1999年 学界展望
労働法理論の現在─1996~98年の業績を通じて(7ページ目)


Ⅵ 社会保障法との接合領域

1.社会保険法における被用者概念

論文紹介

毛塚

それでは、最後に、社会保障法との接点にかかわる論文として、竹中康之「社会保険における被用者概念─健康保険法および厚生年金保険法を中心に」岩村正彦「変貌する引退過程」の、二つの論文を取り上げたいと思います。最初に竹中論文につきまして、岩村さんから紹介をお願いします。

岩村

竹中論文は、適用対象者を異にする社会保険制度の分立と、その結果としての制度内容の格差の存在を指摘した上で、社会保険が対象とする被用者概念を解明し、被用者概念の整理と、そこから浮かび上がる諸問題を検討しようというものです。社会保険法の論文ではありますが、分析の視角として、労働法上の労働者概念との異同も取り上げていますので、この座談会で取り上げることになりました。

この論文が、具体的に取り上げているのは、健康保険法と厚生年金保険法です。

第1に、被用者性の要件としての「事実上の使用関係」を検討し、社会保険の場合は、被用者性の要件は事実上の使用関係の有無によって決定されるとなっているが、その際、雇用契約の存否は事実上の使用関係云々の決定的な基準にはなっていないことを指摘します。ただ、例外として、任意適用事業がある。しかし、これには、産業のソフト化とか第3次産業の実態に照らしてみると問題があると指摘しています。

それから、行政解釈によって適用が除外されているものがいること、具体的にはパートタイマーを挙げています。そして、竹中さんは、雇用形態や就労形態が多様化してきている現代において、労働時間数という量的概念のみに被用者保険の適用基準を依拠させるのは疑問であると指摘します。同じように、不法就労の外国人労働者についても、これを通達で適用除外にしているのも疑問だと述べています。

第2に検討しているのが、事実上の使用関係における労務の性質です。ここで竹中さんは、労働法学上の使用従属概念と、社会保険が取り上げる事実上の使用関係が想定する労務の提供等を比較しています。竹中さんは幾つかの問題を扱っていますが、ここでは、請負と委任の問題だけを取り上げておきます。請負と委任に関しては、国民健康保険、国民年金の対象である独立労働との区別が問題となります。竹中さんは、現在の行政解釈によると、事実上の使用関係の存否を判断基準としているが、これは経済的従属性を軽視しすぎていると批判します。そして、たとえば、請負に関して、注文者に対する専属性とか、注文者からの報酬への生計依存度を考慮すべきではないかという提案をされています。それはなぜかと言うと、竹中さんによれば、経済的従属性が生活保障上の要保護性に最もストレートに反映される要素だからです。したがって、人的従属性が相対的に弱くても、経済的従属性が強く認められれば、独立労働の場合でも被用者性は認めてよいと主張されます。

第3に、事実上の使用関係の消滅についても、竹中さんは、判例や通達が労務提供の停止や賃金支払の停止という結果的な事実を重視していて、規範的な要素をほとんど考慮していないということを指摘します。

そして、報酬支払が停止されるに至った理由や、労務提供の停止、あるいは労務提供が再開されない理由を考慮しないで被保険者資格を消滅させるのは、あまりにも没価値的な処分である。原因が使用者側に帰責しうる場合には、少なくとも保険関係においては雇用関係を存続すると解する余地があるというふうに主張されます。

最後に、まとめとして、被用者保険に見られる被用者概念の独自性─とくにこれは労働法上の労働者概念との比較で見られますけれども─は、生活保障という目的が第一義的に重視され、要保護性の観点が大きく全面に押し出されていることに由来すると述べています。

本論文は、被用者保険の被保険者である被用者の概念を、事実上の使用関係の有無という判断基準の角度から分析をして、問題の整理と、検討すべき論点の提示をしています。とくに被用者概念と労働法上の労働者概念との異同という問題を取り扱っていて、労働法学との関係でも興味深いと思います。

ただ、この中で主張されている解釈論─あるいは解釈論ではなくて立法論なのかもしれませんけれども─が成功しているかになると、やや問題もあるような気がします。さらに、このテーマを扱うのであれば、解釈論にとどまらずに、立法論にまで踏み込んだ検討や、より大きな視野からの検討をしてほしかったと思います。

