1999年 学界展望
労働法理論の現在─1996~98年の業績を通じて(4ページ目)


Ⅲ 労働時間

1.年次有給休暇

論文紹介

毛塚

それでは、次に労働時間関係の二つの論文を取り上げます。一つは山田桂三「年次有給休暇法理の再構成」、もう一つは奥山明良「女子保護規定の廃止に伴う法律問題─時間外・休日労働、深夜業を中心に─」です。私のほうから、まず、山田さんの論文について紹介します。

山田論文は、個別年休と計画年休を統一的に法的に構成することをねらって、やや大胆とも言える法理構成を提起しています。

まず、時季指定権ですが、一方的意思表示により労働者が時季を指定すれば、それだけで直ちにその効果を発生させる確定的時季指定権と、その効果発生を労使の調整にゆだねる調整的時季指定と、二つの部分からなる複合的な構造を持つ特別な権利だとしています。

他方、時季変更権は、使用者は時季指定権者たる労働者に対して、時季指定の変更を勧奨、勧告をすることができるところに本質的な内容を持つということで、これを時季変更勧告権と解しています。したがいまして、この時季変更権は労働者を法的に拘束するものではなく、それを受け入れるかどうかは労働者の良識にゆだねられているとします。これに対して調整的な時季指定権の行使については、調整可能な時間的余裕を持って時季指定することが労働者に求められ、これに反する場合には、信義則に反する、あるいは権利濫用になると言います。

次に、計画年休ですか、これには、自由年休によるものと協定によるものの二つがあり、自由年休による計画年休は、調整的時季指定権行使による年休で、そこでは労使の個別的合意により休暇の時期、期間等が調整され特定されるか、協定による年休につきましては、使用者と当該事業所の過半数労働組合または過半数代表者との協定による年休ということになります。行政解釈は計画年休には、事業所の一斉付与方式、班別付与、個人別付与の3方式があるとしていますが、そのうち個人別付与方式というのは、もともと自由年休による年休時季指定で、それを協定化したものにほかならないと言います。したがって、従来からの39条4項の年休と新5項の計画年休とは、この点で接合し、ともにその基底には労働者の時季指定権があるというふうに主張しています。そして、計画年休協定は、調整的時季指定権による年休特定方式であり、協定は年休時季の提案にすぎず、労働者の承諾によって時季が特定するとします。

確定的時季指定権と調整的時季指定権

このような極めて大胆な議論ですが、特徴あるいは意義としては、長期休暇の時季指定権の行使を形成権構成で対応することに対して疑問を提起し、年休の始期と終期を特定しない「時季不着定型長期年休」の時季指定の権利構成を視野に入れていること、また、時季変更権を調整のための権利ということを積極的に前面に押し出した法理構成を志向していること、また、計画年休については、自由年休と計画年休によるものがあるとして、計画年休の年休権と個別年休の年休権を統一的に構成しようという試みをされているところにあるのではないかと思います。

ただ、法的な構成として、それが成功しているかというと疑問があります。まず、調整的時季指定権というわけですが、その性格が必ずしも明確でありません。そのため労働者の調整的時季指定権の行使に対して労使間で合意ができなかったとき、あるいは使用者が何らの対応もしなかったときにどのような法的な効果が発生するのかは不明です。

第2に、時季変更権を単なる勧告権と解しますと、無視してもよいということにもなりますので、「他の時季に与えることができる」という明文規定と齟齬をきたすことです。

3番目に、確定的時季指定は、権利濫用にならず、調整的時季指定の場合のみ、信義則違反や権利濫用となるというのはやや理解しがたいところです。取得時季の迫った確定的な時季指定のほうが本来権利濫用的な性格を持つはずだと思うからです。

また、計画年休について時季を定めても、単なる提案にすぎず、労働者に許諾の自由があると解すると、計画年休の本来的な役割が果たせなくなるのではないか、こういう批判も可能ではないかと思います。

以上、簡単ですが紹介と問題点を指摘しましたが、まず、大内さん、いかがですか。

討論

免罰的効力のもとでの許諾の自由
大内

最後のコメントのところですが、よくわからなかったのは、計画年休協定には免罰的効果が発生するという点です。これは一体どういうことなのでしょうか。労使協定で定めた日を年休として使用者が扱い、その他の日に年休を与えなくても、労働基準法違反は発生しないということでしょうか。

