1999年 学界展望
労働法理論の現在─1996~98年の業績を通じて(2ページ目)


Ⅰ 総論

毛塚

それでは早速、総論の部分にかかわる論文として西谷論文「労働者保護法における自己決定とその限界」を取り上げまして、最近の自己決定に関する議論の動向について検討を加えたいと思います。それでは大内さん、よろしくお願いします。

論文紹介

大内

労働保護法と自己決定

この論文は、まず、伝統的な労働法理論は、労働者の自己決定を軽視してきたのだが、労働者の多様化や、現実の企業社会や企業別組合の内部における労働者の意思の軽視などの状況において、このような伝統的な態度は大幅に修正されるべきであると述べます。

とはいえ、このように自己決定の理念を強調するからといって、労働契約に対して強行的に作用する労働者保護法の規制緩和が直ちに必要になるというわけではないとします。

労働者保護法が自己決定を否定するのには、それなりの理由があるわけで、国家法の後退がどこまで認められるかは、この理由に照らして判断していく必要があると述べます。ここで挙げられている理由は三つあります。第1に、労働契約においては労使間で力関係の差があるため、労使の合意が労働者の真意に基づかないことが多いこと、第2に、労働者を労働者自身の軽率な判断から保護する必要があること、第3に、他の労働者への悪影響の防止や労働条件の統一的規制の必要性から、平均的労働者から外れる例外的な労働者の自己決定を無視することもやむをえない場合があることです。

そして、現行労働基準法において、労働者の自己決定を取り入れている規定の評価は、今述べたような三つの理由の観点から行う必要があると述べます。たとえば、第1の理由であるところの、労働者の真意の尊重という観点からは、フレックスタイム制のような労働者の自己決定を前提とする制度は、その本来の趣旨に即して運用されているかどうかを厳格に監督する必要があるとします。また、裁量労働制においては、労働者の長時間労働が「強制された自己決定」になる危険性があるので、この制度の適用は限定された特殊な職種に限られるべきであると述べます。また第2の理由であるところの労働者の軽率な判断からの保護という観点からは、労働者生活に重大な影響を及ぼすおそれのない労働条件については、原則から逸脱する労働者の自己決定を容認すべきではあるが、同時に労働者が同意をいつでも撤回する自由も認めるべきであるという注目すべき主張をしています。

さらに労働者保護法は必ずしも自己決定の理念と対立的なのではなく、労働者の自己決定の保障・促進にも寄与すべきであると述べます。そしてこのような観点から、解雇制限の強化、個別的な同意のない出向・配転・時間外労働の禁止、そして権利行使を理由とする不利益取扱の禁止といった規制が必要となると述べます。

最後に、労働法上の問題は国家と個々人の二元的関係においてとらえるのではなく、国家と、社会的権力である使用者と、個人という三元的構造においてとらえるべきであり、そのようにとらえるならば、自己決定のための国家的規制というものは、決して背理ではなく、労働者の自己決定のための使用者の自己決定の制限は、むしろ人間の尊厳理念の実現にとって不可欠の要請と言わなければならないと述べます。以上がこの論文の骨子です。

規制緩和論への警鐘

次に、この論文をどう見るかということですが、まずこの論文は労働者の自己決定と、労働保護法というものとを対立的な図式のみで見るべきではないという観点から、労働保護法のあり方を検討したものであって、最近はやりの規制緩和論に警鐘を鳴らした貴重な論文と評価できると思います。

ただこの論文におけるキーコンセプトとなっている労働者の「自己決定」のとらえ方には疑問がないわけではありません。筆者の主張では、労働保護法は、労働者の2次的自己決定は否定するものの、1次的自己決定は尊重しようとするものなので、実は自己決定を否定するというようにはとらえられていないわけです。しかし、このように自己決定を1次的自己決定と2次的自己決定というふうに区別するのは、自己決定概念の混乱を招くのではないかと思われます。細かく言いますと、疑問はおそらく二つの点で生じうると思います。

一つは1次的自己決定こそ真の自己決定とする以上、2次的自己決定を、あえて自己決定の範疇に含める必要がどこにあるのか、あるいはそのような概念の整理が適切なのかという観点からの疑問、そしてもうーつは、2次的自己決定は真の自己決定そのものではないのかという疑問です。

