1999年 学界展望
労働法理論の現在─1996~98年の業績を通じて(5ページ目)


Ⅳ 労働条件変更

1.集団的労働条件の変更

論文紹介

毛塚

次に、労働条件の変更をめぐる問題に移りたいと思います。ここでは、最初に、大内伸哉「労働条件形成・変更の段階的正当性─労働条件変更法理の再構成(1)~(4完)」を取り上げます。大作ですが、なるべく簡単にご紹介したいと思います。

民主性原理と私的自治による正当性判断

大内さんは、多数の従業員を協働させる、そういう就労システムというのは、たとえ個別契約の重要性が増したとしても基本的には変わらない。そこでは労働条件というのは制度として統一的・集合的に処理される。したがいまして、集団的な労働条件を統一的・集合的に処理する法理の構築を目指されます。

その際に特徴的なことは、労働条件の集合的処理と契約原理との調整を意識しながら、労働協約や就業規則という集団的労働条件に関して、その形成過程、労働契約への編入過程、適用過程の三つの段階に分けてそれぞれ法的な拘束力を導くための正当性原理が異なることを指摘し、形成過程には過半数主義という民主性原理を、編入過程には私的自治の原理を、適用過程には個別具体的な事情を考慮した「衡平の観点」を求めるという、明確な視点を提供しているところにあります。

その結果、就業規則による労働条件の変更については、過半数の支持の有無と集団的な変更解約告知で対応させ、集合的な処理を図っていますし、労働協約について言いますと、過半数組合の締結した労働協約について変更解約告知を用いて統一的な労働協約内容を形成することを認めています。ほかにも重要な指摘がありますが、骨子は以上のように非常に簡明なものと言ってよろしいかと思います。

本論文の意義ないし特色は、労働条件を集団的、統一的に形成するための法理を、就業規則、労働協約という二つの制度を通して、これまた統一的に構成するところにあります。日本の労使関係の現実を考えるならば、労働協約と就業規則について統一的な処理が求められますので、実務からすれば重要な視点だろうと思います。また、段階的な正当性、評価の視点は、これを就業規則や労働協約の変更法理に引きつけて言いますと、合理性の判断の視点を整理したことを意味しますので、有益な貢献だろうと言えるかと思います。

ただ、個人的には幾つか問題点ないし疑問点があります。

まず、方法に関してですが、果たして形成過程と編入過程というものを分断していいのか。法的には、一応別個に検討しても、最終的には統一的に構成する必要があるのではないか。分断することで、たとえば就業規則について言いますと、変更解約告知は一般的に理解される変更解約告知と異なり、「転移」という極めて独自な法的手段となり、また協約につきましても、私的自治の中で形成過程と編入過程を統一的に把握して議論するのが本来の法的性質論と思うのですが、分断することで、労働協約の本来の性格を見失ってしまう気がします。

具体的な問題点を就業規則について申しますと、事実上の集団的合意説、あるいは過半数支持つき契約説ということになると思いますので、現在の就業規則に関する明文規定に反する解釈ではないかと思います。また、労働条件の変更の合理性判断を過半数の支持の有無で行うということは事実上合理性判断が不要になってくることを意味するように思います。と言いますのは、過半数組合がすでに変更に賛成していますと、合理性判断は必要ではなく、他方、過半数組合や従業員の過半数が変更に反対しているときは、集団的な変更解約告知は無効ということになり、実際上、これは多くの場合、就業規則による労働条件の変更を否認する結果になりますので、実務的に見れば労働条件の流動的な形成に対応できないということになるのではないか。

また、変更解約告知について言いますと、もともと変更解約告知の意義というのは、単に労働者に対し同意・不同意の機会を与えるだけでなくして、労働条件変更の合理性判断、調整的な処理を導くところにあるとすれば、過半数の支持で合理性ありとすることは変更解約告知の合理性判断を形式的なものにしますので、やや変則的な変更解約告知法理ではないかという気がいたします。

次に、労働協約の変更法理に関して言いますと、変更解約告知によって協約労働条件についても統一化を図ることができるとするわけですが、就業規則と異なり、両面的な効力を持つ統一的な労働条件を形成するということになれば、私から見ますと、労働協約と就業規則の性格の相違を軽視した議論ということになるのではないか。

以上、簡単に紹介と私の個人的な疑問を提起いたしました。岩村さんはどのように読まれましたか。

討論

岩村

この論文は、従来、判例及び学説で論じられてきた就業規則による労働条件の不利益変更の問題、それから、労働協約による労働条件の不利益変更の問題、さらには拡張適用されている労働協約による不利益変更の問題、それに加えて少数組合が存在する場合といった、労働条件の変更が問題となる状況をすべて取り上げて、それらを一貫した理論枠組みの中で整理し、それぞれについての解釈論上の具体的な結論を示しているという点で、非常に高く評価できる論文だと思います。

また、従来の判例や学説に見られた問題点、つまり、ある意味での実際上の結論の妥当性にどちらかというとやや重点が置かれて、その結果として、法的な理論体系、あるいは解釈理論としては、どうしてもあいまいさが残っていたという問題点に対して、私的自治や多数決原理という基本原理を軸に、理論的に割り切って、すっきりとした解釈を提示しているという点にも、この論文の特徴があると思います。

