1996年 学界展望
労働法理論の現在─1993~95年の業績を通じて(3ページ目)


労働契約

論文紹介「労働契約における労務指揮権の意義と構造」

中嶋

次は労働契約に関するものです。山川さんから……。

山川

それでは、土田道夫「労働契約における労務指揮権の意義と構造」を取り上げます。この論文は、いわゆる労務指揮権に関し、ドイツ法の議論を踏まえ、その意義、法的性質、限界などを包括的に検討した大作です。ここ数年注目されていたのですけれども、最近完結いたしました。

内容を紹介しますと、第2章まではドイツ法の紹介がありまして、その後、日本法を非常に詳細に検討しております。骨子のみ申し上げますが、まず、労務指揮権の概念については、労働契約の本来の内容として予定された範囲内で、労働義務の内容を決定、変更、規律する権利であると位置づけます。その結果、出向命令権や時間外労働命令権、あるいは経営秩序の規律維特権は、対象から除いております。次に、労務指揮権の労働組織機能を肯定いたしますが、労務指揮権はあくまで債権法上の権利であると位置づけます。

さらに、労務指揮権の限界に関する規律の基本原理として、契約原理と労働条件対等決定の原則を挙げます。しかし、その上で労働義務の決定や変更を一定限度労務指揮権の対象とする枠組みを支持します。この枠組みは、労働契約上、一定限度で労働義務の内容を決定する指揮命令権が当然に発生するという枠組みだと思います。しかし、使用者に労働義務の決定変更権限があるとしても、それは合理的限定解釈を行って限界づけるべきであると主張します。その際の基準は、労働者が使用者と対等の立場で自由な意思に基づいて交渉したならば、いかなる内容の権利義務を承認したかという観点から、労使間の利益の比較考量をするというものです。

労務指揮権の法的性質や根拠などにつきましては、労務指揮権とは、先ほども紹介しましたように、労働義務の内容を決定あるいは変更する形成権であると位置づけ、その根拠は労働契約に求められております。最後に、この論文は、労務指揮権等の具体的規制として、日常的な労務指揮、配転、出向、時間外労働、経営秩序等について、合理的な限定解釈の例を提示しております。

コメントに移りますと、労働契約上、最も基本的かつ重要でありながら、これまで十分な検討がなされてこなかった労務指揮権について包括的に検討した論文と位置づけられます。しかも、債権法理論を駆使して、論理的に突き詰めた検討を行っている点に大きな価値があると思います。

内容的な特色ですが、第1は、労務指揮権による労働義務の決定や変更を認めつつ、合理的限定解釈を提唱する点です。第2は、いわば債権法的アプローチから、形成権説を徹底いたしまして、日常的労務指揮を含めた労務指揮行為を法律行為と位置づけ、その効力を裁判上争うことを可能としている点です。

前者の合理的限定解釈は、後でも触れますが、これまでも議論されてきた内容だと思います。ただ、これまでは権利濫用の枠組みが使われることが多かったのに対し、ここでは権利発生のレベルで議論がなされています。2番目に、日常的労務指揮を含めて労務指揮行為を法律行為とした点ですが、これは極めて斬新な主張でありまして、たとえば労働者に精神的苦痛を与えるような労務指揮に対して、形成権の行使として無効という評価ができるという帰結をもたらします。非常によく詰めてある主張で、基本的に賛成したいと思っております。

労務指揮権の概念と範囲

幾つか疑問点もあります。土田さん本人も、最後に幾つか反省点を述べておりますが、私の読む限り、本人が言うほど反省する必要はないのではないかという気もいたします。しかし、疑問に思いましたのは、まず労務指揮権の概念について、労働契約の本来の内容として予定された範囲内で労働義務を決定、変更する権利と解する結果、出向や時間外労働が除外されております。しかし、後の方では、これも限界を検討しているわけです。文章の中には労務指揮権「等」と書いてありますので、論理的には間違いないのかもしれませんけれども、構成の問題として、いったん除外したものを検討対象に含めているという点を指摘できます。

もう一つは、配転は一般に労務指揮権の範囲に含まれると考えるようなんですけれども、その限界を考えるにあたって、労働契約上予定されていない配転というものも想定されています。そうすると職種を変更するような配転は、労務指揮権の範囲から、除外することになるのか。つまり、配転の中にも、労務指揮権の行使であるものと、そうでないものがあるのか。あるいは労務指揮権の行使ではあるけれども、それは行使の限界を超えていると考えるのか。これは理屈だけの問題かもしれませんが、ちょっと位置づけに疑問があります。

