2000年 学界展望
労働経済学研究の現在─1997~99年の業績を通じて(6ページ目)


5. 所得分配

論文紹介(玄田)

川口章「コース選択と賃金選択─統計的差別は克服できるか」

長期雇用を前提として人材開発を行う日本的雇用制度の下で、女性に対する採用、訓練、賃金などの差別を解消する人事制度が可能か否かを理論モデルより検討した論文。このような理論的研究が90年代にあまり生産されてこなかったことも労働経済研究の一つの特徴であろう。

労働者にコース選択の自由を与えると、残存確率の低い人までが訓練投資の大きいコースを選択する「逆選択」が発生する。この逆選択を避けるために企業は性別情報を利用し、女性より男性に大きな投資を行う。この論文では性別情報の利用に代わる方法として、賃金プロファイルの選択制度が理論上有効なことを示す。これは、複数の賃金プロフフイルを提示し、個々の労働者にその中から最適なものを選択させることにより、自身の残存確率を明らかにさせることが最適になる。

堀春彦「男女間賃金格差の縮小傾向とその要因」

1980年代の後半以降、日本では男女間賃金格差の大きな縮小傾向が見られる。ここでは1986年と94年の「賃金構造基本統計調査」の個票から、男女間賃金格差の縮小傾向を要因分解している。分析の結果、男女間賃金格差の縮小に最も貢献している要因は、「ギャップ効果」と呼ばれる統計的に観察できない女性の地位の相対的な上昇が格差縮小に大きく貢献している。

格差分解について企業規模別に同様の分析を行っているが、いずれの企業規模でも「ギャップ効果」が大きな役割を果たしている。特に「中企業」「小企業」で「ギャップ効果」の貢献が大きいことが示される。

紹介者コメント

玄田

所得分配にいきましょう。

所得分配研究についても、個票データの使用が一般化し、Tachibanaki ed.(1998)注26など賃金センサス・マイクロデータを用いた国際比較など、これまでになかった進展もありました。80年代以降の米国での賃金格差の拡大について多数の研究が蓄積されているのに対し、日本の賃金格差や所得分配の動向については90年代に多数の論文が生産されたとは言えない。

欧米では賃金格差の拡大について、なぜそれが原因なのか、最初に出た技術革新とか、国際競争の影響を含めて、非常に多くの研究蓄積があり、日本では、賃金格差・所得分配の動向について、もっと論文や研究が生産されてもよかったと思います。技術革新と所得分配や、阿部さんが言われたような取締役や役員と雇用労働者の格差の問題なども研究する余地が多い。

ただ、ここでは、賃金格差の研究の中でも、日本で最も蓄積がある男女間賃金格差を例にとり、そこにどういう研究進展が見られるかに触れてみたい。

川口論文をおもしろく読んだのですが、特に長期雇用を前提とする状況の中で統計的差別を克服できないものかというのがテーマです。大学で授業していても、統計的差別があるんだと言うと、女子学生はもうそこでがっかりしてしまう。これをどうにかできないかと皆思っているんですが、川口さんは何とかなるんじゃないかという。賃金コースをメニュー選択できれば統計的差別は克服できると、大胆な問題提起をしている。

コース選択の自由を与えることが、大きな問題を生むことを情報の経済学のコア概念である「逆選択」を念頭に説明している。逆選択を避けるため、企業は性情報を利用している。だから女性より男性に大きな投資を行うわけですが、性情報に代わる別な方法として、賃金プロファイルの選択制度を活用すれば、統計的差別が生む様々な非効率性は改善できるという。複数の賃金プロファイルから労働者に選択させるというメカニズムを何とかして活用することによって、労働者自身の残存確率を明らかにさせる。それによって、社会的な最適な選択が起こるという提案です。

非常に興味深いし、おそらくは労働経済学研究以外の分野の人が、そんな可能性がありうるのかと思って、この論文のエッセンスを興味深く見ると思う。問題は、賃金プロファイルの選択提案を現実とするには、いくつかクリアしなければならない点がある。たとえば、これは脇坂(明)さんの指摘だと思いますが、残存確率って同じ労働者でも変わってゆく。会社に入る直前とか、入った直後、それから何年か働いた段階で、同じ人間自身の効用関数も変わるかもしれない。そのときに、コース別人事の運用というのを一体どういうふうにできるのか。労働者の残存確率が変わるのが現実としたら、この川口モデルは一体どのように修正されるのかが、1点目です。

2点目が、統計的差別の問題を議論するときに、人間の持っている能力の問題をどう評価するかという問題が欠かせないと思う。このモデルでは、同質的な労働者というのを前提としているから、賃金プロファイルがある時点で交叉するということがメニュー選択の中の重要な要件になりうる。しかし実際に交叉していないときに、どういうふうにそれを解釈しているかというと、そもそも持っている能力が違うんだよということになる。だから違う人の間では賃金プロファイルは交叉しない、最初から能力が高い人はその後のプロファイルがもっと急傾斜になることもあるんだと。

