2000年 学界展望
労働経済学研究の現在─1997~99年の業績を通じて(7ページ目)


6. 賃金・昇進制度・技能形成

論文紹介(三谷)

馬駿「技能形成のためのインセンティブシステム─日本の電機企業M社の事例研究を通して」

日本の大企業製造業の生産労働者の技能形成とそれに対するインセンティブメカニズムに関する仮説を提示し、電機企業M社の事例研究でその検証を試みている。明らかになった点は、以下のとおりである。

[1] 現代製造業の企業では、従業員は基本的技能、統合的技能、組織的技能という3種類の技能が要求されており、基本的技能はできるだけ従業員全員に身につけさせ、統合的技能は多数の従業員に幅広く身につけさせる。さらに、組織的技能は生産現場の組織構造に限定される一部の従業員に身につけさせるという方針をとっている。

[2] 日本の大企業における技能形成のためのインセンティブシステムは、次のようになっている。すなわち、基本的技能を形成させる段階では、絶対基準によるランクアップ方式、そして、統合的技能を形成させる段階では、ランクアップ・スピード競争方式を用いており、さらに、組織的技能を形成させる段階では、ランク・オーダー・トーナメント方式を用いている。

本論文の特徴は、 [1] 大企業の生産労働者の技能をさらに細分化して基本的技能、統合的技能および組織的技能に分けられることを示したこと、 [2] ランクの昇格のインセンティブが単にランクアップ・スピード競争によるものだけではなく、ランク・オーダー・トーナメント方式による部分もあることを示したこと、 [3] 企業内のキャリアや昇進・昇格に関する詳細なパネルデータを用いて昇進確率関数の推計など計量的な分析をしていることである。

中馬宏之「技能蓄積・伝承システムの経済分析」

この論文は最近の不完全競争的な市場下での人的資本投資に関する理論を援用して、現実の技能蓄積・継承問題を当事者にゆだねるだけでは十分に解決できない基本理由について整理検討している。かつ、政府の訓練政策の妥当性についても議論している。

労働市場と資本市場が完全競争的であるかぎり、人的資本への投資水準は社会的に最適なものとなり、政府が介入する余地はない。しかし、より現実的な労働市場の不完全性を仮定すると、当事者同士の決定にゆだねたときに人的資本への投資水準が社会的に最適な水準を下回る場合がある。

たとえば、サーチコストのような取引費用が存在すると、労働者による一般的人的資本投資の投資効率が低下するが、企業が労働者に代わって一般的人的資本への投資を行うため、人的資本への投資水準が社会的に過少であるとは限らない。しかし、同時に、労働市場がかなり流動的な場合での、他社からの引き抜きの外部性や、また、労働者が一般的人的資本に投資すればするほど、企業が人的資本に投資した労働者を雇いやすく、マッチングすることが可能になるマッチング外部性が存在するような状況では、すべての投資便益が当事者に還元されず、人的資本への投資水準は社会的に最適な水準を下回る可能性がある。さらに、能力情報(あるいは人事考課情報)を企業が囲い込んでいる場合や、スキルがいろいろな一般的技能の組み合わせ(ミックス)でできているスキルミックスの企業特殊性がある場合も、一般的人的資本が企業特殊化する。

そして、引き抜きの外部性が大きければ、先と同様に人的資本投資水準が社会的に最適なレベルより低くなる可能性がある。このような状況下で政府が雇用を流動化させるための政策(たとえば、政府が企業の人事情報を、何らかの試験によってオープンにするなど)を行うと、人的資本投資が過少になる可能性がある。

本論文の特徴は、 [1] 最近の人的資本理論のサーベイにもなっていること、 [2] 不完全競争モデルを想定して、人的資本投資が過少になる場合を整理していること、 [3] 市場の失敗のみならず、政府の失敗についても論じていることである。

紹介者コメント

三谷

まず、内部労働市場における賃金・昇進制度や、技能形成制度等の経済学的研究は、1980年代後半から90年代初めにかけて大きく進展しました。今回の学界展望の対象期間でもさらにそれが進展していったということが言えると思います。