さらに、出向などについて「契約自体の変更」という表現が使われていますが、そもそも契約自体の変更とは何か。民法上の更改契約なのかどうか。本来予定された範囲を超える契約内容の変更ということかもしれませんが、「本来予定されている」とは一体何なのか。「本来」とか本質的というのは、非常にあいまいな表現ですので、より具体化する必要があると思いますけれども、具体的に考えれば、労働契約の締結という事実それ自体から変更権限が生ずるのかどうかの問題でしょうか。つまり、訴訟においては、契約内容を変更しうるという合意の存在を使用者側が立証する必要がなく、労働契約自体から変更権限が発生するかどうかという問題なのかもしれません。これは言葉の問題で細かいんですけれども、ちょっと疑問に思いました。

あと、日常的労務指揮も形成権の行使であるということには、基本的には賛成ですが、しかし、現実の労働過程で、すべて形成権の行使が行われているかは、若干疑問です。たとえば、このコピーを取ってきてくれないかといった場合、それは常に形成権の行使なのかどうか。単にそれは申込みに対する承諾により労働義務が特定されたにすぎないのではないか。つまり、形成権の行使の意思があるかないかは個々的に判断すべきことではないかと思います。

いずれも細かいことですけれども、そこまで詰めて考えるようなインセンティブを与える、読んで充実感がある論文だと思います。

討論

中嶋

ありがとうございました。道幸さん、いかがですか。

道幸

広範に目配りのきいた論理を展開しており、非常に示唆的な論文でした。ただ、読んでいて寄り道が多く、いろんなところでけんかしているので、ターゲットを絞ったほうがいいのではないかという印象も持ちました。

理論的には、合意の解釈をどう考えるかにつき労働者が自由だったらどういう合意をしたかを問題にしています。こういうことが果たして合意の解釈と言えるか。むしろ信義則上こういうのは予定されていると構成したほうが的確ではないかと感じました。

2番目の形成権の問題については、ともかく労使間で争いがある限り、全部形成権の問題があるということになります。しかし、配転の場合は、法的に争う価値のある紛争という観点から、事実行為と形成的な行為とに分けるべきではないでしょうか。使用者の指揮命令的行為のすべてを形成権の行使と見るのは疑問です。

もう一つは、出向とか、時間外労働について、労務指揮権の問題はないけれど最終的には合意の問題だと指摘しています。では、その場合の合意というのは何なんだろうか。広い意味の契約上の合意に他ならないから、2種類の合意をしているという構成をするメリットがどこにあるのだろうかという感じがしました。むしろ、合意は一つだけれども、その拘束力の強弱が違うととらえたほうが常識的ではないでしょうか。

中嶋

私は、ある雑誌にも書いておりますが、要するに、これはおもしろいが長すぎる。

道幸さんが寄り道が多いと言ったそういう欠陥がどうしても出てくる。ずっと読者に読ませてきて、最後の「研究の反省と課題」で、自分が責任を持ってそれまで主張したことを同じシリーズの中で否定するというのは、いささかいびつでありまして、やはり長いとこういう弊害がある。まずはこの点が論文形式上の問題です。

しかし、長いのに飽きさせなかったというのは、内容、問題意識がすぐれているということと、それから、土田氏の力量ですね。これをよく示しているものだと思って、私自身は山川さんがおっしゃったと同じように、読み終わったときに非常に充実感というか、うれしかった。自分も勉強したという、そういう思いにさせるすぐれたものであったと思うんです。

「仮定的自由意思説」への疑問

中嶋

中身については、今両先生から出された批判は、私も大体同じです。仮に労働者が使用者と対等の立場で自由な意思に基づいて交渉したならば、いかなる内容の権利義務を承認したであろうかということが土田説のキーポイントと言ってよい。これはいわば従来の通説判例による包括的合意説に対して、私の命名では「仮定的自由意思説」なんですね。仮定された自由意思を権利発生要件の基軸に据えるということなんですが、契約ですから、両者の合意で成立しなければならないのに、労働者だけの仮定的自由意思で権利発生や義務が左右されるというのは、ちょっとおかしくはないか。そうすると、使用者側が「そうは思いませんでした」という仮定意思は、どういうふうに推定されて、どういうふうに扱われるか。これは基本的な疑問ですね、この学説に対する……。