パートタイマーを例に挙げてみますと、もし竹中さんの言うように行政解釈に問題があるというのであれば、一体どういう解決策が解釈論上、あるいは制度設計上考えられるかを検討する必要があると思います。竹中さんは労働時間の量だけに着目して被保険者資格を考えるのは疑問だと言いますけれども、どういう要素をほかに考慮すべきかについては具体的に検討されておりません。この点が残念だと思います。

おそらく、根本的には、ビスマルクモデルの被用者保険システムをとる限り、披保険者資格の有無は、何らかの形で労働時間の長さや賃金額などによって判断さぜるをえないように思います。それが適当でないとすると、ビスマルクモデルとは違う社会的な保護の制度を考えるのかということまで視野に入れなければいけないでしょう。

独立自営業者についても同じようなことが言えます。経済的従属性は、法的従属性に比べますと非常にあいまいな概念です。したがって、この経済的従属性という観念が被用者保険の被保険者となるかならないかという線引きに使えるのかを、もっと詰めて検討する必要があるでしょう。

ここでも、最終的には、契約労働者と言われるような独立自営業者に近いものまでを含めた労働形態の多様化に対して、今後いかなる社会的な保護の制度を構想するのか、さらにはいかなる労働法の姿を構想していくのかも考えながら、検討する必要があるでしょう。

毛塚

ありがとうございます。大内さんコメントはありますか。

討論

経済的従属性と要保護性
大内

私には十分な評価能力はありませんが、少なくとも論旨が明快なわかりやすい論文であるという印象は受けました。とくに、社会保障法の目的である生活保障、要保護性という観点から被用者概念をとらえていくべきであるという主張は、それはそれで明快であると感じました。

ただ、今、岩村さんからのコメントでもあった、立法論的議論なのかどうかという点ともかかわるのですが、経済的従属性を重視していくべきであるという主張は、「使用される」という文言を用いている現行法の被用者概念規定の解釈としてどこまで可能であるのか、という疑問があります。

「使用される」という文言は、やはり人的従属性を想起させるものですから、文言上は人的従属性が中心になっていかざるをえないのではないでしょうか。むしろ、論文の中で取り上げられている株式会社の代表取締役に被用者性を認める判決のほうに素朴な違和感を覚えます。

竹中さんの主張がもし立法論として、将来の被用者保険制度を考えていく上において、その適用対象の範囲というものを、経済的従属性という観点からとらえていくべきであるというものであれば、それはそれでわからないではありません。ただそうすると、たとえば、人的従属性があっても、経済的従属性があまりない人もいるでしょう。たとえば、会社で普通のサラリーマンとして働いているけれども、自宅での原稿執筆による副収入のほうがはるかに多いような人、こういう人は経済的従属性がないという評価になって、立法論として被保険者から除いていくという主張になるのかどうかが気になります。経済的従属性をどのように理解するのかにもよるのですが、この概念は論文の中では、被用者性を広げる方向にとらえられていると思いますが、論理的にはその逆のこともありうるのではないか、そういう感想を持ちました。

もう一言いいますと、経済的従属性という言葉については、労働法において従属性という概念が出てくるのは労働契約に指揮命令権が内在している以上やむをえないところもあると思うのですが、社会保障法では従属性という概念に一体どこまで縛られる必要があるのか。要保護性というのを徹底するならば、また別の基準、別の概念を持ち出すこともできるのではないか、そういう感想も持ちました。

毛塚

社会保障法の分野は私は全く不案内ですが、労働法も雇用・就労形態の多様化に伴って、どこまでを労働法的な規制の対象に入れるべきかの政策的な判断にかかわって、労働者概念が改めて問題になっているときに、社会保障法の分野でも、同じように、労働者概念や従属性という概念について再検討を行うことが求められているという、現状況をよく理解できたという意味では、大変参考になりました。

ただ、労働法の場合も、現代的な要保護性は否定できないものの、他方、自己決定・自己責任の問題があるわけですが、その辺の線引きの問題は、社会保障法の分野と労働法の分野で、岩村さん、基本的な発想の差があるんですか。共通なものなんですか。

岩村

少なくとも被用者保険については、労働法と共通の根があっただろうと思います。そして、現在でも、かなりの部分については共通の根を持っているだろうと思います。つまり、企業に雇われて働くことによって、一方で労働法上の保護が与えられ、それとあわせて社会保険法上の保護が被用者保険という形で与えられる。それが人的な従属関係にある労働者の法的な地位であると考えられたと思うのです。