しかし、私的自治や多数決原理を軸に、割り切った形ですっきりと理論を立てていることの反面として、出てくる具体的な結論もややドライになりすぎているのはどうしても否めないという気がします。

たとえば就業規則の不利益変更の問題にしても、この論文の立場では、使用者の労務指揮権の範囲内に含まれる労働条件の変更はともかくとして、そうでないものはすべて変更解約告知の問題に整理されてしまうことになり、解決方法としてはややドラスチックになりすぎている気がしないでもありません。また、拡張された労働協約は、非組合員についても、当然に適用が及ぶとしている点は果たしてどうでしょうか。本論文は、これを、多数決原理で、2分の1以上と4分の3との違いとして説明していますが、非組合員にとってみれば、自分の知らないところで勝手に決められたという点では、就業規則と同じではないかといった疑問があります。個別的な点では、具体的な解釈論として、すぐには賛成できかねる側面を含んでいると思います。

過半数主義による合理性判断の回避
毛塚

それでは、大内さん、討論参加者の特権として反論をして下さい。

大内

毛塚さんからの、おそらく一番重要な指摘は、集団的変更解約告知における過半数主義という考え方だと、流動的な労働条件の形成ができないのではないかという点であると思います。しかし、この点については、だからといって、少数派しか同意していない、あるいは全く誰も同意していないというときに、過半数主義とは別の角度からの合理性判断を許容し、そこで合理性があれば、多数の従業員にその同意していない労働条件が押しつけられることになるというのが果たして労働条件の形成のあり方として妥当であるのかが疑問なわけです。

合理性の判断を過半数主義で置き換えていくというのは確かに割り切った考え方なのですが、集団的労働条件という概念を立てて、そういう枠で考えた場合は、多数で決めていくというのはそれほどとっぴな考え方ではないと思われるわけです。みんなにかかわることはたくさんの支持を重視していくというのは自然なことだからです。むしろ、たとえば多数が同意しているのに、裁判所が合理性がないと言えばそれだけで労働条件の拘束力が否定されるとか、あるいは少数しか賛成してないのに、裁判所が合理性があると言うから、その労働条件に従わなければならないというのは、労働条件の決定プロセスに対する裁判所の行き過ぎた介入になるのではないかという疑問があるわけです。

それから、変更解約告知については、これは後で紹介される論文とも関係してくるかもしれませんが、一言いっておくと、私自身は、労働条件変更の合理性判断、調整的処理を導くところに変更解約告知の積極的意義があるとは見ていないわけです。それは先ほど言われたように、集団的に形成された労働条件の契約内容への転移の手段だと見ているわけです。そういう変更解約告知も、少なくとも契約法上は禁止されていないだろうと考えています。

それから、岩村さんからの、ドライな結論となりすぎるのではないかというご指摘ですが、そういう面もあるとは思います。ただ、実際はどうでしょうか。変更解約告知によって解雇されていく、つまり、どうしても労働条件を受け入れないという形で解雇されていく労働者がどれだけ出てくるでしょうか。いや、実はそれは解雇の圧力により強制されてイエスと言っているだけではないかという反論が出てくるわけですが、それに対しての私の反論は、確かにそういう要素はあるかもしれないが、少なくとも、労働者にはどうしても変更された労働条件に賛成できない場合には、労働組合に加入したり、結成したりして、今の労働条件を改善させていくための手段が与えられているということを考慮しなければならない、というものです。つまり、団結を通じた利益保障という手段が保障されているということを考慮すると、たとえ個別的に労働者がイエスと言った場合であっても、それは法的には尊重すべきであるというのが私の考え方です。

最後に、17条の一般的拘束力の問題は、確かに相当自分でもドラスチックなことを言っているということを自覚しています。一方で私的自治を重視すべきと言っているのに、何で未組織労働者の意思は重視されないのだというような疑問は当然出てくると思われます。この点は、論文でも書いているように、私は次のように考えています。すなわち、17条というのは、まず、就業規則の法理と違って明文の根拠があるということ。そして、17条は、当然、強制的な適用というものが織り込み済みになっている。立法者の考え方は、17条の限りでは私的自治を制約することを認めているのではないかということ。そして、4分の3という要件は、かなり厳しいものであるということ、以上から私的自治の例外も許されると考えているのです。

要するに明文の根拠があり、正当性も十分にあるということからすると、むしろ労働条件の統一化機能としては、就業規則法理よりも17条のほうが適切ではないのかと考えるに至ったわけです。

過半数の支持のない就業規則の法的拘束力を否定するだけですむか
毛塚

その前に、基本的なところで疑問があります。労働条件の流動的な形成にかかわる部分ですが、就業規則は確かに過半数の支持を得て作成することは望ましいけれども、実際上は就業規則というのは、過半数代表の意見を聴取するだけで作成や変更ができるわけです。そういう方法で就業規則を変えたときに、その就業規則の拘束力なり、法的な効力というものをどのように構成するわけですか。

