう影響があるのかなというのをここ2、3年前からよく感じていたんですね。この研究は、われわれの生活に何の役に立つんだろうと。まあ、ちょっとこれは言い過ぎかもしれませんが、ほとんどの大学は、われわれ国民の税金で運営されているわけですよね。それがわれわれにどういうふうに還元されるのかと思うことがよくあって、ただ、最近は、われわれの生活と経済学の研究とが、少しずつ何が合ってきているのかなというイメージを持つようになったのが一番大きいですね。

三谷

でも、どこかでつながっていなきゃいけないはずですよね、現実の問題と。昔ある数学者が言った言葉ですが、「問題が解けなければ、理論は要らない」。だから、強烈な問題意識を持って理論を組み立てるというのが、必ず必要なんでしょうね。

玄田

Oさんはどうですか?編集しているとあるでしょう、いろいろ。

編集部O

労働経済学に限ったことではないと思うのですが、あらゆる科学につきものの専門用語が僕には気になります。今日ちょっと話に出た言葉で、「制度の補完性」という言葉が出てきましたが、一見するだけでは意味が専門外の人には分からないと思うのです。編集をしているとそんな用語に何度もぶつかるのですが、何度か読み返してみると、やっと、何かすごくいいところを突いているんだろうなと思うときがあります。そして、何となくわかってくると、やはり必要な言葉なんだと気づく。何気ない専門用語にも深い意味があるのだということを、どのような媒体でもいいですから、教えてほしいという気持ちがいつもあります。

阿部

JILの雑誌に書くというのはどういうことかと考えると、難しい言葉を使いながらも、やはりイメージさせやすいような書き方が必要なんですかね。

玄田

労働経済学というのは、働いている人みんなが専門家ともいえるでしょう。個々人の持っているイメージを経済学の立場からわかりやすく示してほしいというニーズは、強まっている気がします。長時間にわたり、ありがとうございました。

この座談会は1999年11月19日に東京で行われた。

脚注

  • 注38 日本労働研究機構(1997)『国際比較:大卒ホワイトカラーの人材開発・雇用システム─日、米、英、独の大企業(1)事例調査編』調査研究報告書No.95、 日本労働研究機構『国際比較:大卒ホワイトカラーの人材開発・雇用システム─日、米、独の大企業(2)アンケート調査編』調査研究報告書No.101。
  • 注39 家計経済研究所(1999)『現代女性の暮らし方と働き方─消費生活に関するパネル調査(平成11年版)』。
  • 注40 東京大学社会科学研究所の、SSJデータ・アーカイブの、ホームページアドレスは、 http://ssjda.iss.u-tokyo.ac.jp/新しいウィンドウ である。
  • 注41 ICPSRのホームページのアドレスは、http://www.icpsr.umich.edu/新しいウィンドウ
  • 注42 労働研究の教育に関する特集を、本誌2000年4月号で予定。
  • 注43 大内章子(1999)「大卒女性ホワイトカラーの企業内キャリア形成─総合職・基幹職の実態調査より」『日本労働研究雑誌』No.471(論文データベースにて全文参照可能)。
  • 注44 Nishikawa, Makiko (1997) “Occupacional Sex Segregation; A Comparative Study between Britain and Japan,” unpublished Thesis at University of Oxford.
  • 注45 安部由紀子「就職市場における大学の銘柄効果」、中馬宏之・駿河輝和編『雇用慣行の変化と女性労働』東京大学出版会。
  • 注46 第8回労働経済コンファレンスでの竹内洋氏の報告による。
  • 注47 浜田宏一・黒坂佳央(1984)『マクロ経済学と日本経済』日本評論社。 または、 Hamada, Koichi and Kurosaka, Yoshiou (1984) “The Relationship between Production and unemployment in Japan: Okun's Laws in Comparative Perspective,” European Economic Review. Vol.25, No.1, pp.71-91 参照。
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