ただ彼自身も、検討の途中で、上のようなことは、多少おかしいと感じ始めて、普通契約約款論なんかも随分勉強して、就業規則への内容規制を通じての実質的な契約規制として論理化できないか、と考えた時期があったと思うんです。ところが、契約約款論も一般的には同意できる点が多いのですが、労働法に適用できるような約款論というのは、ドイツにもありませんし、その他もあまり見たことはないので、結局、その点は断念して、意思操作による方向を選んだのではないかと私などはそう思っています。今後、ほかの点は山川さんがおっしゃったようにあまり反省しないで、もう少しやってくださったほうがいいと思うのですが、しかし、私の言葉で言う仮定的自由意思、これだけは少しお考えになったほうがいいのではないか。以上が私の感想です。

山川

その点は、土田さん自身も反省しているようですね。そうした意思解釈は、当事者の意思を離れた客観的判断とならざるをえないので、むしろ意思解釈よりは内容規制の位置づけを検討したいと言っておられます(『法学協会雑誌』111巻10号1526頁)。

中嶋

我々はどっちを土田説とすればいいのか。

山川

この論文の合理的限定解釈は、「当事者が対等の立場で交渉したならば、それぞれ主張したであろう利益を探求し、その均衡点を契約内容として確定する」と定式化されていますが(『法学協会雑誌』109巻12号1876頁)、利益を探求して均衡点を確定するというのは、やはり客観的判断だと思います。これに対して、道幸先生は、むしろ、実際の意思の中で労働者の自立をどれだけ認めていくような認定・解釈ができるかというアプローチをとられるのでしょうか。

意思か信義則か

道幸

一つは、解釈論のテクニックでどの程度労働者の真意を反映した解釈ができるかの問題です。それが無理だったら、無理に意思というものを媒介にしないで、正面から信義則で議論したほうが素直ではないかと思います。

この場合の仮定的自由意思というのは、たとえば特定のAという人の自由意思ではないわけでしょう。

中嶋

もちろんある程度客観化されている。

道幸

つまり、一般的な労働者イメージみたいなもの。

中嶋

そうでしょうね。

道幸

そうすると、個別意思の解釈で処理するというのは、やっぱりおかしいと思います。

中嶋

おっしゃるとおりだけれども、土田氏は山川報告にもありましたように、包括的合意による権利義務の発生自体をあくまでも前提にして、権利行使の仕方の場面で、つまり、権利濫用論、信義則機能、これで社会的相当性を見いだしていくという判例は、経験的にあまりにも広範な権限を使用者に与える結果になって現れたので、これに反論しているんですね。だから、やっぱり単なる信義則、権利濫用論では、従来の、特に厚い裁判所の壁を打破できないと考えているんだろうと思います。

そこで、もう1段階前にさかのぼって、そもそもこれ以外には権利義務が発生しない、それを枠づけしたかったんだろうと思うんです。それだと、またそこで信義則を使うのはちょっと変な話ですから、別の解釈技術を用いざるをえなかった。そうすると、それは客観的な一種の社会通念すなわち内容規制か意思の操作かという、この両方しか多分解釈手法としてはないので、“仮定的自由意思”のほうを選んだのではないか。それで、反省点では、内容的規制の理論を選ぶべきだったんじゃないかという、こういうふうになっているので、権利発生要件と権利行使要件を分けないと、判例のような使用者に与えられた広範な裁量権限の行使は阻止できないという問題意識が彼の出発点だと思うんです。

山川

開き直ってしまえば、ここでの解釈が擬制であるとしても、法律の適用には、ある程度擬制はつきものであるという評価もできないではないですね。問題は、裁判所に白紙委任することになるかどうかですが、それも借地借家法みたいに正当事由という抽象的な言葉を使っている条文もあるわけですし、あとは類型化で対処できるのかもしれません。ただ、私自身もどちらがいいのかはよくわからないですね。

中嶋

裁判所に白紙委任するならば、裁判所は刑法理論のように構成要件該当、違法、有責というような幾重かのろ過作業はしないで、おそらく権利濫用論、一本でいくんだと思うんです。だから、やっぱり学説としては、裁判所としても看過できないような何らかの基準が欲しいんですけどね、ほんとうは。