大内

その就業規則は、まず、書面化された就業規則と、そこに記載されている労働条件とを分けて考えるべきだと思います。書面としての就業規則、それ自身の持っている効力は契約説の立場では93条の効力だけです。それと就業規則に記載されている労働条件が契約として拘束力を持つかどうかは別の問題です。前者の問題は、少なくとも一方的に不利益に変更された就業規則には93条の効力は生じないと考えています。後者の問題は私の考えでは集団的労働条件の正当性原理、つまり過半数主義に基づき処理されるわけです。

毛塚

そうすると、過半数の支持もなく新しい就業規則をつくることは幾らでも現実の社会で行われているわけですが、そういう就業規則の法的拘束力は、内容の合理性を問うまでもなく否定されるんですね。

大内

そうです。

毛塚

その辺が問題の対処の方法としてやや非現実的になってしまう気がします。むしろ、印象を言わせてもらえば、結果的に変更解約告知を使うのであれば、最初から変更解約告知の合理性判断の枠組みの中で議論をしたほうが一貫性があると思うんですよ。どういうことかと言うと、個別的労働条件の変更についても変更解約告知、集団的労働条件の変更についても、個別的変更解約告知の集団的な行使と見るか、あるいは集団的変更解約告知権の行使と見るかはともかく、変更解約告知権の行使と見れば、別に過半数の支持があるか否か不明であっても、変更解約告知の合理性判断で対応すればいいわけでしょう。形成過程と編入過程を結びつけることだけに変更解約告知の機能を限定していることで、かえって処理方法を狭めることになっている。むしろ変更解約告知によって労働条件の形成ができるという形にしておいて、集団的労働条件については大内理論を生かすならば、過半数の支持で合理性を肯定し、支持がないときには、個別具体的な事情で合理性判断でやればいいではないかという気がするのですが。

大内

集団的労働条件の変更と、個別的労働条件の変更とは明確に区別されるべきで、個別的労働条件の変更は別の法理で対処されるべきと考えています。

毛塚

就業規則の変更が現実にあるときに、それによって個別労働者の労働条件が変更を受けるということがあるわけだから、集団的労働条件としての変更といっても、当該労働者の労働条件を変える意味もあるわけでしょう。

大内

それは集団的労働条件というものを認めないということですね。

毛塚

集団的労働条件はアプリオリにあるわけじゃないと思うけど。その辺の認識も違うのかな。

大内

集団的労働条件、すなわち集団的に処理されている労働条件があるということが前提なのです、私の話は。

毛塚

それでもいいですよ。そのときに過半数の支持がなくても、集団的労働条件の形成に関して、なぜあなたが言う集団的変更解約告知の論理をもって対応しないわけ。

大内

個別的変更解約告知ですか。

毛塚

個別的変更解約告知の集団的行使でもいい。労働条件の集団性を崩さない限りで合理性判断をすればいいわけではないですか。たとえば、労働時間を38時間から40時間にするときに過半数代表の支持がないときには一切できないわけでしょう、大内説では。

大内

できないです。

毛塚

そのときに、なぜ個別労働者を対象にしてそういうことができないの。

大内

これは93条がかかってくるからです。つまり、個別で契約を不利益には変更できない。

毛塚

そうすると、大内さんは、やはり就業規則というのは法規範的に考える。

大内

法規範ではないのですが、93条の限りでの規範的効力はあります。

毛塚

たとえば93条の効力というのは、僕は禁反言的に説明すれば足りると思っていますが、それはともかく、法的な拘束力を持たせないでの説明は十分可能でしょう。

大内

いや、93条は、就業規則を下回る労働契約が締結されれば、それは自動的に就業規則の労働条件が労働契約の内容になるというのではないでしょうか。

毛塚

でも、労働契約内容を拘束すると理解しなくてもいいわけでしょう。93条の説明は片面的な効力ですし。ともかく、労働時間を38時間から40時間に延ばすというときに、使用者は就業規則を変えるということをやるわけですが、その際に、なぜ個別的な変更解約告知の方法ではそれをできないのか。

岩村

その場合は、大内説では、93条が適用になるから、使用者は、もし40時間にしたいのであれば、従業員の過半数の同意を得て、その上で40時間にすればいい。だから、個別には対応できない。

大内

93条というのはそういうものですよね。禁反言ととらえようがとらえまいが、就業規則を下回る個別的な契約の締結を排除する。

毛塚

そうすると、さっき言ったように、就業規則は集団的な合意がなければ変更できないという集団的合意説とほとんど変わらないですね。

大内

就業規則そのものに法規範性を認めるかどうかに違いがあります。私の考えでは、集団的合意を契約内容に転移させることが必要ですから。

現実とのギャップが大きくないか
大内

協約についてはどうでしょうか。

岩村

協約の面でも非常に大内説は特徴がある。特に少数組合との関係について。

毛塚

僕も協約が締結されたときに就業規則の変更の論理で配慮しますが、大内さんの場合、協約に基づいて変更解約告知も可能ですよね。そうすると、協約は就業規則と違って、片面的効力に限りませんから、非組合員とか未組織者に対して、両面的な効力を持つ画一的な労働条件を強制することを認めるわけですね。

