2002年 学界展望
労働法理論の現在─1999~2001年の業績を通じて(5ページ目)


2. 整理解雇

紹介

土田道夫「解雇権濫用法理の法的正当性」

最近、整理解雇に関する論文が集中的に現れました。その背景には、特に労働経済学者による解雇規制緩和論、それと、角川文化振興財団事件(東京地決平成11年11月29日労判780号67頁)など、一昨年来の東京地裁による、従来の判例傾向とは異なる判断を示す一連の裁判例の出現があります。2000年春の労働法学会でも、解雇の問題がシンポジウムのテーマとして取り上げられました。

最近の整理解雇論文のなかでも特に注目されるものが、土田論文です。この論文では、最初に、解雇一般についてその理論状況を概観したうえで、労働経済学者による整理解雇制限に対する批判を取り上げ、逐一それに労働法学の立場からの反論を試みます。次いで、整理解雇法理の法的正当性という問題を取り上げ、その根拠について検討を加えます。とりわけ、従来のような労働者イコール弱者という、社会権的構成による整理解雇制限法理の根拠づけは、次第に社会的・経済的妥当性が失われているという認識に立ち、より普遍的な正当化の根拠が求められるとして、次の二点を新たな根拠として指摘します。

一つは、内田貴教授の継続的契約関係に関する一連の著作に依拠した、いわゆる継続性原理です。もう一つは、村中孝史さんが指摘した、整理解雇そのものが労働者の人格権の侵害になる恐れがあるという人格権侵害論です。この二点によって、労働契約に限定された特殊労働法的要請でも、終身雇用を背景とする特殊日本的要請でもない、普遍的原理に基づく解雇権制限法理を構築しようというわけです。土田さんは、整理解雇法理が従来の日本的雇用慣行を背景に、その影響を強く受けて形成されてきたとの認識に立って、日本的雇用慣行そのものが変化しつつある現在、整理解雇法理をより普遍的な法理にするためには、従来とは異なる、より一般的な視点からの根拠づけをする必要があると考えておられるようです。

土田論文の後半では、最近の東京地裁の判例傾向にも触れていますが、その中では、整理解雇のいわゆる「4要件」については、「4要素」として理解すべきであるとの判例傾向をやや肯定的にとらえています。また、最近の裁判例に見られる再就職支援措置を回避努力の一つとして位置づけるような判例を肯定的に評価して、それを一つの選択肢として認めるべきだという主張もしています。

以上のように、土田論文は、最近の整理解雇をめぐる多岐にわたる論点を手際よく整理して自説を展開しているのですが、取り上げられている論点は、いずれもこれまで論じられてきたものであり、特に目新しい指摘はありません。整理解雇法理の根拠についての議論は、土田さんが力を込めた部分だと思われますが、結局のところ、整理解雇とは直接かかわりのない、継続的契約関係における継続性原理や人格権論などの一般的な原理論に言及しているだけであり、果たしてそれで整理解雇の規範的な根拠を十分説明したことになるのかどうか、疑問が残りました。かえって、整理解雇法理の持つ独自性というものが希薄化するのではないかという気もいたします。

なお、整理解雇制限法理の根拠に関連して引用されることが多い、村中孝史「日本的雇用慣行の変容と解雇制限法理」(民商法雑誌119巻4=5号)にも触れておきます。村中論文は、整理解雇は労働者の人格権侵害に当たるということを前提として、整理解雇の問題を考える必要があるという点を強調しています。ただし、村中さん自身は、整理解雇の根拠としては、やはり解雇に伴う不利益を中心に裾えています。最近の状況を考えると、人格権侵害という新たな視点を加えるのでなければ、整理解雇の問題には十分に対処できないと考えておられるのでしょう。

最後に、若干の論点を指摘いたしますと、まず、土田論文で問題とされている整理解雇制限の実質的根拠が何に求められるのか、それを論ずることがどのような意味を持つのかということです。これは、学説の中では最近、意識的に取り上げられている問題だと思いますが、一つには、やはり従来の整理解雇法理についての反省があるのでしょう。要するに、現在の整理解雇法理とは、判例の蓄積を前提にして、それを整理分析したものにすぎず、学説は、それ以上に積極的な貢献をしてこなかったともいえます。整理解雇制限の法的根拠を問うことは、いわば整理解雇法理における学説の復権を意識した作業でもあるように思われます。