ヨーロッパなどはそういう考え方が非常に強いでしょう。ところが、労働形態がいろいろ多様化してくると、一方では、従来の被用者保険というモデルの中に入らない労働者たちが出てくる。ある者は労働者だけれども被用者保険に入らない。あるいは、そもそも労働者かどうかもよくわからないというような人たちが出てくる。

他方では、被用者保険がビスマルクモデルですと、事業主の社会保険料負担を含むために、現在のような国際競争が激しい状況のもとでは、事業主ができるだけ社会保険料負担を減らそうとする。それが、被用者保険の適用を受けない形で人を雇おう、使おうというように作用する。このことが、労働法の領域で言う非典型雇用が生まれてくる原因となるし、独立労働者というものが生まれてくる原因にもなる。したがって、新しいいろいろな働き方の形態の問題は、労働法上の問題として考えなければならないけれども、労働法のことだけを考えていると、ほかのところに副作用が出てくる。とりわけ被用者保険との関係で、別の形で問題があらわれ、それがまた労働法にはね返ってくる。両者はそういう関係にあると思います。ですから、この種の問題を考えるときには、労働法と被用者保険法の両者を視野に含めながら、解釈論なり政策論を考えていく必要があるでしょう。

毛塚

たとえば要保護性ということで言えば、被用者に目を向けるだけでなく、鎌田耕一さんの契約労働に関する論文(「契約労働に関する法的問題」『日本労働法学会誌』92号)がありますけれども、そういう労働者を使うユーザーとしての企業の責任というんですか、そちらのほうにも目を向けて雇用形態の多様化と言われる時代にアプローチする。つまり、労働者性だけに力点を置くのではなく使用者なり企業の責任という視点から問題を考えることも、今後の課題になると思いますが、そういう問題は、同じような形で被用者保険に関しても議論はできますか。

岩村

その場合は、話はもっと広がり、そもそも被用者保険という形でシステムを設計するのがいいのかという議論につながります。同じように、労働法についても、従来のような人的従属性という観念だけで議論するのがいいのかどうか、もう少し広げた枠の中で、契約労働と呼ばれるようなものまでも取り込んだ形で、新しい法システムというのを構想するという話につながると思います。

ヨーロッパなどでは、とくに失業問題を背景としながら、こうした議論が有力な学者によって行われています。我々もそうしたことに目を向けて考えていく必要があるのではないでしょうか。

大内

労働法の問題に引きつけて考えると、先ほど契約労働と言われたのですが、結局、問題となっているのは、契約する上において一方は契約上弱い存在であり、他方は強い存在である、そういう契約当事者間の非対等性からきているわけです。契約労働が民法上は請負であるといっても、やはりこのような意味での非対等性はありえます。しかし、よく考えてみたら、これは労働だけにかかわる問題ではなくて、消費者保護など、最近、民法の領域でも注目されている問題とも結びつくわけです。消費者保護でも、契約における当事者間の非対等性というところに焦点があてられているわけですから。したがって、ほんとうはこのようなものすべてを視野に入れながら、労働者概念や労働契約に対する法的規制という問題を考えていく必要があるのではないかと最近は思っているのです。

岩村

その点は、一番最初の西谷論文で議論したところに話は戻る。労働保護法の領域で、契約内容について規制をする根拠は一体何なのかにかかわります。また規制のあり方として、契約の中身について規制するのか、それとも契約の締結過程を規制するのか、も考えなければならない。こうした点について、最近の消費者保護法の領域での議論を参考にしながら、労働法の領域でも考える必要があると思っています。

大内

そういうふうに広い視野を持った上で、それでは労働契約の特質は何なのか、そしてその特殊性に応じた労働契約の規制はどのようなものと考えていくべきなのか、という形で議論を展開していく可能性もあるのではないかと思います。

毛塚

労働者概念とか被用者概念というのは、政策を考えるときの対象からのアプローチです。保険システムなら保険システムの問題を語るときに、対象の属性の変化が従来のシステムに一定の綻びをもたらしていることは理解できますが、再構築をするときに、要保護性や経済的従属性を超えて、さらにどういうアプローチの方法があるのか、その辺を吟味していただくと、労働法にとっても有益な示唆になると思います。さらに、検討をお願いしたいと思います。