一つは、特に経済環境が厳しくなるなかで、大企業を中心として、成果主義や能力主義に対して、どういうふうに制度が変わってきているかを経済学的に分析するとどうなのかという研究も行われています。こういう内部労働市場の分野では、アンケートやヒアリング調査などで研究者が独自に集めたデータで分析が行われる傾向が特徴的であると言えます。賃金・昇進制度も非常に大事ですが、ここでは、21世紀の日本経済にとって、ますます重要性が増すと考えられる技能形成に関する論文を2本取り上げました。

技能形成に熱心であるというのは日本の大企業の非常に大きな特徴ですが、そこでのインセンティブメカニズムがどうなっているのかについても、非常にすぐれた研究がある。馬論文は、小池和男先生の研究注31青木昌彦先生の研究注32あるいは亡くなられた浅沼萬里先生の研究33)を一歩進めて、さらにもっと詳しくインセンティブメカニズムを見てみようということで、理論的な整理と、ある電気機械メーカーの事例研究を通して実証的な分析をしています。

この中で明らかになったことは、大企業ブルーカラーの中での技能は、基本的技能、統合的技能、組織的技能の三つに分けられるとの仮説を提示しており、日本の大企業の生産労働者の技能と言われているものをさらに細分化し、それぞれの技能に対して、インセンティブメカニズムが違うということを明らかにしています。

そして、1企業だけですが、その中でのキャリア、昇進・昇格に関する非常に詳細なパネルデータを使って、計量経済学的な分析もしています。ただ、馬論文には、賃金の分析がない。ですから、査定によって定期昇給幅が違うというインセンティブメカニズムはどうなのかということも言えます。さらに、ほかの企業についてどうなのか、あるいはホワイトカラー労働者についてはどうなのか。さらに広げて、国際比較を行ったらどうかというコメントができるかと思います。

次に、中馬論文は、これだけで、最近の不完全競争下での人的資本理論のサーベイにもなっており、不完全競争モデルを想定して、人的資本投資が過少になる場合を整理しています。市場の失敗だけではなくて、政府の失敗についても論じています。もうちょっと理論を精緻化する必要はあると思いますが、逆に言えば、いろいろやる余地がある。理論的な結論をもう少し実証的に検証することも必要かと思いますし、国際比較をしていくということも大事かと思います。

討論

昇格ツリー研究の重要性

阿部

馬さんのに似た論文を中馬さんが書いています注34が、あれで見ると、結構、ブルーカラーの選抜って早いんですよね。入社後、3~5年ぐらいで選抜がある企業もある。けれども、馬さんの図2(『日本労働研究雑誌』No.450、p.52)を見ると、この会社の選抜時期がすごく遅いんですよ。

玄田

何が選抜のスピードを決めるのかという点ですか。

阿部

何が選抜のスピードを決めるのかについて、もう少しいろいろな会社のデータを集めて分析すると、産業の特性なのか、企業規模なのか、いろいろ見えてくるのではないですか。これはこれですごくいい分析ですけれども、今後、いろいろな会社のデータを集めて、昇格ツリーを分析する必要があると思います。

もう一つ、馬論文の良い点は、計量分析している点です。今まで、こういうものはヒアリングという形で行われるのが多かったのですが、今後はいろいろな会社のデータを集めて計量分析するのも興昧がありますね。

中馬先生の論文も、納得しちゃうなという感じですけれども、でも、もう少し精緻にやっていただくとありがたいですね。中馬先生に怒られちゃいますけれども、書いてあることはたしかにそうだなと思うんですが、たとえば川口さんがきれいにモデル化するといいんじゃないかなと思ったりします。

川口

馬論文は、仮説が非常におもしろいですね。技能の違いに、昇進制度の違いを対応させている点が。ただ、どうしてそういう昇進制度なのかという点を、もう少し説明してくれたらなという気がしました。たとえばこのランクアップ・スピード競争方式は馬さんご自身の言葉なんですか。

三谷

そうですね。

川口

これが、ランク・オーダー・トーナメントとどう違うのか、僕自身はよくわからない。たとえば、ランク・オーダー・トーナメントで、1年間競争して、負けた人がまた2年目に同じランクで競争に参加するというようなランク・オーダー・トーナメントを繰り返すようにも思えるのですが、全然違うイメージで書いているのでしょうか。