岩村

協定で法定年休20日のうち一定日数は計画年休とすると定めていたところ、労働者が、計画年休に含まれない年休分をすべて消化した後に年休がもう一日欲しいと求めたが、使用者が拒否したという場合を考えます。山田説に従った労働者側の言い分は、自分は同意をしてないから自由に使えるはずだというものでしょう。使用者が、この労働者の要求を拒否しても、罰則はかからないというのが免罰的効果でしょう。

大内

そうだとすると、山田説では、労働者に不利になることもあるのではないでしょうか。労働者の同意が必要であるといっても、使用者は、あくまで調整を拒否して、年休を与えないと突っぱねた場合、免罰的効果が及んでおり労基法違反にはならないのです。労使協定で指定された日に、とりあえず年休を与えようとした以上は、そこで労基法上の義務は果たされているわけです。あとは調整の問題になるのですが、それは労基法に関係しない問題なのです。使用者が突っぱねようと思えば突っぱねられる。労基法による強制はないということになるわけですからね。そうすると、これは実は労働者に不利な結果になるのではないのかというのが私の持った疑問です。

それから、似たような問題がほかにもあって、たとえば、確定的時季指定があり、時季変更勧告がなされた場合に一体どういうことが起こるのかです。今の毛塚コメントでも言われたように、勧告を無視した場合の法的効果は不明なのです。山田説によると、この場合でも、時季変更権の要件を客観的に満たしていれば、免罰的効果が発生します。他方で、時季変更勧告には法的な効果はないので、年休日は時季指定された日に特定されてしまいます。ところが、この日に使用者が出勤を命じても罰則はかからないのです。このとき、別の日に年休を取らせる義務が使用者に生じるというのも無理でしょう。そうすると、労働者にとっては、時季変更権の権利性を正面から肯定した処理のほうがまだましなのではないかという気がするのです。

岩村

一般に免罰的効果と言えば、おっしゃるとおりだと思います。労働者が年休を請求してきたのに対して、使用者がその年休は業務の正常な運営を阻害するといって、これを拒否したために、結局、労働者はそれに従って働かざるをえなかったという場合に、使用者に罰則がかかるかと言ったら、客観的に事業の正常な運営を阻害する状態があれば、罰則はかからない。

大内

そうなると、山田説の苦心があまり実を結ばなくなってしまうのではないかという疑問があるのです。

調整的時季指定は時季指定か
岩村

その点はおっしゃるとおりで、ちょっと詰めて考える必要があると思います。

私自身は次の点を疑問に思いました。通常の年休について、確定的な時季指定権による場合と、調整的指定権による場合とを分けて考えるとこの論文では構成しています。しかし、たとえば8月の間に10日ほど年休をとりたいという意思表示をすると、この論文によれば、使用者との間で調整することになります。その上で、年休は8月11日から20日までの10日間にしましょうと合意をすることになります。そうすると、これは、最終的に調整をした上で、労働者が8月11日から20日まで時季指定をしたということではないのか。だから、当初の意思表示は時季指定権の行使ではなく、法的には単に希望を表明したにすぎない。それに応じて、調整の結果、11日から20日まで年休が可能となり、それでは、11日から20日まで年休をとりますというのが、まさに、本来の法的な意味での時季指定権の行使なのではないでしょうか。

これに対し調整的指定権という構成で考えると、8月に年休を10日とりたいというところで時季指定権の行使があったのだから、使用者は8月にとにかく年休を10日とらせないと労基法違反が成立することになるでしょう。

大内

もし調整がつかなかったら、どうなるのですか。

毛塚

それがよくわからない。

岩村

よくわかりません。純粋にこの論文の論理を推し進めていくと、8月に年休を10日とりたいと言った時点で時季指定権の行使はあったのだから、結果的に8月に年休を10日与えなかったら、罰則がかかるのではないですか。