2.引退過程

論文紹介

毛塚

では、引き続きまして、岩村正彦「変貌する引退過程」を検討したいと思います。今度は、大内さんのほうからご報告をお願いします。

大内

この論文は、55歳定年のもとでの終身雇用制と60歳からの公的年金支給という引退過程の制度的枠組みが、社会の高齢化の中で維持が困難となり、年金の支給開始年齢が60歳から65歳へと引き上げられるなかで、そこから生じる年金政策・雇用政策をめぐる問題を包括的に検討・分析しようとしたものです。

年金支給開始年齢の65歳への引き上げにより、60歳代の高齢者の雇用が重要な政策課題となってきていますが、現実には、高齢者の労働市場の雇用状況は厳しいことから、それに対応するために部分年金や高齢者継続雇用給付などのさまざまな施策がとられてきました。こうした現状から、この論文では、60歳までのフルタイムでの職業生活から60歳代前半層の部分就労を経て、65歳での引退というなだらかな引退過程が新たな引退過程の枠組みとなってきたと述べられています。

もっとも、前記の施策の妥当性には疑問もあると述べられています。たとえば部分年金は繰り上げ支給という形になっていないので、年金給付の膨張を抑止するという政策目的と合致していないという問題点がある、また、全体的に見ても制度が複雑であり、かつ同様の目的を持つ制度が併存しているなどの問題点があると指摘されています。

三つの選択肢

ここから、岩村さんは、部分年金や高齢者雇用継続給付は撤廃して、繰り上げ支給への一本化を行うべきであり、60歳代前半は現役で就労するという方向での制度設計を行うべきと主張します。ただ、1994年の高齢者等雇用安定法は60歳定年の義務化や65歳までの継続雇用の努力義務などを定めているものの、現実には60歳代前半層の雇用状況は好転しておらず、これらの層の雇用機会の確保をより強力に進める必要があるとされます。そのための施策として、この論文で検討の対象にあげられているのが、第1に65歳までの継続雇用の義務づけであり、第2に定年制の撤廃であり、第3に65歳定年制の導入です。このうち、第1の施策は契約自由との抵触というような問題点を抱え、第2の施策も、定年制の持つ安定的な雇用システムの形成機能や労働市場の安定化機能を考慮すると今すぐ実現させるのは適切ではないと評価されています。これに対して、第3の施策は定年制を維持して、終身雇用制とも整合的であるというメリットがあると評価されています。ただし、65歳定年制は総賃金コストの膨張やポスト不足をもたらすので、これまでの年功的賃金や年功的昇進・昇格は困難となり、労働者の能力を重視した賃金や昇進などが行われるようになると予想しています。そして、こうした事情は、労働者が同一企業に密着していく利益を薄くするもので、終身雇用制を前提としていたこれまでの労働者の職業生活を変容させるものとなり、それに応じて引退過程も、企業密着型の職業生活を経た後の引退生活とは別の姿のものとなると予想しています。

以上が、この論文の骨子です。次に、この論文に対するコメントですが、まずこの論文は、高齢社会の進展の中で引退過程を基礎づける年金制度と雇用制度の変化を追いながら、雇用政策と年金政策とを統合した一貫した政策のあり方を検討しようとするものです。引退過程をめぐる実態や制度に関する膨大な論点が労働法理論への影響を含めて明確に論じられている、非常にすぐれた論文であると思います。

ただ、労働法の観点からは、次のような疑問を感じました。まず65歳定年制の実現という提言をどのように評価すべきかということです。筆者は、おそらく65歳定年制を法で義務づけて強制することを念頭に置いているのではないかと思います。これは高齢者の所得保障、就労による生計維持という観点からは適切かもしれませんが、副作用はないのかと懸念があるのです。

すなわち少なくとも現在の雇用情勢を見れば、ほぼ全年齢層において、雇用不安、失業問題というものが生じています。定年延長がこのような雇用情勢を悪化させることに寄与しないかという懸念があるわけです。また、定年延長は、60歳定年制の義務づけの際にも起きたように、労働条件の不利益変更をもたらす場合が多いわけです。判例の就業規則変更法理では、定年延長の社会的要請などを変更の必要性を根拠づける要素の一つとしてとらえているので、定年延長の法的強制の場合には、不利益変更は広く認められる可能性があります。この点をやむをえないと考えるべきなのかどうかは検討されるべき問題だと思います。