それから、ラジアとローゼンのランク・オーダー・トーナメント注35は、技能形成のインセンティブではなく、労働のインセンティブを引き出すのが目的です。それを、技能形成のインセンティブとして、モデルをつくっているのは非常におもしろいと思いました。ただ、技能形成のインセンティブという場合、技能というのは、多分、出世して、上のランクで必要な技能だと思うのですが、下のランクでの業績で評価するのか、それとも、上のランクで必要な技能をその人が下のランクで身につけているかどうかを評価するのか、どちらなんでしょう。

三谷

馬さんに代わって二つお答えしますと、ランクアップ・スピード競争方式というのは、ランク・オーダー・トーナメントの繰り返しではないと思います。

これは、統合的技能ですから、知的熟練ですよね。それをできるだけ幅広く、できるだけ大勢の労働者に身につけてもらいたいので、一定の統合的技能が形成されたときに与えられるランクまでは、ほとんど全員上がるわけです。ほとんどの人がゴールまで行くわけですが、そこまでの到達時間が違う。それで技能形成へのインセンティブをつけているわけです。

川口

最初の段階のランクアップ方式とも違うわけですね。

三谷

ランクアップというのは、ほとんど2年ぐらいでそこに到達する。

玄田

その時期はもう共通なんですか。

三谷

もうほとんど同時期に行くんですね。だから、行かないのはよほどの例外的な人です。

川口

なるほど。ランクアップ・スピード競争の期間のほうが長いんですね。

三谷

ですから、ミクロ的に見れば、毎年、査定をして、それで、昇格のときに査定が入ると思います。

でも、最終的なところ─この事例ではR、というランク─までは、ほとんどの人が到達する。そういうふうにしないと、みんな統合的技能を習得しようとしないですからね。

それから、もう一つの、組織的技能をどこで評価するかについてですが、この事例ではR、のところで評価しているんです。

川口

そのランクではあまり必要がないけれど、上へ行って必要になる技能を、ですか。

三谷

ですから、R、のランクに上がると指導予備あるいは生産ラインのーつの小工程のリーダーといった仕事を与えられ、自分の部下を持ち、指示、監督する技能を身につけるチャンスがあるんだそうです。そこでの適性を見て、ほんとうのリーダーに昇格させるかどうかを考える。そこのところを詳しく分析していたように思います。

川口

そうですか。

玄田

基本的技能、統合的技能、組織的技能というのは一般化した概念ですか。

三谷

いや、言葉自体は浅沼先生の本の中にも出てきますが、昇格昇進との関連でこれほどシステマティックに使ったのはおそらく馬さんが初めてではないかと思います。

阿部

今まで、スキルというのは一言で済まされていたじゃないですか。

玄田

一般か、特殊か、ですね。

阿部

だけども、よくよく見ると、一般的にもなりそうだし、特殊的にもなりそうなスキルってある。そこをきっちりやらないといけないということですね。

玄田

技術的に一般と特殊と言うときもあれば、経済環境や外部性のあり方によって、一般が特殊になったり、特殊が一般になるはず。

阿部

それを、人的資本理論に応用してみる。技術革新や情報化によって、要らなくなるスキルが出てくるわけですね。そこを見つけたい、経済分析したいというのがありますよね。まだ道半ばですけれども、そういう分析が、今後は活発に議論されるんじゃないかなと思います。

玄田

馬論文は、ネーミングの妙というのがある。

川口

うまいね。

玄田

これだけ労働を取り巻く環境変化の中でファクト発見を求められているとき、労働経済学者も状況を的確に表現する新しい言葉をこれから考えていく必要があるのかもね。

阿部

最後に、組織的技能がブルーカラーでも結構重要視されているけれど、ホワイトカラーではどうかというのも、分析したいですね。

脚注

  • 注31 たとえば、小池和男(1999)『仕事の経済学』第2版 東洋経済新報社。
  • 注32 たとえば、Aoki, Masahiko (1998) Informaiton, Incentives, and Bargaining in the Japanese Economy, Cambridge University Press.
  • 注33 たとえば、浅沼萬里(1997)『日本の企業組織 革新的適応のメカニズム─長期的取引関係の構造と機能』東洋経済新報社。
  • 注34 中馬宏之(1998)「『現場主義』下の人材形成と情報共有─工作機械メーカー9社の事例から」『経済研究』Vol.49、No.3。
  • 注35 Lazear, E.P., and S. Rosen (1981) “Rank-Order Tournaments as Optimal Labor Contracts,” Journal of Political Economy, Vol.89, pp.841-64.