大内

そうかもしれません。いつ与えるかについては、調整がつかないまま時が経過すれば8月の最後の10日間に特定されるということでしょうか。

岩村

昔あった説ですね。

大内

そうしなければ年休日を特定しようがないですよね。

岩村

昔の選択債権説のように、8月の最後の10日間が自動的に特定される。

計画年休の趣旨が生きない構成
毛塚

この論文の積極的な部分を生かそうと思えば、どういうふうになりますか。

岩村

私の感覚からすると、調整的な指定権という考え方を実現したのがまさに計画年休だと思います。だから、その点をもう少しうまく整合性をとって解釈論を組み立てると、この論文が考えようとした一体的な年休理論に到達するのかなという気はします。

毛塚

論文の意図自体は、時季指定権という労働者が持っている権利を阻害しないで、なおかつ調整できる方法を志向していると思うのですが、それを整合的に構成できるかなのでしょうね。

岩村

それが労働者が一方的に時季を指定するタイプの年休ではできない。計画年休導入のもともとの狙いは、計画年休協定を締結するに当たって、労働者の代表を関与させる形で労働者側の意図を反映させることでしょう。この論文は、そうした計画年休の趣旨を必ずしも生かす方向に行かないように思います。この論文では、そもそも計画年休が持っている狙いと生じてくる矛盾点について、十分に解決に至るような理論が組み立てられていないのではないでしょうか。本論文の考え方では、使用者側は、計画年休協定を締結するメリットが、ほとんどないことになります。いつ労働者が、おれは計画で指定された日は嫌だと言ってくるかわからないわけですから。

毛塚

計画年休協定が成立した場合、労働者は使用者と調整した時季にやはりとらなければいけないわけでしょう。しかし、山田さんはとらなくてもいいという立場ですね。

岩村

この論文は、労働者のその都度の合意と同意が必要だと言っています。ですから、労働者の意見を事前に聞いて、計画ができて、あなたの年休は、いろいろ調整した結果、こうなっていますと定めても、最終的に協定が締結された後に、いざ実施となった段階で、労働者はおれは嫌だと言える。個別的に同意しなければいけないわけですから。

大内

私法上の効果という点では、労使協定は単なる提案にすぎません。

岩村

そう。だから、協定ができ上がって、調印して、免罰的効果が発生した後でも、労働者は、私はそれには同意してないと言えることになる。

個別的な調整的時季指定権の可能性
毛塚

計画年休協定までを提案にすぎないとしてしまう点は、やはり解釈論的に無理ということですが、個別年休を前提にした場合はどうでしょうか。最高裁は、事前の調整の有無を時季変更権の行使の妥当性のなかで考慮していますが、山田さんが言うようにあらかじめ調整的な時季指定をすると、事前の調整がうまくいくメリットはありますよね。時季指定権を形成権だと言いきって、形成権と時季変更権の対抗関係の中で結果的に調整するよりは、事前の調整を前提とした権利の行使を認めるということ自体は、可能性を含んでいるとは思うのですが。

大内

先ほど岩村さんからも指摘があったように、1ヵ月という単位で、そのうちの5日間年休をとりたいといったときには、使用者にとっては少なくともその1ヵ月の間に年休を5日間とらせなければならないという圧力がかかるという意味はあるかもしれません。

毛塚

そうでしょうね。

岩村

たとえば8月中に10日とりたいというのはまだわかるんですが、厄介なのは、夏に10日とりたいというのは時季指定なのかどうかですね。

大内

たとえば、7月から9月の間に5日とりたいという時季指定をしたら、5日は使用者に決めてくれというような感じもありますよね。

岩村

そうそう。

大内

山田さんは、これを使用者との調整の末に確定する意思表示と解するのが自然と述べていますが、一種の確定的時季指定権の放棄と解すことも可能ですよね。

毛塚

そういう時季指定でもいいのではないですか。

大内

そのとき、7月から9月はどうしてもうちの会社はきわめて忙しいということで、その時季自体を時季変更勧告することはできるのでしょうか。

毛塚

それもありうるでしょうね。

大内

でも、山田さん流の時季変更権の解釈によるとこの勧告には従う必要はないのです。それも調整にゆだねられることになりますよね。何か変な話になってくる。

岩村

やはり、時季変更権について考察を深める必要があると思います。調整的な部分についてはね。

毛塚

調整的な時季指定をしたときには、使用者の自由度が高まる分、時季変更権に制約がかかりますよね。ところが、時季変更権をはじめから勧告権として構成してしまうと、時季指定権を調整的権利として構成する意味をかえって損なう気がしますね。