この点については遠藤隆久さんの論文「入間尊厳理念の再検討」(『熊本学園商学論集』2巻4号)も注目されます。遠藤論文では、経済的な自立性のない労働者に対して、市民法的な自己決定や私的自治というものをそもそも保障することはできないのであって、労働者の自由というのは、むしろもっと規範的な自由である。それは自己決定や私的自治に対して、外在的な制約が加えられることによって初めて実現される自由なのだと述べられています。つまり、労働者の不完全な2次的自己決定を制約する根拠となるのは、1次的自己決定ではなく、自己決定の外からの制約でなければならないというのです。遠藤さんは、さらに、労働者の規範的自由というものは、労働組合を通して保障されると考えているようです。私自身は、2次的自己決定も自己決定にほかならないのであって仮に西谷論文でいうような1次的自己決定と乖離していても、私的自治という観点からは法的には尊重されるべきであると考えています。この点は遠藤さんの主張によると、個々の労働者の私的自治は認めるべきではないということなのですが、私は労働者をそのような自立性の欠如している存在と見るべきではないと考えています。

仮に2次的自己決定を自己決定の範疇に含めれば、国家の法的規制と、自己決定との背理が生じるのは、国家法が労働者の自己決定の尊重のために労働者の自己決定を否定するという点にあるということになるわけです。まさにそれゆえ、労働者の自己決定を尊重するためには、できるだけ国家法が後退したほうがよいという考え方のほうが出てくるのではないでしょうか。

もう1点だけ触れておくと、これは日本の労働法の最近の傾向に対する疑問でもあるわけですが、労働者の自己決定を助けるのは、遠藤さんの主張にもあるように、まず第1には労働組合ではないのか。西谷さんは、現状の企業別組合を見ると、労働組合を通した自己決定は期待できず、むしろ労働組合は自己決定を制限する存在であるとみているようです。労働保護法のあり方を考える場合、このような労働組合の現状をどこまで前提とすべきなのかについては検討の余地があると思います。

討論

毛塚

ありがとうございました。西谷さんは、かねてから自己決定権論を中心にして労働法の再構成を追究されています。労働保護法という、自己決定とある意味で対極に位置する領域をどうとらえるかは興味深い点になるわけですが、岩村さんはどういうふうにお読みになられましたか。

自己決定論と国家の位置

岩村

この論文を興味深く拝読しました。とくに自己決定と労働保護法との関係をどう考えるべきかについて、深く考察されています。ただ、若干気になった点があります。

たとえば、西谷教授は、労働者の自己決定を重要とする根拠として、2点を挙げています。一つは、労働者が多様化してきたこと、もう一つは、現実の企業社会において、労働者の意思があまりにも軽視されていることです。だからこそ、自己決定が重要であると主張されます。ところが、平均的な労働者を守るためには、やはり国家は強力に介入すべきであり、平均とは違う働き方を求める労働者の利益の追求は、制限されてもやむをえない、という結論を提示されます。つまり、その人たちの自己決定は犠牲になっても構わないというのです。この結論が、労働者の自己決定を重要とする根拠として最初に挙げられていることと一貫するのかが気になりました。

毛塚

私は自己決定という形で労働法を再構成しようとすることに関しては、疑問を持っている者ですが、それは幾つか理由があります。先ほど大内さんがおっしゃられたことですが、労働法は労働組合という歴史的、社会的に形成された存在を無視しえないわけです。労働法を再構成する場合にあっても、社会的に形成される自生的、自律的なシステムというものをいかに尊重するかが重要です。そう考えると、自己決定論は、ややもすれば社会における自生的運動や、国家と個人との間にある中間的な社会的存在を無視ないし軽視してしまうという問題があると思うからです。

また、自己決定論者はいわゆる真の自己決定と2次的自己決定とを分けることで労働法の生成論理や解釈技術にしようとしていると思うのですが、言葉の遊びにも見えかねないわけです。先ほど言及された、遠藤さんも指摘することですが、自己決定・自己責任というのであれば、我々の法学の常識でよくわかるんですが、1次的自己決定が2次的な自己決定に反映されていないから、この場合の法的行為はほんとうの自己決定ではない、だからその責任は引き受けないでよいと言うのは、悪く言えばご都合主義、あるいは、解釈者=裁判官依存の法学だろうと思うんです。