道幸

明示の合意に基づく意思ではないので、意思解釈として通常できることは、本件の場合にたまたま使用者が特定の発言をしたとか、慣行があったとか、使用者が矛盾したことを言っているとか、そういう落ち穂拾い的な行為でもいいけれども、そういうのを使って、なるべく真意に近いような結論に持っていくことぐらいではないでしょうか。

中嶋

仮定的自由意思と仮に言うと、不利益な配転で、仮に仮定的意思を忖度すると、これは労働者も合意したであろうというような場面なんかないわけでしょう。

道幸

争っている限りはないですね。

中嶋

争っているのは、“仮定的な自由意思”が配転に反対だからですね。それをもう一回仮定的自由意思で吟味するというのは、ちょっと機能しないんじゃないか。西谷敏さんのも同じような説ですか。

山川

西谷説も同じ指向ですね、その点では(『労働法における個人と集団』77頁)。

中嶋

そうすると、西谷氏に対してもそういう批判が出てくるんじゃないか。つまり、契約には当然相手方もいるということなんですよね。

形成権の理論構成

道幸

ちょっと形成権のことで疑問があります。

中嶋

どうぞ。

道幸

形成権とか、形成的行為というのは、権利義務というか、有効、無効の判断をするための議論なわけです。そうすると、全部形成的な行為だという立論は、意思を媒介にするから形成的な行為ということなんですか。ちょっとその理論構成がよくわからないんです。

中嶋

形成権が当事者の合意によって与えられるということはありえますね。

山川

契約上当然に発生する場合と、特別の合意によって発生する場合と二つあると思います。

中嶋

契約上当然に発生する場合というのは、今道幸さんが言われた意思に基づく形成権の取得ではないんですね。

山川

たとえば、期間の定めのない労働契約における解約の権限などは、別にその旨合意しなくとも当然発生するわけです。

中嶋

法律になくても?

山川

それは民法627条で……。

中嶋

実定法規になければ、どうなるんですかね。そういうことはありえない?……。ここでは、そういうことでしょう、結局。どこから形成権自体が発生するかということ。

形成権説のメリット

道幸

本論では、普通の意味の形成権の議論よりも、労務指揮権との関係で形成権と言っているのが特徴なわけですね。労務指揮権との関係の形成権というのは、解約権とか、そういうレベルとは違って、ある特定の労務指揮をすること自体が形成権の行使だという理論構成でしょう。たとえば、このコピーを取れというのが形成権の行使である。次のコピーを取れというのも形成権の行使だということになるわけでしょう。無限の形成権の行使をやっているのだという構成が果たして妥当かということになります。結局、訴訟でAというコピーを取らない労働契約上の権利のあることの確認ができることが大きなメリットになるんですか。

山川

それがまさに土田論文の実益で、つまり、法的に争う余地を拡大しているんですね。

道幸

それはやっぱり大きなメリットなんですか。

中嶋

配転命令について、かつて形成権説と合意説というのが対比されたときに、形成権説がよりすぐれているというふうに見られた理由は、配転命令自体を仮処分で争うことができるということだった。事実行為は争えないから。

道幸

ただ、その場合も、今言ったようなコピーの件まで形成権の行使だという議論は必要なんですか。

中嶋

だから、そこまで拡大することの当否……。

道幸

そうすると、無限に形成権の行使をしているというイメージなんですかね。

山川

実際に形成権を行使する意思があるかどうかという点では、単に合意をしているだけだということもあるかもしれません。相手の応諾いかんにかかわらず、効果を発生させるのが形成権ですが、コピーをお願いしますという申込みに対して、やりますという承諾をしている場合もあるのかもしれません。

道幸

それは何の承諾なんですか。

山川

このコピーを取るというように特定された労働義務の決定の申入れに対しての承諾ということになるんじゃないでしょうか。

中嶋

形成行為によって、一定の服従義務を発生させて、それを履行させるという法律効果。ただし、上司の業務命令は、法律効果の設定を常にねらっているわけではない。事実上のものも、おのずから出てくるんじゃないかと思うんだけど。