大内

認めます、それは。

岩村

大内説の強烈なアピールは、労働条件の合理性判断については、裁判所には任せないというところにある。その点との関係で言うと、提案する解決がドライではないかというところにつなかりますが、従来、裁判所の合理性判断によって解雇に至らない形で決着をつけている事例が、大内説だと、新しい労働条件を呑んだ上での雇用の維持か、それとも会社を辞めるかという、その二者択一だけになってしまう。結局、変更解約告知の問題になりますが、そこが従来の判例が築いてきた理論との間の落差の目立つところかなと思います。

毛塚

僕は一番実務的にも法的にも問題だと思うのは、就業規則の変更の圧倒的部分は、労働組合がない事業所での問題だということですね。通常、そこでは過半数の支持をとりつけることも少ないと思うのです。大内理論では、そのような場合、合理性判断に乗ってこないわけですよね。

大内

変更できないです。

毛塚

そうすると、就業規則の変更によって労働条件を処理しようという、あるいは処理している現実の日本の労使関係、雇用関係とのギャップがかなり大きいのではないですか。就業規則変更の法理がメインのターゲットとしているのは、労働組合があるところや過半数の代表がしっかりしているところではなく、どちらかと言えばいいかげんなところです。

大内

その現状はよくない現状ではないのでしょうか。

毛塚

でも、就業規則というのは意見を聴取すれば作成・変更できるはずですし、それを前提として就業規則の内容をコントロールするのが就業規則法理の任務です。過半数の支持をあくまで要件にして変更を認めるのは、就業規則に対して別な新しい役割を与えようとしているからではないですか。

大内

それはそうかもしれません。

毛塚

そうすると、現在の就業規則と法制よりも一歩先に行ってしまって、むしろ共同決定とか経営協定とか、そういう性格の議論を現在の労働基準法のもとでなさっているということにもなる。

大内

そういうことを解釈論の枠内で目指したものと言えるかもしれません。

岩村

だから、大内さんのメッセージは、要するに労働者はもっとしっかりしろ、もっと強くなれ。組合もっと頑張れと、そういうつもりなんですよ。

大内

そのとおりです。

毛塚

組合のあるところで言えば変更問題では、僕も大内ふうに合理性の推定を言うけれども、問題はそう簡単ではないし就業規則の問題の中心はそこにはないと思っています。

岩村

過半数代表制を、そこまで現行の労使関係の中で信用していいのかは、確かに大きな問題です。

大内

それはおっしゃるとおりです、私も、今の90条における過半数代表者の同意では不十分であると思っています。やはり過半数の意思の確認はきちんと行わなければならないと思っています。

労働条件の形成過程に注目した道幸論文
毛塚

大内さんは過半数従業員の支持ということにこだわったわけですが、これは職場における労働条件の形成のあり方に注目をしたからだと思います。これに関連して、道幸哲也さんの「組合併存下における労働条件決定過程と団体交渉保障」(『法律時報』68巻7号、8号)という論文があるんですが、これが比較的問題意識として共通するものがあるということと、もう一つ、内容的にも大変興味深いことを指摘されていますのご紹介しておきます。従来、組合間差別に関しては、使用者の中立保持義務があるという話があるわけですが、それに関して、道幸さんは、団結権における中立保持義務と団体交渉権の中立保持義務では違うのではないかと言います。団体交渉権について言えば、中立保持義務はストレートに当てはまらない。というのは、職場における労働条件の適切な決定過程という観点から見た場合、多数組合は従業員の4分の3を組織している場合とか、過半数代表として、協約や協定の締結が問題となっている場合には、職場全体の労働条件を決定する役割を果たしている。したがって、使用者は多数組合を重視しなければならないし、また、重視することがそれなりの合理性を持っているんだということで、中立保持義務について、団体交渉権については別な考え方をすべきことを提言されています。企業内における労働条件の形成に関する最近の問題意識を共有するような論文だと思うのですが、大内さんは、どうお読みになられましたか。

大内

問題意識は共有しているのですが、この論文では、不利益変更の場合の処理をどこまで意識されているのかがよくわかりませんでした。おそらく、この論文が主として念頭において取り組んでいるのは、多数組合がある有利な条件を獲得したときに、それを少数組合に及ぼすべきか、あるいは及ぼさないのか不当労働行為とならないのはどういう場合か、という問題だと思います。おそらく現在、より深刻な問題は、不利益変更について多数組合が同意したときに、その同意内容を少数組合にどう及ぼしていくのかであり、この点についての著者の見解を知りたいところです。

2.変更解約告知

毛塚

では、労働条件変更問題の二つ目の問題である変更解約告知を扱った論文、毛塚勝利「労働条件変更法理としての『変更解約告知』をどう構成するか─スカンジナビア航空事件を契機に─」、土田道夫「変更解約告知と労働者の自己決定─スカンジナビア航空事件を契機として(上)(下)」の検討にうつりたいと思います。大内さんのほうから紹介して下さい。

論文紹介

大内

まず、毛塚論文では、変更解約告知について、従来の契約内容では契約関係を維持しがたいという事情のもとで、合理的な契約内容の変更であるにもかかわらず、労働者がその変更に応じないことを理由とする解雇の意思表示であると定義されています。そして、このような変更解約告知における使用者の意思は、契約関係の解消にあるのではなく、労働条件の変更にあるのであるから、そのようなものとして法的にも取り扱われるべきであるとします。