さらに、理念としても自己決定というのは、自由や平等よりもずっと狭い、自由と平等であれば、まだ社会的存在としての労働者が視野に入りますし、自由と平等の二律背反の中で、労働者が自由を獲得するシステムの自己展開を期待できる。自己決定と言ってしまうと、社会や他者とのコミュニケーション関係が入ってこないというのが僕の印象です。自己決定論に批判的な立場から見ると、西谷論文は自己決定を労働法学の中心に据えて労働保護法をリライトするときの悩みにしか見えない、そんな感想を持ちました。

「2次的自己決定」を軽視していいか

大内

今の毛塚さんの考えだと、2次的自己決定も、自己決定として尊重に値するということでしょうか。

毛塚

表現された意思が「2次的自己決定」だとしますと、もともと法律学は表示された意思を中心にして解釈するわけですね。もちろん、ときには、意思表示の瑕疵の問題として、真意によって修正することがあります。しかし、労働法学において、民法学の場合におけるような「2次的な自己決定」が間違いであったときの修正の道具を、特に用意できないとすれば、そこでは単に解釈者がこれはほんとうの意思ではないんだということを推定するだけの話で、個人的には納得はできない議論だということです。

大内

私も、2次的な「自己決定」と呼んでおいて、ほんとうは1次的な「自己決定」があるはずだということから、裁判官が介入してくるということには疑問を感じます。そもそも2次的自己決定というのはまさに自己決定そのものなのではないかと思えるのです。

毛塚

同時に、労働契約法の研究という視点からいうと、労働契約の問題の中には、逆に、たとえ真意で契約内容を決めても、継続的な契約関係の中においては、それを修正せざるをえない問題もあるわけです。契約内容の拘束性と変更の不可避性をどう調整するかの問題です。そういう問題のときにも、契約締結過程における真意かどうかという視点では、問題の構造的な性格を見失うし、具体的な理論的構成の努力を軽視しかねない論理だというふうに思えるのです。

大内

遠藤さんは、先ほど触れたように、2次的自己決定は自己決定であるとはいえ、それには制約を課す必要があると主張します。つまり労働者は、私的自治とか自己決定が保障できるような存在ではない。なぜかと言うと、経済的自立性がない者に市民法的な自由は保障できないから、というわけです。だから労働組合を通した自由だと。この見方はどうでしょうか。

岩村

それは、一つの見方ではあるかもしれません。が、そうすると労働者は、個人では行動能力のない人間であり、したがって国はパターナリスティックに介入すべきであるとなってしまいます。ほんとうにそうでしょうか。

やはり労働者自身の行う選択は存在し、それも自己決定なのでしょう。ただ、場合によっては、やむをえず受け入れた選択かもしれない。そうしたやむをえず受け入れたものについて、国家が強行的に介入することはありうると思います。交渉力がないとか、情報が対称的でないということで労働者が受け入れてしまった、あるいは、受け入れざるをえなかった条項に対して、国家が、私法上の強行法規をもって介入したり、罰則付の行政監督をもって介入するというのが、労働法の論理だろうと思います。逆に言うと、そういう状況がないところでは、労働者自身が決めればいいと考えている。ところが、西谷論文や遠藤論文は、およそ全面的に労働者の意思を排除して、国家がパターナリスティックに全部介入するという趣旨に読めてしまいます。おそらく、そこまでは、遠藤さんも、西谷さんも考えてはいないのでしょうが。

毛塚

どちらも極端は言わないでしょうが、ただ論理の問題として疑問に思うのは、自己決定が仮に真意でないとすれば、真意でありえない背景とか構造という問題を具体的な法理構成の中に落とすことに腐心すべきところを、仮に真意であればという形で立論してしまうことです。それに、好みの問題ですが、「真の」という修飾語はもともと好きになれない。

岩村

西谷さんが考える1次的自己決定は、ある意味ではフィクションです。およそ人間であれば、誰もが持っていると想定されるものです。しかし、実際の人間の行動としては、自己決定は、常に2次的自己決定しかないという気がします。要するに、1次的自己決定は抽象度の高いものです。そうすると、それは内容があまりない。そこに何でも突っ込める危険性がある。

大内

そこでは裁判官の価値観が無制約に入りかねない。

毛塚

ともあれ、自己決定論が若い人たちを中心に支持を集めているとすれば、本論文の検討を通して、労働法学の方法を考えてみていただきたいと思います。

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