山川

確かに形成権概念を用いてそこまでミクロ的に構成すべき理論的な理由が何かは、ちょっと難しいところですね。

道幸

必ず意思を媒介にしているので、全部形成権だということを言ったほうが理論的だという側面はありますが、そういう形で裁判で争うメリットというのは、それほど大きいかは疑問です。

山川

この論文でも、ごく軽微な問題については、訴えの利益がない場合もあると指摘されています。ただし、最近人格権を侵害するような指揮命令が問題になっていますから、その点にこの論文の問題意識はあるんじゃないかと思います。

中嶋

それは損害賠償だけでは、やっぱり不足だということなんですかね。つまり、人格権侵害だったら損害賠償で、別に形成権的な構成は必要でないわけですね。だから、どうもミクロ的なというか、細かいところまでやるねらいがね。

山川

たとえば配転などの場合は、命令の効力を否認する実益は非常に大きいんですけれども、ごく一時的なものに対しては、損害賠償以上のことが必要かという点は確かに問題としてありますね。

中嶋

どうもこれは非常に学者好みの論文で、けちをつければ限りなく出てくるというふうに思いますけれども、知的好奇心を非常に誘ってくれた最近でも有数の力作だというような評価でよろしいでしょうか。

道幸

議論を触発する有益な論文だと思います。

中嶋

それは確認しましょう。ただし、こんなに長く書くなということで終わります。

次は、道幸さん、お願いします。

論文紹介「労働者の私的領域確保の法理」

道幸

島田陽一「労働者の私的領域確保の法理」です。

この論文は、『法律時報』の特集で、「労働法における自己決定」という特集の中の一つの論文です。同特集は、他に、西谷敏「労働法における自己決定の理念」、道幸哲也「業務命令権と労働者の自立」、土田道夫「労働保護法と自己決定」、三井正信「労働組合と労働者の自己決定」があります。

労働者が使用者の指揮命令に従う義務を負う領域を職業生活領域と呼ぶと、この領域以外に、いわば私的領域がある。この二つの領域の接点をめぐる法律問題を概観し、それを踏まえて新たな法理を提示する内容になっています。

具体的には、私的領域確保の法理形成の、基本的な視点として、憲法13条を根拠とする自己決定権を述ベております。これが私的領域確保の法理における重要な理念である。ただ、注意すベきなのは、私的領域の確保といっても二つの問題が含まれるということです。

一つは、労働者の私生活のような、原則として使用者が制約すベきでない私的領域、この分については自己決定権が妥当する。

第2は、勤務地に合わせて住居を決めるというような職業生活、密接な関連を持つ私的領域。職業生活領域における労使の決定において、自己決定がどの程度考慮されるかという、両者の調整が問題になる領域です。同時に、私的領域確保の法理といっても不介入の側面と配慮を命ずる側面があることを、基本的な視点として打ち出しております。

次に、より具体的にこの職業生活領域と私的領域との境界線について三つの局面、つまり、第1は就業時間外でかつ企業外の局面、第2は就労中の指揮命令下の局面、第3は私的領域の問題であるけれども、職業生活から強い制約を受ける局面に分けて検討をしております。

具体的には、生活上の非行、兼業について私生活の自由と労使契約上の義務と関係づけて議論している。

次に、職業生活における私的領域の確保について、思想・信条の自由、健康診断、それから服装と外観の自由を検討している。使用者の生活配慮義務については、転勤・単身赴任、それから時間外・休日労働について検討をしています。

特に生活配慮義務については、「そもそも使用者には、継続的契約関係に伴う信義則として、労働者の利益を不当に侵害しない義務があると考えられる。この義務は、労使の実質的対等の実現という視点から内容が確定される」と述べ、先ほど検討した土田論文等につながる視点を提起しています。

コメントに入りますけれども、この論文は、私的領域の二つの側面、つまり、純粋な私的領域というのと職業領域との関連での私的傾城に分けてその具体的な各私的領域の確保を考察した点、およびその二つの側面、つまり干渉しない側面と配慮する側面の二つの側面がある点を明らかにし、その上で、具体的解釈を展開したところに意義があると思います。

学界全体として、自己決定権、人格権、プライバシー、それから、私は自立と言っているんですけれども、こういう基本的な概念自体が必ずしもまだ確立していない。島田論文は、私的領域確保という比較的わかりやすい概念を打ち出した点に特徴があります。他方、業務命令権の問題を取り上げているわりには、業務命令権自体について分析をしていないことや、個別解釈論につきあまり独自の主張がなされていないのか気になりました。