変更解約告知の有効要件としては、まず契約内容変更が合理的でなければならないとされます。合理性の判断基準は、労働者の事情に起因する場合と経営上の理由に基づく場合とで区別すべきであり、後者の経営上の理由に基づく場合については、これは経営上の困難に伴う不利益を労使間でどう負担するのかが問題となっているので、整理解雇と同様の集団的な考察が必要であると述べます。

具体的には、五つの要件が設定されています。まず1番目は、当該労働者の契約内容から見て、新たな契約内容が受忍しうるものかどうか。第2に、当該労働条件の変更はやむをえないとする事情があるかどうか。3番目に、当該労働条件変更を回避するための努力をしているかどうか。4番目に当該労働条件変更の対象選択の合理性。5番目に当該労働条件変更措置をとるに至るまでの、労働組合や労働者との十分な協議の有無が審査されることになります。

労働者は、変更解約告知に対しては、相当期間内に変更の諾否を行わなければならないとされ、ただその際には合理性の判断を裁判所で争うことができ、裁判所の合理性判断が下されるまでは、労働契約の内容は従来のままであるとされています。

ただし、労働者が合理性を留保して変更を承諾した場合には、新たな契約内容において、暫定的な法律関係が形成されることになります。そして、裁判所が合理性を認めたとしても、さらに相当期間は労働者が新たに諾否の判断をすることができます。裁判所が合理性を否定すれば従来の契約内容のままとなり、そして、合理性が肯定されてかつ労働者が承諾を確定的に拒否すれば、解雇は有効となるという結論になります。以上が毛塚論文の内容であります。

続きまして、土田論文を紹介します。この論文によると、変更解約告知とは、従来の労働契約を解約するとともに、労働条件、契約内容の変更を申込むことと定義されます。そして、変更解約告知が有効とされるためには、変更の申込を拒否した労働者の解雇を正当化する程度の労働条件変更の合理性、すなわち必要性、相当性を備える必要があると述べます。

具体的には、労働条件変更を不可避とする事情の存在、そして、変更による不利益を労働者に受忍させることの相当性があること、さらに、事前の説得義務、これらが有効要件となるわけです。

土田論文では、個別的労働条件の変更と集団的労働条件の変更とが分けて議論されています。個別的労働条件の変更においては、変更解約告知は労働者の自己決定の理念を現実化することを可能とする法技術であるという評価がまずされています。たとえば、判例法理は、変更解約告知を知らなかったために、職種変更について、職種限定の同意があると認められる場合を制限し、広く配転命令権を認めようとしてきました。ここでは使用者の包括的命令権と労働者の服従という事態が生じているわけですが、もし変更解約告知を認めるとすると、職種限定の同意を認めても、変更解約告知による職種変更が可能となるということになります。そして、変更解約告知というのは、労働者に変更申込を承諾するか、あるいは拒絶して解雇されるかの選択をゆだねるものであり、労働者は解雇のリスクを負いつつも、労働条件変更に主体的に関与できるという点で、自己決定の理念に適しているという評価をするわけです。

集団的労働条件の変更については、判例法理のように解雇権の制限を理由に一方的な変更を認めるよりも、労働条件の統一的処理を行い、かつ、変更に応ずるか否かを労働者の自己決定にゆだねる変更解約告知のほうが望ましいという評価をします。そして、この場合の変更解約告知の要件は、当該就業規則の内容が合理的であることであり、その判断基準は、判例法理と同様のものとなると述べます。

最後に、労働者の雇用保障という観点からは、変更解約告知においては留保付き承諾を認める必要があり、使用者は信義則上、労働者の留保付き承諾を応諾する義務を負うと解すべきだと述べています。また、使用者は変更解約告知を行う際には、労働者が留保付き承諾という対応をすることも可能であるということを告知する信義則上の義務を負うとも主張されます。そして、これによって、労働者は解雇のリスクを負うことなく、変更解約告知の効力を争うことができ、雇用保障との抵触をなくし、自己決定が保障されることになるというように結論づけられています。

疑問点

コメントでありますが、両論文とも、スカンジナビア航空事件の東京地裁決定が出たことを契機として、日本でも注目を浴びることとなった変更解約告知について、詳細な検討を加えたものです。毛塚論文は、変更解約告知を日本法のもとでどのように法的構成がなされるべきかということを主題とするものであったのに対して、土田論文は、変更解約告知を自己決定の理念に適した法技術であるという位置づけのもとに、既存の配転法理や解雇法理との関係も考慮に入れながら、その有効要件などを含めた解釈論を展開するものです。

以下個別的に見ていきますが、まず、毛塚論文は、変更解約告知を契約法の原則と解雇制限法理とを調整する、新たな労働条件変更手段として位置づけており、それに応じた法理を構築しようとされています。筆者自身は労働条件の変更手段として、以前から契約内容変更請求権という考え方を主張していますが、本論文では、仮に変更解約告知を承認すると、どのような法的構成が行われるべきかという観点から検討を行っています。