法による定年の義務づけを行うとしても、その年齢は最低限必要な年齢にとどめるべきだと思います。65歳という年齢は、法が強制する最低限の年齢としては高すぎはしないかという気がするのです。年金の支給開始年齢と接合させる必要性は理解できないわけではありませんが、60歳代前半の労働者の所得保障を社会保障によるのではなく、企業に雇用の負担を負わせることによって図るということが適切なのかという疑問があるわけです。60歳定年制は当初の努力義務規定などを通して政策的に誘導されてきていますので、60歳定年制の義務づけも比較的スムーズに進んできたという事情がありますが、65歳定年制についても、同じように政策的誘導が機能すると期待してよいのかということも懸念材料としてあります。

したがって、60歳を超える年齢への定年延長というのは、法による強制よりは、あくまでも労使の自主的な交渉を通して実現されていくべきであって、その中で定年延長に伴う労働条件の不利益変更なども協議され、解決されていくというのが望ましいあり方ではないかという気がするわけです。

定年延長については以上ですが、次は余計なことかもしれませんが、高齢者の所得保障という観点から考えますと、企業年金がこれからは重要になってくると思われます。企業年金が公的年金の補完機能としても期待されているということや、最近話題の確定拠出型年金、日本版401(k)プランが仮に導入されるとすると、労働者の就業行動、ひいては引退過程にも大きな影響を与えることになると予想されます。その意味で、企業年金、退職金のあり方が労働者の引退過程の制度的枠組みの中でどのように位置づけられているのかももう少し言及してほしかったという気がします。

また、税制についても、引退過程の制度設計において重要な役割を果たすと思われますので、この点についても、どのように取り扱われるべきなのかということを知りたいと思いました。

討論

65歳定年制の是非
毛塚

今、大内さんから3点ほど疑念が呈されましたので、岩村さん、簡単にご反論下さい。

岩村

第1に、65歳定年制を実現するといろいろ不都合が出てくるのではないか、とくに現在の雇用情勢との関係はどうなるだろうかという点ですが、これはおっしゃるとおりです。

私は、若年層、特に20代の失業の問題が悪化して、しかもそれが構造的に定着した場合には、60歳代前半の雇用の促進という政策はどこかへ吹っ飛んでしまうだろうと思っています。むしろ早期引退という形で、ヨーロッパと同じような方向に政策が動く可能性は高いと思います。したがって、今後、60歳代前半層の雇用の問題を考える上では、20歳代の若年層の失業の問題がどうなるかが非常に密接に関係してくるでしょう。

それから、定年年齢を65歳に延長していくと、労働条件の不利益変更が出てくるというのも、そのとおりだろうと思います。私は、これはやむをえないと考えています。

定年65歳というのは高すぎないかという点ですが、確かにそういう意見もあろうかと思います。しかし、─今後の雇用情勢がどうなるかという留保つきですけれども─年金の支給開始年齢が65歳になると、60歳から65歳の間を誰かが支えなければならない。その場合、公的年金に頼らないとすれば、どういう形で労働者の生活を支えていくのか。やはり労働者にも働いてもらって、社会の経済活動に対して貢献をしてもらい、そして賃金で生活をしてもらうと考えるほうが、年金以外の所得移転のシステムによって60歳代より前の人たちから所得を移転するよりは、適切ではないかと考えています。

65歳定年制を、直ちに実現せよというのは当然無理です。60歳定年制を実現する過程において行われたのと同じように、徐々に政策的な誘導を行った上で、最終的に65歳定年制に至ることを考えるべきだろうというのがこの論文の主旨です。

したがって、法による強制よりも、まず労使間の自主的な交渉を通して65歳定年制に向けて取り組むべきでしょう。労使で自主的に取り組んで、なるべく65歳定年制の土壌づくりを進めてほしい。そのために国がどういう形でそれをバックアップするかを、政策的に考えていくほうがよいと思います。

大内

政策的誘導はうまくいくでしょうか。

岩村

その点は、私自身も、大変難しいなとは思います。

毛塚

定年延長については、労働者もすべて賛成するとは限らない。というのは、生産労働者にとってはきついということと、日本の定年制というのは退職金制度とリンクしていますので、65歳に延長されてしまうと定年前退職か自己都合退職となって退職金が不利になりかねない。

