2000年 学界展望
労働経済学研究の現在─1997~99年の業績を通じて(4ページ目)


3. 高齢者関係

論文紹介(川口)

大橋勇雄「定年退職と年金制度の理論的分析」

この論文を取り上げたのは、第1に、この分野では数少ない理論研究の一つである、第2に、比較的単純なモデルから興味深い政策的インプリケーションを導き出しているからである。

論文は、年金制度が労働者の就労意欲に与える影響の分析を行っている。しかし、多くの実証分析と異なり、就労意欲への影響自体よりも、むしろ、それに伴う経済的効率への影響に着目している。そして、以下の政策的インプリケーションを導いている。第1に、年金の所得再分配機能と最適定年年齢の実現を両立させるためには、年金の期待総受取額を定年年齢に関係なく一定にする必要がある。そうしなければ、負担以上の給付を受ける人は、早めに引退してより多くの年金を受け取ろうとするからである。第2に、保険料負担の労使折半方式の下では、年金財政の収支均等と労働市場における需給の一致の両方を満たす賃金水準の成立が困難となる危険性がある。これは、労使折半方式の下では企業のゼロ利潤条件を満たすためには、保険料率を上げると賃金を下げなければならないというように、保険料率と賃金は互いに独立に決定できないからである。第3に、長寿化に伴う定年延長は必要であるが、年金の支給開始年齢の引き上げに伴う定年延長は、経済効率の観点から適切でない。それは、労働の生産性とその限界不効用が一致する点で定年を決めるのが最も効率的であり、年金とは独立でなければならないからである。

小川浩「年金が高齢者の就業行動に与える影響について」

この論文は、1983年、88年、92年の「高年齢者就業実態調査」の個票を使って、年金が高齢者の就労意欲に与える影響を分析している(同じデータを使った安部論文注18も優れた研究なので、併せて読むとより理解が深まる)。

高齢者の就業行動の分析は複雑である。その理由は、公的年金だけで三つの年金制度が存在すること、所得に応じて年金が減額されるため、就業と年金額が同時に決定されること、年金額が大きいため、それが市場賃金に与える影響が無視できないことなどである。

本論文は、1980年代末から90年代前半にかけて男性高齢者の労働力率が上昇している点に着目し、それが年金制度の変更によるものか否かを検討している。論文の目的が明確である点、また「本来年金」という概念を用いて、同時決定の問題を回避しようとしている点が注目に値する。さらに、男性の就業行動に対する世帯類型の影響の分析や、非就業者の賃金の推計に過去の履歴情報を用いるなどの工夫が見られる。

主な結論は以下のとおりである。1988年から93年にかけて観察された男性高齢者の就業率の上昇は、バブル期の賃金上昇によって説明される部分が大きい。1986年の年金制度変更によって、公的年金の実質支給額が減少したことは、就業率の上昇にはほとんど寄与していない。

紹介者コメント

川口

高齢者関係ということで二つの論文を選びました。どちらも年金に関連する論文です。ご存じのように、年金制度は、このところずっと大幅な改革が必要だと言われながら、なかなか進んでいない。そういう背景があって、大橋論文は、年金制度がどうあるべきか、また年金制度と定年との関係がどうあるべきかを理論的に分析しています。簡単なモデルから大胆な政策的インプリケーションを出していて、非常にわかりやすいので、取り上げました。生涯に受け取る年金の期待値が退職年齢に依存しないようにすること、保険料の労使折半をやめ労働者負担とすること、定年年齢引き上げの議論は年金制度改革の議論とは別に行うことなどの政策的提言をしています。

小川論文は、年金が高齢者の就業行動に与える影響を実証分析しています。年金制度は就業意欲に影響を与えますが、その影響を計量的に分析したのがこの論文です。過去にもこういう研究はいくつかあり、利用しているデータは、ほとんどが「高年齢者就業実態調査」です。ここでもそのデータを使っていますが、この研究も含めてかなり結果は様々で、労働力率の年金弾力性はマイナス0.13ぐらいからマイナス0.86まであります。その理由の一つは、年金額と就労は同時決定されるので、それの処理の仕方がかなり違っているためと思います。もう一つは、年金制度はかなり頻繁に変わっていて、使ったデータが何年度のものかによっても、異なった結果が出るのかもしれません。

小川論文と同じデータを用いた研究に安部論文がありますが、そこでは予算制約線を図示していて、制度変更によってそれがどのように変化したかがよくわかります。それを見ると、予算制約線はかなり複雑です。そういう複雑な予算制約線の下での労働時間や就業決定の分析は、かつて女性の労働供給分析でハウスマンが行ったように注19、効用関数を特定して、実際に予算制約線上で選択された点からパラメータを推定するという方法が有効かもしれません。僕自身は年金制度の分析は行ったことがないので、個々人の予算制約線をどの程度正確に把握できるかはわかりませんが。

それから、高齢者関係の論文は、後の「7. 政策・法の評価」の中にもあるのですが、全体として、意外に少なかったなという印象があります。たとえば高齢者の失業問題や、企業が高齢者をどう活用するか、高齢者の健康への投資と労働供給の関係……、いくつかおもしろそうなテーマが思い浮かびます。今後の研究発展を期待したいですね。