岩村

その辺も含めてもう少し検討していただければというところでしょう。でも、議論としてはおもしろかったです。

2.女子保護規定の廃止に伴う法律問題

論文紹介

毛塚

それでは次に、奥山明良「女子保護規定の廃止に伴う法律問題─時間外・休日労働、深夜業を中心に─」に入りたいと思います。

この論文は、今回の均等法の改正とリンクして、労働基準法上の時間外・休日労働及び深夜業の規制が撤廃されたことに伴い、実務上発生しうる労働協約や就業規則の規定の改定をめぐる法的問題を包括的に検討したものです。

その際、時間外・休日労働に関して、大きく三つに類型化しており、第1に、男女共通の基準を設定する場合、2番目には男女別基準を設定する場合、3番目には家族的責任を有する労働者に対する配慮を行う場合です。

まず、男女共通の基準を設定する場合では、その中でも時間外労働へ女性を新規に組み入れ・延長する場合ですと、「制度的な合理性」は認められる。ただ、「女性保護規定の廃止」ということを理由とするだけでは、「適用の合理性」は認められない。これは、全体として最近の就業規則の変更理論を借りて制度の合理性と適用の合理性ということを分けた議論をしているわけです。したがって、制度の合理性は認められるが、適用レベルでは単に新しく女性保護規定が廃止されたというだけでは合理性は認められないという主張です。加えて、特別な事情、たとえば家族的責任を有する者がいわゆる激変緩和措置の上限を超える命令を受けるとき、あるいは健康上の理由等のやむをえない事由がある場合であれば拒否をすることができるというふうに言っています。男女共通の基準を設定する場合でも、希望者について個別合意で時間外労働、休日労働を免除・緩和することは、「法的にも実際的にも有効・適切な対応」であるが、希望する女性だけに時間外労働を免除・緩和することは、「男女平等の観点から違法・無効」であると言います。

第2番目の類型である、男女別基準を一律に設定することについては、たとえば男性360時間、女性150時間といった形で一律に設定する場合ですが、これは公序違反で違法・無効である。ただし、基準がどちらになるかに関しては今後の検討課題として結論は示していません。また、時間外労働から女性を一律に免除すること、あるいは一律免除の規定を置いて、希望する女性だけに時間外労働に組み入れるということは、「公序違反」だとしています。

第3類型の、家族的責任を有する労働者に対して配慮する際、別基準を設定するということが基本的に望ましいわけですが、一律の排除・緩和措置というのは、「疑問なしとしない」、また、家族的責任を有する女性だけに別基準というものを設定することは許されないとしています。

この議論は、深夜業に関してもほぼ同じようになされています。深夜業へ女性を新規に組み入れる場合、就業規則や労働協約を改定して、一律に組み入れることは、女性保護規定の廃止の趣旨からして、「基本的に適法」であるけれども、個々の女性の深夜業の義務が「当然に発生することにはならない」。また、不利益変更の「合理性判断」に際して、時間外労働の場合にも増して「高度の合理性」が求められ、加えて、深夜業への組み入れが、一時的・臨時的な場合、時間外労働の延長として深夜時間帯に入る場合、交替制勤務の夜間シフトに入る場合等で合理性判断が異なるとしています。他方、一律ではなく、男女ともに深夜業の対象にしておきながら、女性の希望者のみの免除を認める定めは「公序違反」であるということで、個別的な合意で免除を認めるという定めが望ましいとしています。

さらに、深夜業から女性を一律に除外するという方法は、「男女平等原則からして大いに疑問」であり、また、女性を除外しておいて、希望する女性に例外的に許容することも、「憲法14条の男女平等原則及びこれに基礎づけられた均等法の機会均等及び待遇の平等原則の趣旨に反する」としています。