この論文に対する私の一つの疑問は、変更解約告知が従来の契約内容では労働契約関係を維持しがたい事情が発生した場合にしか、すなわち、通常の解雇の要件を満たしている場合にしか認められないと考えているように読める点です。変更解約告知の概念、定義をこのように限定するのであれば、変更解約告知に固有の要件がなぜ必要となるのかが問題となると思われます。変更解約告知では、契約内容変更の合理性が問題になるのだとしても、ここで考慮すべきなのは、労働者があくまでも変更に応じなかった場合の解雇が有効となるのはどのような場合であるのかであるはずだからです。すでに通常の解雇の要件が存在しているのであれば、変更の合理性を論ずるまでもなく、当然に変更契約告知も有効となるのではないかと思えます。変更解約告知の独自性を認めるのであれば、従来の契約内容では労働契約関係を維持しがたい事情が発生した場合とは言えなくても、労働条件変更の合理性があれば、それを拒否した労働者に対する解雇が有効になる可能性があるという結論を認めるべきであると思います。解雇というものを、従来の契約内容では労働契約関係を維持しがたい事情が発生した場合にしか認められないとする筆者の立場を一貫させれば、むしろ変更解約告知不要論に行き着くことになるのではないかと思います。

毛塚論文についての最後のコメントですが、変更解約告知を認めて、変更内容の合理性を筆者の言うような基準で判断すべきということになると、確かに変更解約告知の手続において、何らかの形で合理性を確認する手続を設ける必要があるということになります。その点では、筆者は非常に周到な配慮をして自説を展開するわけですが、そこで述べられていることは、どこまで解釈論の範囲内で可能であるのかが問題となると思います。

続いて、土田論文についてのコメントですが、この論文では、変更解約告知を自己決定に則した手段と認めた上で、既存の判例法理を自己決定の理念に反するものとし、これに批判的な形で変更解約告知の理論的可能性を検討しており、この点は私としても大いに賛成できます。とくに集団的労働条件の変更において、判例の就業規則法理に代わるものとして、集団的変更解約告知を提唱している点も私の論文と共通の理論的指向を持つものです。

ただ、問題は、集団的変更解約告知の要件が判例法理と同じとされているところです。判例法理を自己決定の観点から批判する点は正当だと思いますが、判例法理に対するもう一つの疑問であるところの合理性基準のあいまいさというものは、土田論文では解消されないことになります。結局、土田説と判例法理の違いは、一方的に変更された労働条件を拒否して辞職するか(判例法理のケース)、変更の申込を拒否して解雇されるか(変更解約告知)の違いです。契約法理から見ると、この違いは大きいと思います。なぜかというと、合意による変更という契約自由を貫徹できるかどうかというところに違いがあるからです。しかし、土田論文が強調する自己決定という観点からは、判例法理と土田説との間に果たしてどれだけの違いがあるのかという点が、私にはよくわからないのです。

討論

毛塚

詳細なコメントをありがとうございます。岩村さん、もしつけ加えるところがありましたらお願いします。

岩村

大内さんのコメントにほぼ尽きていると思います。両論文とも、スカンジナビア航空事件を契機に、変更解約告知の中身について、ドイツの法理を我が国に移植する際に考えられるいろいろな論点を明らかにし、今後の変更解約告知をめぐる議論の土台を築いた論文だと思います。

これは先ほどの大内論文の議論とも関係しますが、毛塚さん、土田さんの論文を拝読して思ったのは、従来の就業規則の変更法理との関係をどう整理するのかという点です。お二人とも、論文を拝見すると、従来の最高裁判例の就業規則変更法理についてはあまり賛成でないというお考えをお持ちだとの印象を持ちました。そこからすると、変更解約告知の方が契約法理としては貫徹しているという点で、お二人ともそちらに引かれているのかなと思いました。

もう一つ私が気になるのは、組合があった場合の団体交渉との関係をどう整理するのかという点です。変更解約告知の問題自体は個別契約法上の問題ですが、労働組合があって、その組合との間で労働条件の変更等を話し合う、交渉するという段階になったときに、この変更解約告知がどう関与するのかについて、もう少し考えてみる必要があるという気がしました。

通常の解雇要件を満たす場合に限定されるか
毛塚

ありがとうございました。私だけが反論権を行使するのは申しわけないんですが、大内さんがご指摘なされた部分について若干お答えをしておきたいと思います。

まず第1点ですが、従来の労働契約内容では契約関係を維持しがたい事情が発生した場合にしか、すなわち通常の解雇要件を満たしている場合にしか、変更解約告知は認められないとするのは狭すぎるというご批判かと思います。

しかし、従来の契約内容が使用者にとって維持しがたいから契約関係を切断したいということであれば、使用者は終了告知という解雇の方法もあるわけです。にもかかわらず、変更解約告知を選択するというのは、維持しがたいとはいえ、契約内容を変更した上であれば契約関係を維持する意思を持っているわけです。使用者は契約関係を維持しがたいというときに、解雇も選択できるし、変更による契約の維持も選択できる以上、基本的には契約関係を維持しがたい事情という意味で言えば、同じ程度の要件が必要だろうと考えるわけです。