やはり人間の持っている個々の能力は違うんじゃないかということを前提としたり、能力の分布が男女間で違うんじゃないかという問題をクリアしなければ、なかなか賃金制度とか、賃金プロファイルの選択ということを現実に導入するのは難しいのではないでしょうか。

2番目に取り上げたのが堀論文で、これは良い意味でアメリカの研究を輸入していると思った。Blau and Kahn注27のアイディアを、日本の賃金センサスの個票を用いて導入したものです。男女間で真の賃金格差を測るとき、男女間で年齢構成が違う、勤続年数構成が違う、学歴構成が違うといったような目に見える属性の違いをコントロールして、その目に見える属性の違いと、目に見える賃金格差を分けたいというのがこれまで多かった。堀論文の大事なところは、統計的に観察できない要因を何とかして測ってみるというところにある。その中で、統計的に観察できない要因、賃金関数で言えば誤差項の分布に着目して、男性と連動している誤差項の部分、それから男性の誤差項と連動していない女性特有の誤差項の部分というように分ける。その結果、ギャップ効果と呼ばれる統計的には観察できない女性の地位の相対的な上昇が、賃金格差縮小に大きく貢献しているという。

そういう意味では、この研究というのは統計的に見えない部分というのに着目して、男女間格差にトライしたという意味で、僕は評価している。ちょっとこれも余談になるけど、堀論文が出たのとちょうど同じぐらいの時期に、理論計量経済学会(現「日本経済学会」)で一橋大学の大学院生の富山雅代さんがほぼ同じデータを用いて、ほぼ同じような分析をしている注28。そういう意味で重要な研究は複数の研究者によって競争的に行われており、特定の人の独占の状態ではないという意味で労働経済学の全体的な発展を意味していると思いました。

この堀さんの研究でいろいろなおもしろいことがわかってるけれども、問題はギャップ効果の具体的な中身でしょう。この論文の中では、女性への偏見とか、仕事の違いとか、教育年限が近いといったようなものが変わったんじゃないかということを示唆しているけれども、女性の相対的な地位の上昇は何を通じ改善されてきたのかは、まだまだわかっていない。

女性の地位の上昇と言っても、女性が管理職に登用される確率は、決してまだそんなに上がっていない。女性と男性で昇進・昇格構造のどこが変わり、どこが変わっていないのか。そうでないと、このギャップ効果により男女間賃金格差が縮小した根本部分はわからない。そういったことを考えました。

討論

賃金プロファイルの選択は可能か

川口

なかなか痛いところですけれども、まず第1点目については、残存確率が、仕事の経験や結婚などによって、ライフサイクルの段階で変わるというのは全くそのとおりです。これは、このモデル自体の問題であると同時に、実際のコース別人事制度の問題でもあります。

実際に、コース別人事制度を導入している企業でどうやっているかというと、最初に決めたらもう変えられないというところもあれば、何年かに1回見直すとか、または1回だけ見直しができるとか、または一方通行でこっちからこっちだけは変わることかできるとか、企業によっていろいろな工夫がなされていると思います。理論的には、その人の人生設計の見通しがついた時点で選択させるのが一番いい時点なのですが、ただ、それがいつかというのは、理論的にはちょっと……。そういう問題意識でモデルをつくらなかったので、今後の課題としたいと思います。

それから2点目ですが、個人の能力の違いがあった場合に、どういうふうにモデルが変わってくるかということです。あのモデルでも能力の違う人がいるという前提を設けることは可能です。たとえば能力別にAというコースとBというコースがあった場合でも、Aのコースの中で残存確率の高い人、低い人がいるのであれば、A、Bそれぞれのコースの中で2種類の賃金プロファイルを設ければよい。大切なことは、能力別で賃金プロファイルに差をつけるというのと、残存確率によって賃金プロファイルに違いを設けるのと、二つを区別して賃金プロファイルを決定する必要があるということです。

玄田

でも実際、AとBと分けるのは、まだまだ難しいんじゃない?

川口

現実にはそうですね。

玄田

あと、川口さんのモデルと直接関係ないかもしれないけど、やはり能力評価の問題をどう考えるかが重要な気がした。日本では、能力の違いというのをきっちりつけてきた経緯がないのでは。

阿部

表にしないだけで、結構つけてきたんじゃないですか。

玄田

ホワイトカラーもですか。

三谷

結局、能力をみんなわかっているけれども、たとえば裁判になったときに、立証可能かどうかという話にもなりますね。川口さんのモデルだと、能力は、完全に誰にもわかるという話だけれども。

川口

モデルではそう前提しています。

三谷

これがたとえば後で出てくる中馬さんの論文では、ホワイトカラーの技能の立証不可能性を非常に重要視していますね。みんなわかっているのだけれども、それをきちんと立証できるかとなると、それはまた別問題ですね。そういう非常に難しい評価の問題がありますから、それをどうやって処遇に反映させて生産性の向上に結びつけていくかというのは難しい問題ですね。