家族的責任を有する男女に対する対応についても、時間外労働の場合と同じで、一律に深夜業を免除することは、家族的責任を有する労働者に一方的不利益を課すことになって「問題なしとしない」としていますし、また、家族的責任を有する女性のみを深夜業から免除することは、男性が希望してもこれを認めないということから、「雇用における男女平等原則、少なくとも均等法の趣旨に反する」と、このように述べています。

以上のような奥山論文の特徴ということで申しますと、まず第1に、法改正に伴い労働協約や就業規則で男女共通の時間外労働・休日・深夜業の規制を行った場合、制度の合理性と適用の合理性の判断枠組みをとり、不利益変更の合理性判断を行うという前提での議論をしていること、第2に、保護規定の撤廃後にも、女性について時間外労働や深夜業に特別な定めをすることは、一律に免除・軽減する場合であれ、女性の希望者に選択的に認める場合であれ、「公序違反」となるということ、第3に、家族的責任を有する者に対しても、一律に免除・軽減することは疑問であるとすることにあります。この論文、論点を非常に明快に整理しているのですが、結論を留保している箇所も少なくありません。とくに別基準を定めた場合に、どちらの基準が妥当するのか、あるいは家族的責任を有する者を一律に免除・軽減するということがなぜ否定されるのかとその根拠についてはとくに述べられていません。家族的責任を有するか否かは中立的な基準ですし、労働時間に関して用いても、間接差別をひきおこすものでもありませんので、一律に免除・軽減することに疑問とする根拠がどこにあるのかよくわからないところです。

討論

均等法の性格と男女別規制の許容範囲
岩村

今回の労働基準法改正、それから、均等法改正に伴って生じうる実務上のさまざまな問題点を広く想定して拾い上げ、それらについて、現在考えうる解釈論上の結論を示していただいている点で大変参考になる論文だと思います。

ただ、毛塚さんがおっしゃったように、比較的解答が得られやすく、またコンセンサスも得やすい部分については、奥山先生自身の結論が出ていますが、他方で、理論的にどう考えるかが難しいところについては、将来の検討課題とされています。そうした点については、今後我々自身も考えていかなければいけない。もちろん、奥山先生はどうお考えになっているかも、機会があればぜひお聞きしたいと思いました。

大内

この論文では、結局は、女性労働者の利益のための異別取扱は許されないということになります。確かに共通規制は基本的にはいいのだけれど、ただそれへの移行過程における対処をどう考えていくのかが気になります。つまり、現実には、時間外労働などは男女共通の規定にすると女性労働者にのみ不利益となるということがありうるわけです。これは基本的には変更を定める協約や就業規則の変更法理あるいは公序の問題として処理されることになるのかもしれませんが、このような法理とは別枠で考えるべき問題なのかなという気もしないでもありません。過渡期での異別取扱というのは激変緩和措置のようなもの以外は許容されないのかというのが私の疑問です。

毛塚

日本の均等法は、まだ女性のみを保護の対象にしていますよね。要するに性差別禁止法ではない。しかし、雇用平等を言う人たちの中には、性差別禁止に近いものもある。ここで議論されているのも、どちらかというと性差別の視点から平等、一律を求めている気がします。そうすると、今おっしゃられた、日本の均等法が持っている過渡的な性格とどこまで整合性があるのか。

岩村

典型的な例は─奥山先生が挙げられて、しかし、結論を留保されているものですが─、従来の規定を受け継いで、時間外労働の上限時間を、男性について年間360時間、女性について年間150時間と定めている場合です。この場合、これを女性の差別と考えるのか、それとも男女一律基準、つまり平等取扱のほうが基準になるのか。これに関係するでしょう。

毛塚

そうですね。

岩村

それは、女性差別で、女性のみを不利に扱っていると見る。そうすると、男性についてのみ年間360時間というほうは問題にならないのでしょうね。

毛塚

ここでの議論は、均等法の世界を性差別禁止法的な発想で考えすぎているということですか。

岩村

そう考えるのかが問題ですよね、実は。

家族的責任者への一律配慮と公序
毛塚

私は、差別禁止と平等処遇というのは違うと思うのです。今の均等法が、性差別禁止法ではなくそれに至る一つのプロセスだと考えれば、男女共通規制は一応望ましいにしても、プロセスにおいて差異を設けることは許容範囲だと思うのです。実際、均等法は、優遇措置の特例を認めている。また、先ほどふれた家族的責任を持っている労働者と持っていない労働者とを平等に処遇するか否かは、通常、平等原則一般の問題であって、差別禁止の問題ではない。したがって、それに対してリジットに差別禁止的な法理を適用する必要はないと思いますが。