また、大内さんは、変更解約告知は、労働者が変更に応じなかった場合の解雇の有効性問題であるから、労働条件の変更の合理性があれば、それを拒否した労働者に対する解雇が有効になるという結論を認めるべきとおっしゃるわけですけれども、もともと契約は、現在の契約内容を守るのが基本原則ですから、契約の変更に応じないこと自体が解雇理由になるということは、契約法の原則から言えないわけで、解雇しうるとすれば従来の契約関係を維持しがたいという事情があるからです。したがって、契約内容の変更が合理的であれば解雇になるといっても、それは変更に応じないからではなく、変更に応じない以上契約関係を維持しがたくなるからだと、僕は理解しているんです。その意味でも、変更解約告知の要件が解雇要件よりも緩やかでよいとは言えないと考えています。

それと、解釈論か立法論かわからないとのご指摘ですが、本人はすべて解釈論のつもりです。

留保付き承諾で十分か
毛塚

土田さんと僕の議論の違いというのは、解雇の一形態として処理するか、変更理論として純化して考えるかという点に関連しますが、ドイツ的議論で満足するかという点もあります。土田さんのいないところで批判するのはアンフェアなんですが、自己決定と言うけれども、解雇が持つ労働者にとっての意味、あるいはわが国の解雇訴訟手続の困難性を考えれば、事実上強制された選択になる可能性は高いわけで、現実に自己決定とは言えない。また、理論的にも自己決定に適合的と言えるかは疑問です。

変更解約告知理論を入れるときに留保付き承諾の可否がポイントだとよく言われます。それも確かに重要で、僕も解釈論的に留保付き承諾の可能性を求めています。しかし、留保付き承諾を労働者がとらなくてもいいとも言っています。なぜかというと、たとえば、異職種配転とか、あるいは自分の親の介護が必要である事情のもとで、会社が転勤を命じますね。そういうときに留保付きであれ承諾することは、ともかくも転勤に応じなければならないわけで、そうすると、現実には暫定的とはいえ、自分の職業的能力が無視される、あるいは自分が親の介護をすることは断念せざるをえないわけで、やっぱり僕からするとバランスを欠くと思うわけです。留保して変更に応じうるだけでなく、場合によっては留保せずに争えることにしないと、非常に労働者に負担がかかる。だから、ドイツにはない法理として、労働者が留保付き承諾をしていない場合には、変更解約告知の効力判断について、裁判所は、たとえば、労働条件の変更が合理的だと考えた場合には、1週間なら1週間という相当期間内に労働者がそれを受け入れないことを前提にして解雇の効力を認める判断をする方途を模索したわけです。自己決定を言うならそこまで認める必要があると思います。

また、そのことは、決して解釈理論としては成り立ちえないと思わない。もともと使用者は、自分の行う変更に合理性があると考えて、変更に応じてほしい、応じなければ解雇するということです。労働者のほうも、変更の合理性があれば応じますということを言っているわけで、合理性の存否を除けばお互いの意思が一致するわけです。解雇の意思表示が、そもそもある意味では条件付きの解雇の意思表示であったというふうに考えれば、裁判所が、変更には合理性があると判断した段階で労働者が最終的に応じるか否かの判断をすればいいとする解釈は、それほど無謀な解釈論だとは思わないですけれども……。

大内

最後の点は、使用者の意思としても、合理的な変更を行うことがその内容になっているということですね、意思解釈として。

毛塚

そうです。

大内

法律で合理性がなければならないという設定をして、その枠組みの中であれば、そのようなことも言えるのでしょうが……。そこは、立法論か解釈論かというところと関係してくるのです。たとえば、使用者が、合理性にまったく無頓着に変更を申し込んできたというときはどうですか。

毛塚

変更を申し入れて応じなければ解雇しますよという意思表示の中に、契約関係の存続を考えると合理的な変更だから、合理的な変更に応じないと解雇しますという意思を読むということですね。

大内

そう読める前提がどこまであるのかというのが私には疑問です。

毛塚

解雇制限の法理があることが議論の前提です。解雇には、従来の契約関係を維持しがたい理由がなければならない。また、契約内容は守らなければならない。とすると、契約内容を変更しようとする使用者は、契約関係を存続しがたい事情や契約内容を守れない事情を説明しないと、変更も解雇もできないはずですので、変更に応じなければ解雇という意思表示には、変更の合理性や解雇の合理性を当然の前提としていると思うのですが。

大内

解雇制限の法理を前提とするとそうなると思います。ただ一点指摘しておきたいのは、契約法理と解雇制限の法理とは次元が異なるものであるということです。契約法理では現在の契約内容は守られなければならないとおっしゃいますが、期間の定めのない雇傭契約のようなものは、契約当事者は予告期間さえおけばいつでも契約を解約して契約の拘束から免れることができるのです。実際、労働者側からの辞職は、とくに契約関係を存続しがたい事情がなくても可能です。解雇制限法理についても、契約法からは当然には出てこないのではないでしょうか。