討論

高齢者研究の現在

三谷

大橋論文については、簡単なモデルで、非常にきれいなインプリケーションを出していて、私も大変興味深いと思います。ただ、次は60歳代前半層とか、継続雇用とか、そういうところの理論分析をぜひやっていただきたい─まあ、すでにやっておられるのかもしれませんけれども─し、今、議論になっている年齢差別禁止法、そういったものの理論分析にもさらに発展させていただきたいと思います。

小川論文については、80年代後半から高齢者の労働力率が反転したのは、非常に特徴的な動きなのですが、その主な要因がバブル景気だという結論です。しかし、バブルが崩壊した後も、かなり長い間60歳代前半層の労働力率は下げどまっている感じがします。そこに公共投資の影響もあって建設業等で高齢者の就業が増えていますが、そのほかの公的な施策や在職老齢年金制度などの改革がどれぐらい寄与しているのかについても、計量的に分析するとおもしろいと思います。先ほど、川口さんが言われたように、まだまだ高齢者関係は論文が増えてもいいなという気がしています。

玄田

意外ですね。高齢者問題にこんなに関心が集まっているにもかかわらず、労働経済研究が思ったほど少ない。どの辺に原因があるんですか。

三谷

何か手詰まり状態なんですかね。(笑)

玄田

これもさっきの女性研究と同じ、基本的に個票データでしょう。高齢者関係の個票データヘのアクセスというのがまだ難しいのかな。

労働需要サイドから見た高齢者雇用問題

三谷

たとえば高齢者雇用の分析でほかの年齢階層との代替・補完関係の理論モデルができると非常におもしろいと思います。

川口

三谷さん、たしかそういう研究注20をしていましたね。

三谷

ええ、ちょっと今研究中ですが、理論的なものではありません。

玄田

高齢者の就業機会を確保することが、若年の雇用に対してどのぐらいの代替性を持っているのか研究した例は少ないです。

三谷

ええ。でも最近組織の経済学などで、企業の中についてかなりわかってきてますよね。その中で、たとえば若年と高齢者がどういう代替関係にあるのか。これまでの分析で想定されたような単純な生産要素の代替関係ではないはずです。もう少し長期的でダイナミックなモデルができるといいなという気がします。

阿部

僕もそう思います。これまでは高齢者問題を大体が供給側から見ているのですが、これからは需要側から見るのも重要だし、必要な研究だと思います。

これに関しては、早見(均)さんが生産関数アプローチから分析注21しています。ところが、労働者の属性を細かく分けるほど、ゼロ人のセルが出てくる。つまり企業によってはある年齢階級の労働者が誰もいない。生産関数の理論ではゼロ人のインプットを考慮していないんですが、現実にはある。それを実証するのは難しい点があります。その意味で、労働経済の実証研究には新しい推定法を開発しないといけないとか、まだまだやる余地はありますね。

高齢者問題と動学モデル

玄田

大橋論文は、政策を考えるには、もうちょっと経済を勉強しなさいよというか、経済学をきちんと踏まえましょうというのもメッセージでしょう。でも、そうなると難しいのは、定年を考えるうえで労働の生産性と限界不効用を実際にどのように測るかという問題になるんじゃない?

最適な定年年齢を求めるには、川口さんも言ったように、効用関数をある程度特定化するという作業に行かざるをえないのでしょうが、それは大変だ。同質的な労働者を仮定できるならまだしも、高齢者は働く意思も多様だし、能力も多様です。川口さんの提案された、効用関数を特定するアプローチをやっていくべきというのは、現実には難しい気がする。そのあたりをみんな薄々わかっているから、高齢者問題にアクセスしないのかもしれない。

川口

先ほど触れたハウスマンのモデルは静学モデルです。ところが、玄田さんが今言われたように、高齢者の限界効用と限界不効用を考慮して、退職時期を分析するには、ダイナミックなモデルを考えないといけないので、さらに複雑だと思います。

玄田

ただ、今こんなに労働経済研究に関心が集まっているのも、高齢化社会の問題に対して経済学にわかりやすく解答を提供してほしいということだから、研究の重要性が高まっていることは間違いないですね。

脚注

  • 注18 安部由起子(1998)「1980~1990年代の男性高齢者の労働供給と在職老齢年金制度」『日本経済研究』No.36.
  • 注19 Hausman, J. (1980) “The Effect of Wages, Taxes, and Fixed Costs on Women's Labor Force Participation, Journal of Public Economics, Vol.14, pp.161-94.
  • 注20 三谷直紀「高齢者雇用政策と労働需要」、猪木武徳・大竹文雄編『雇用政策の経済分析』東京大学出版会(近刊)。
  • 注21 Hayami, Hitoshi and Masahiro Abe (1999) “Labour demands by age and gender in Japan: Evidences from linked micro data,” ‘Keio Economic Observatory Occasiona1 Paper,’ E. No.23, Keio Economic Observatory, Keio University.