岩村

本論文の議論は、改正後に生じうる法解釈論上の問題を想定しています。そうすると、最終的に裁判所が法解釈という形で一定の結論を出す。この場合には、かなり一刀両断的なドラスチックな解決が出てくる可能性があります。たとえば、今話題になっている、年間上限時間を男性について360時間、女性について150時間と定めているのを、裁判所が法解釈という作業で、一刀両断にある日突然、これは違法無効であると判決できるという選択肢を我々が選択するほうがいいのか、それとも、何らかの政策的な目的を立てて、それに向かって─さっき、大内さんも言っていた過渡期の状況と考えて─徐々にある目的に向かって政策的に収斂させていくという方向で考えたほうがいいのかも、大きな問題です。

大内

奥山論文では、時間外労働からの女性労働者の一律免除を認めて、希望する女性だけを時間外労働へ例外的に組み入れることは、男女平等原則に反するものと言いうるとされているのです。私には、過渡期にはこういうのが許されてもよいのではないかと思えるのです。男女平等原則をどう考えるかという問題もあるし、それにプラスして、実質的に考えても妥当かどうか疑問があります。このような問題を考える場合、法律が変わったときには、過渡期の問題というものを考えざるをえないのではないかと思いました。

岩村

そうすると、過渡期においては公序の概念も可変であると考えることになる。

大内

フレキシブルになるということです。もっとも、はっきりと禁止されているような差別であればこれは無理です。たとえば放射線影響研究所事件(最一小判平成2年5月28日)のように、定年の男女差別を許さないということが公序の内容に明確に取り込まれていれば、現存の差別を段階的に解消させていこうというのではだめだという考え方もありうると思います。しかし、ここでの問題は、そういう問題ではないだろうということなのです。

岩村

その場合には、公序の問題ではないということになりますね。

毛塚

公序にもいろんなレベルがあるということではないですか。

岩村

過渡期においては公序も過渡的に変わっていくと考えるのか、それとも、法律が変われば、やっぱりある日突然、公序も変わるのでしょうか。

毛塚

ただ、現在の均等法は性差別禁止法ではなく、女性の雇用における地位を高めるという段階にまだあるわけですね。そうすると、平等原則に基づく不利益取扱の禁止と公序としての差別禁止を分けて考える、私の理解からすると、差別禁止の法理を平等原則の法理とやや混同しているように思えるのです。平等原則は企業内における公正処遇の一般的原則ですが、差別禁止は社会的、歴史的に形成されてきた差別というものをまさに公序として排除するものだと思います。また、その公序も法的規制いかんによって強弱はある。今後、均等法も性差別禁止法という形で両面的な公序になるかもしれませんが、現在の段階では、女性保護の観点から、もう少しフレキシブルに対応してもいいのではないでしょうか。

岩村

奥山さんも、差別禁止から雇用平等へという流れを念頭に置きながら理論構成を考えているので揺れ動きがあるのではないですか。

大内

最後は平等にいくというのは、それはそれでいいとは思うのですが……。

それと、これも毛塚さんが言われたように、この論文では家族的責任を有する者への特別な措置、この適法性に疑問があると述べていますよね。そこまで言っていいのか。

毛塚

先ほども言いましたが、これは一般的平等原則の問題で、差別禁止の問題ではないと思うのです。

大内

公序良俗違反にはならないのではないかと思います。就業規則でこういうのを定めたときでも、明確な実定的根拠がなければ、これを無効とするのは難しいと思います。

毛塚

誰でもその生涯において家族的責任を持つことはあるわけだから、そういう人たちに対して一律免除しても別におかしくはないと思いますが。

大内

労使がそういうのをいいと判断して、労働協約で定めているのを、だめと言うことはできないのではないでしょうか。

毛塚

そのような公序性はないと思います。奥山さんの意図をどこまで理解した上での議論であったかはわかりませんが。