討論

中嶋

ありがとうございました。では、山川さん。

山川

私的領域を二つに分けた分析については、私も同感です。あと、個々の領域についてさほど独自のことは主張されていないということでしたが、たとえば兼業の禁止について、労務提供への支障の回避をその根拠とすることには疑問であるとしている点や、転勤命令について、代償措置を欠いた場合の効果は、命令が無効になるのではなくて、損害賠償請求権が発生するだけであると考える点などは、目新しい主張だと思います。ただ、紙数が性質上限られているせいか、それらがあまり詳しく展開されていない点は指摘できると思います。

憲法13条と私法上の義務

山川

あとは、使用者には労働者の私的領域を不当に侵害しない義務があるという見解の根拠として憲法13条の自己決定権を挙げられています。憲法13条は、原則として私人間に直接適用はされないので、間接適用になりますけれども、問題は、13条の間接適用によって、労働者の私的領域を不当に侵害しない私法上の義務が発生するかということです。つまり、憲法上の基本的人権の間接適用は、民法90条や709条を通してその意味が充填されるというのが通常の理解ですから、法律行為の無効や不法行為とは別に、契約上の義務が発生するという結論はどこから出てくるのかがよくわからないのです。

中嶋

私も特に付け加えることはないようなんですが、私的領域を不当に侵害しない義務、それから私生活を配慮する義務というふうにいうのは非常にわかりやすいけれども、それを発生させるには、なお根拠が乏しいのではないか。もちろん、本稿は問題のフレームを示したのであって、中身はこれからさらに吟味なさると思いますから、将来に期待したいと思いますが、そう簡単に義務が発生するんだったら、もうすでに以前から設定され承認されているはずです。労働者と使用者をめぐる環境が変わったという意味での問題提起なんでしょうけれども、法律構成は法律構成ですから、もう少し綿密になさっていただきたい。ただ、これはテーマとしては、前回取り上げた道幸・山田氏の論文に引き続いて、どうしても現代の労働法学上避けて通れないようなものを取り扱った。そして、その際の問題点を示してくれたという意味では、私は評価に値すると考えています。

道幸

その場合の義務というのは、結局は、業務命令権を行使する際に、私的領域に配慮をして行使すべきだということなんですか。

中嶋

それに配慮する必要があるということであって、独立して義務の存否を訴訟で争えるような性質のものとしては、私は考えないのですが。最高裁が年次有給休暇の時季指定権に対して使用者側が時季変更権を行使するときに、代替勤務その他の配置を配慮するようにと述べていますね。あれを多くの方は、「配慮義務」というふうに簡単に評価していますけれども、最高裁は配慮「義務」とは言っていないんです。一種の権利行使に当たっての、いわば相手に不当に損害をかけないように配慮する信義則上の一つの制約要件なんだと思います。それが「義務」として独立したものになるというには、 やっぱり根拠が必要で、「私的領域を不当に侵害しない義務」「私生活配慮義務」もまず契約論の操作によるべきであって、憲法13条をいきなり持ち出すだけでは少し薄弱じゃないか。

山川

労働法上の義務についてまだ議論が熟していないところがあって、不法行為法上の義務なのか、契約上の債務なのか、あるいは権利行使に対する制約要因を述べたにすぎないのかが明確でないことがあります。島田論文の言う「私的領域を不当に侵害しない義務」も、不法行為上の注意義務であるとすれば、憲法の間接適用により出てくることになりますし、また人事権の行使の制約要因としての「義務」であれば、あまり問題はないのですが、たとえば債務不履行をもたらすような契約上の義務と言えるかどうかはやはり難しいんじゃないでしょうかね。

中嶋

その辺をより深めてもらうといいと思います。

山川

ただ、菅野=諏訪論文のいう個としての労働者という視点からは、こういう方向の検討が今後も出てくると思います。

道幸

あと理論的には、自己決定権とプライバシーや人格権とどう関係するか。

山川

人格権や自己決定権はドイツ法的な発想で、プライバシーはアメリカ法的な発想ですが、我が国では両者の関係を十分整理していない感じがしますね。

中嶋

それではこれはこの辺にして次に進みたいと思います。

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