玄田

立証不可能性が技術的要因によるのか、それともコミュニケートできるように言語化されていないからなのか。後者じゃないのかな。

阿部

それはそうでしょうね。でも、昔は故意に能力の違いを表にしなかった可能性があったのではないかと思うんですよね。

玄田

しないことが合理的だったんだ。

阿部

けれども、今、企業内部では賃金格差をつけようという動きがある。ということは、今度は能力格差を少しずつ表に出そうとしている。

川口さんの論文を企業の人が読んだら、こういうことをほんとうにやる企業が出るのではないかなと思っておもしろかった。今までコース制だけを持っている企業は多いんですけれども、それだけではなくて賃金を動かしていくということを、企業は人事政策として利用可能ではないかなと思いました。

川口さんのモデルの拡張という点で言えば、投資を自己選択させるというモデルはできませんか。実際そうしようとしている企業があって、一般職の人だけに投資を選択させてるんですよ。つまり、研修コースの参加には手を挙げさせて、研修を受けた人にはそれに見合う賃金に上げて、残存率を高めていこうとしているわけです。

川口

その投資の選択というのは、本人の適性に応じてなされるのですか。

阿部

まず最初は適性に関係なく、難しい投資になると、適性も関係するという形です。

川口

このモデルは非常に簡単なもので、能力を一定としていますから、残存確率が等しければみんな同じ選択をするんですね。だから、そこに……。

阿部

そう。能力が違う人が出てきたときに、別のモデルもあるのかなと思って。

三谷

読ませていただいて、とてもおもしろいと思うのですが、実はコース別人事制度が随分たくさんの企業に導入されている産業と、そうではない産業と、ものすごく産業間で格差がありますね。それはおそらく、その産業で大事な技能の内容と密接に関連しているのではないか。そういう方向でも発展させていってほしいと思います。

統計的に観察できない要因

川口

堀論文は、賃金格差縮小の要因として、ギャップ効果が非常に大きいという結論です。堀さんは、ギャップ効果は目に見えない、計量できない効果というように書いてますが、もっと分析が可能ではないでしょうか。僕の理解が正しければ、ギャップ効果以外の要因は、主に男性の賃金関数の係数を使って計算しているのですが、男女間の係数の差の変化がギャップ効果に入っている。だから、この推定結果を利用すればギャップ効果をさらに細かく分析できるのではないかなと思うんです。というのは、中田喜文さんの1時点だけで男女の賃金格差を分析している論文注29がありますが、その分析結果によると、一番大きな男女間賃金格差の原因は、年齢の賃金に与える影響が男女でかなり違うということです。それだけで、男女の賃金格差のほとんどが説明できるという結論なのです。そうすると、男女の賃金格差縮小の要因としても、もしかしたら女性の年齢にかかる係数の変化がすごく大切なのかもしれない。ギャップ効果をさらに分析すれば、それを確かめることができたのではないかという気がしますが。

「女女間」格差の研究の必要性

玄田

僕は、この論文、直接関係ないんだけど、男女間賃金格差の論文を読んでいて、どうして女女間賃金格差の論文って少ないのかなと感じた。

川口

女女間?(笑)

玄田

世代効果もそうだけれども、男性間の格差や男女間というのはたくさんあるのに、女性間での賃金格差がなぜあるのかという分析がすごく少ない。アメリカで貧富の差の拡大というのは男性間もそうだけれども、女性間の格差も広がっている。ところが、日本は、女性の間の格差は広がっていない注30。女性間の賃金格差がなぜ日本は広がっていないのかは、もっと研究があってもいい。フルタイムとパートの格差も大きいけれども、女性のフルタイム同士でも能力も就業意欲も随分違うのではないか。そういう研究がもっと進むことで、結果的に男女間のこともわかってくるんじゃないかな。

三谷

全く同感ですね。

阿部

堀論文では、産業にもっと注目するといいのではないかと思うんです。そうすれば、技術革新や国際化の影響が女性にどう影響したか、結構見えてくるのではないかと思うんです。

脚注

  • 注26 Tachibanaki, Toshiaki ed. (1998) Wage Defferential: An International Comparison, Macmillan Press.
  • 注27 Blau and Kahn (1994) “Rising Wage lnequality and the U.S. Gender Gap.” American Economic Review 84(2), pp.23-28.
  • 注28 富山雅代(1997)「日本の賃金構造の変化と男女間賃金格差の推移」理論計量経済学会報告論文。
  • 注29 中田喜文(1997)「日本における男女賃金格差の要因分析」、中馬宏之・駿河輝和編『雇用慣行の変化と女性労働』東京大学出版会。
  • 注30 OECD(1996) OECD Employment Outlook, ch.3, p.65 等。