と同時に、それを議論する前に、そもそも定年とは何かをもう少し考えたほうがいいと思います。今の定年というのは、退職金制度がやはり大前提になっていると思うので、退職金制度が今後変化すれば定年の考えも変わってくる。ポストに関してはすでに役職定年制で問題はクリアしている。退職金についても何か別な制度をつくればクリアできるわけです。

そうすると、65歳までの切れ目のない継続雇用を求めていくことにそれほど抵抗がなくなるかもしれない。現在の60歳定年制度のもとでイメージされている退職金制度を前提にした定年延長では労使ともに抵抗がある。ですから、定年制を分解して考えたほうがいいのではないかなという気はしています。

岩村

それは毛塚さんのご指摘のとおりだと思います。

私は、定年制を65歳まで延長することとなった場合には、現在の定年制が前提としているさまざまな条件を変えざるをえないし、変わらないと困ると思っています。とくに、退職金については、ある一定年齢以上、たとえば60歳以上であれば、自己都合退職も定年扱いにするというようにしないと、労働者にとって酷な場合が出てきてしまいます。

逆に言うと、65歳定年制を実現していくとなると、日本の終身雇用システムが今まで前提としてきたいろいろなものが変わっていかざるをえない。そして、私は、どちらかというと変わったほうがいいと考えています。論文の中では、それを全部は書いてないのですけれども、頭の中には、いわば暗黙の考慮がありました。

大内さんのお尋ねだった企業年金の件は、ご指摘のとおりです。企業年金のあり方や税制のあり方が、定年制の変動以前に、日本の雇用システム自体、とりわけ終身雇用システムをかなり変える可能性はあると思います。とくに、企業の会計基準が2000年から変わります。そうすると、退職一時金の扱いがものすごく難しくなり、大企業でも退職金の扱いを今後大きく変更する可能性があります。それは終身雇用慣行に対して非常に大きなインパクトを場合によっては与える可能性があります。

高齢者の処遇
大内

長期的には定年制はなくなっていくべきだというお考えですか。

岩村

私は、もし65歳定年制になれば─退職金の問題は残りますが、それ以外の問題との関係では─定年制がなくなるというのとほぼ同義だろうと考えています。

大内

能力型の処遇が進んでいくと、能力のある高齢者にはどんどん働いてもらい、働けなくなったときに解雇で雇用を終了させる、ということでしょうか。

毛塚

いや、能力・実績主義であれば、処遇で差をつけることができるので解雇する必要は少ない。今のような日本型雇用システムでいうと、企業とすれば一たん雇用関係を切断しないと対応しきれないけれど、岩村さんがおっしゃったように、ある程度なだらかなものになれば、わざわざ切断して別の雇用形態にする必要は少なくなる。

岩村

今の職能給から、むしろ職務給のほうへ傾斜していくということになるのかなと思います。しかし、それは、ほかのいろいろな社会システムに大きな影響を及ぼします。たとえば、ボーナスの扱いは、住宅ローンの問題などに大きな影響を及ぼすので、一遍には動かないし、動かせないと思います。それでも、徐々に変化していかざるをえないと思います。

毛塚

議論すべきところはまだ多々あると思いますが、時間も大分たちましたので、この辺で打ち切りたいと思います。

山積する政策的課題
毛塚

最後の岩村さんの論文がそうであるように、労働法学にとってみますと、政策的な課題というのは山積しているわけです。今回取り上げなかった政策的な課題としては、個別紛争処理システムの問題があります。これにつきましては、私以外にも、山川隆一さん(「労働紛争の変化と紛争処理システムの課題」岩波講座『現代の法』12所収)や村中孝史さん(「個別的労使紛争処理システムの検討」(『日本労働研究雑誌』436号)が発言をしています。また、労働省や連合、日経連の研究会報告書等、多面的な議論が現在出ています。これをめぐっては、さらに今後の学界における議論を期待したいと思っています。

また、従業員代表制につきましても、野川忍さんの論文(「変貌する労働者代表」前掲『現代の法』所収)がありました。今回の労働基準法の改正に伴い、労使関係委員会というものが正式に発足しましたので、今後、その法的権限や法的性格をめぐる議論、あるいは労使関係における具体的な機能をめぐる議論が盛んになるでしょうし、さらには、それをふまえて日本の従業員代表制をどう設計するのかも、労働法学にとって大変重要な課題になるかと思います。

これらの問題は、次回の学界展望で議論していただきたいと思います。そのためにも学界での活発な議論をお願いしたいと思います。

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