毛塚

解雇制限法理は今日の労働契約法ですし、それを前提にして契約内容の当事者による流動的形成を図るのが、労働契約法理の課題と考えています。

解雇要件を満たすのに労働条件変更の合理性がなぜ必要か
大内

こだわって議論すべきかどうかわからないのですが、変更解約告知というものを毛塚説の枠組みの中で認める意味が依然としてよくわからないのです。というのは、変更拒否して解雇された場合、変更解約告知の定義上、普通の解雇の要件は満たしているわけですよね。だから、変更解約告知の、労働条件変更の合理性という要件を設定する意味は、解雇との関係ではないのではないかと思うのです。

毛塚

変更解約告知自体の合理性判断は、解雇の合理性判断とは異なります。ただ、従来の契約関係を維持しがたい事情に基づく変更の必要性をベースに変更の合理性判断を行いますので共通性はあります。

大内

その要件がなくても使用者は解雇できますよね。なぜその要件が必要なのかということなのです。解雇してもいいのに、変更解約告知を行った。しかし、解雇の要件は定義上すでに満たしているわけですから、どんな労働条件の変更でもよいのではないですか。

毛塚

でも、合理的な変更であるにもかかわらず応じないことを理由にする解雇の意思表示ですから、使用者の意思は、決して契約関係を解消することに直接的な目的があるわけではないですよ。解消したいのなら解雇をすればよい。実際の目的は契約の内容を変えることだから、契約内容の変更を中心にした合理性判断が必要となる。解雇要件を満たす状況があるからといって、労働条件や契約内容の変更が自由ということにはならない。

岩村

私も解雇権の合理性の判断の中に、労働条件の変更の合理性の部分が入るのではないかと思います。だから、その労働条件の変更の部分と、解雇の合理性判断の部分とが切れるというのは、どうも理解しにくい。

毛塚

ただ、その点は、ドイツでも同じですよ。変更解約告知の合理性判断は変更の合理性判断です。

岩村

そうだとすると、これは解雇の問題ではなく、実際は変更の合理性の問題であると説明したほうがわかりやすいという気がします。

大内

私の理解では、毛塚説で相当性が要件とされるのは、もし変更を受け入れたときに、その内容が適正であるというための絞りではないかなと思います。なぜかというと、変更解約告知というのは、解雇を背景にした労働条件変更の強制である。だから、そのまま受け入れさせるというのは、労働者にとって酷かもしれない。そのときに、労働条件の変更が合理的であって初めて、解雇の強制のもとに受け入れても、それはまさに真の意味の承諾として尊重すべきだ、そういう関係での要件だとするならばよくわかるのです。

岩村

そこは、留保付きの承諾が認められるかどうかにひとえにかかっている。留保付きの承諾が認められれば、まさに変更の合理性のところだけを判断すればいいわけですから。そうすると、留保付きの承諾を認めた上であれば、解雇の問題でなくて変更の問題であると整理がつくでしょう。その意味では、毛塚さんの説は、留保付き承諾を認めるわけですから、整合的になる。

大内

労働条件変更手段としてとらえていると……。

岩村

それだと一貫すると思う。

大内

ただ、さっきの繰り返しですが、変更を拒否したときの解雇の有効要件として見た場合どうなのでしょうか。毛塚説では、変更解約告知ができる場合というのは、従来の契約内容では労働契約関係を維持しがたい状況が発生した場合に絞っていますよね、定義上。むしろ変更解約告知は解雇回避手段の一つともみることができる以上、このように絞り込む必要がないということにはなりませんか。

毛塚

でも、契約内容は遵守するのが原則ですので、契約内容の変更に応じないということでは基本的に解雇できないはずですから、契約関係を維持しがたいという解雇要件で絞りをかける必要はあると思います。そういう意味では、変更解約告知は労働条件の変更手段とはいえ解雇という性格をぬぐいきれないわけです。

変更解約告知と自己決定論
毛塚

私の議論はこの辺にして土田さんの議論についてもう少し検討しましょう。先ほど大内さんは基本的には賛成されておられましたが。

大内

集団的労働条件について、集団的変更解約告知を使うというのは私と同じなのですが、要件が全く違うのです。土田さんは判例法理の基準を使うのです。それはそれで一つの考え方だと思いますが、自己決定という観点から見ると、現行の判例法理とどれだけの違いがあるのかというのが私の疑問です。

毛塚

変更解約告知が自己決定の観点から望ましい─これは先ほどの西谷論文の中にもありましたが─ということですが、先ほど述べたように、現状では疑問ですね。

大内

変更解約告知は自己決定に適合的だと思います。確かに解雇の強制はありますが、意思は意思だと思います。しかし、そこに何らかの歯止めが必要である。私の場合だと、過半数の支持という明確な要件を設定しています。あとは、本人がいいと言ったんだったら、それはそれで自己決定と評価すべきである。労働者には挽回する手段はあるんだというふうに考えます。

毛塚

それは集団法的な分野での対応ですよね。個別契約法の領域で言うならば、やはり労働者からすれば、使用者が言っているのが正しいのか、自分が言っているのが正しいのか、第三者の判断を待って結論を出すことが、理論的にも制度的にも保障されないと、自己決定に適合的とは言いえないと思います。