もう一つは、最近の整理解雇をめぐる学説の議論の傾向として、整理解雇の類型論があります。いわゆる4要件を一律に適用するのではなく、経営不振に伴う人員整理を目的とした不況型、特定の部門を閉鎖するようなポスト削減型、より積極的なリストラのための戦略型など、整理解雇の類型に応じて要件を考えようとする動きです。それによって、従来の整理解雇4要件が次第に崩れていくのか、それとも、整理解雇4要件そのものは維持されて、具体的な適用の場面に応じた調整の方向に向かうのかという問題があります。

討論

解雇権制限の規範的根拠

大内

どうもありがとうございました。

土田論文は本誌に掲載されたもので、編集委員会のほうから解雇権の制限の規範的根拠を論じていただくよう依頼したものです。この論文の試みは成功していると思われますか。

私は必ずしもそうは思いません。先ほども言ったように、継続的契約原理や、人格権侵害ということを持ち込むことで、果たして解雇制限の規範的根拠を十分説明したことになるのかという疑問があります。例えば、継続的契約関係の中では労働契約は典型でしょうが、それ以外の継続的契約もたくさんある。したがって、仮にそのことが整理解雇制限の根拠になりうるとすれば、それ以外の継続的な契約関係についても、整理解雇と同じような、解約に対する制約が導き出されることになるでしょうが、それが妥当でしょうか。人格権侵害についても、いかにも法律学的な議論ではありますが、果たしてそれが労働経済学者を説得できる根拠となりうるかどうか。

大内

村中さんは、労働者にとっての労働とは自己実現の場であり、解雇されるというのは、その場を失うという意味で人格を侵害するというとらえ方をしていたと思うのです。ただ、人格権侵害論に対する疑問は、人格や人格的利益という概念が非常にあいまいであることに加え、人格的利益の保護を理由に解雇を制限すること自体が、かえって人格権侵害を生むのではないかという点です。例えば、解雇された後でも別の企業に望まれて転職していくとなると、そのほうがよりよい自己実現となるということもあると思います。

水町

私も、解雇が人格権の侵害に当たるとする解釈については、もう少し慎重な検討が必要だと思います。たしかに、その会社で働くこと、労働することに生きがいを感じている人や、そう思い込んでいる労働者が少なからずいますか、それは事実のレベルの問題であって、規範的レベルにおいても、労働をする、解雇を制約することが自己実現や人格の開花につながるという解釈をとってしまうことには躊躇を覚えざるをえません。それはなぜかと言うと、特に日本の労働関係に固有の問題として、労働者が長期雇用を前提とした企業共同体の中に深く埋め込まれていて、集団の中で個人を見失い、個人が埋没してしまっているという問題が、根の深く存在している。その中で長時間労働や過労死の問題が、自覚的にか無自覚的にか生じてしまっている。そういう実に真摯に目を向けるならば、解雇を制約して労働者をより企業の中に埋め込むよりも、労働者に自由を与えたり、労働関係から解放するという方向で解釈をするほうが、少なくとも労働者の人格の尊重という観点からすれば、規範的解釈として望ましい方向ではないかと思います。

大内

人格権というのは、極めてインパクトの強い概念で、解雇か人格権侵害と言われてしまうと、少なくともポリティカルには、解雇権規制の是非をめぐる話は終わってしまいます。しかし、実は可能な政策としては、特定企業での雇用維持政策だけでなく、雇用流動化政策もありうるわけで、流動化するなかでほんとうに適職を見つけられるような移動ができれば、そういう人格の実現方法もあるはずです。

したがって、解雇を人格権と結びつけて議論をするべきではないのであり、解雇をどこまで制限するのかは、政策問題にすぎないと言うべきだと思っているのです。流動化政策がきちんと整備されていけば、解雇もそれほど制限する必要はなくなるのです。もちろん、労働市場の現状は厳しいですよ。だから、現状では制限してもいいと思っている。

私自身は、判例による整理解雇制限法理は、実際には制限法理ではないと思っています。つまり、一般には、判例によって解雇が厳しく制限されていることを前提に議論しているけれど、むしろ、一定の要件が満たされれば解雇はできるわけです。その意味では、整理解雇法理の本質は、労働者の雇用継続への期待や解雇に伴う不利益を前提に、使用者に対してできるだけ解雇を回避するための努力を尽くさせる点にあると考えています。だから、大内さんがおっしゃるように、そのような前提が変われば、解雇制限法理の必要性も変わる可能性はあると思います。

水町

盛先生が指摘された、ほかの継続的契約関係にはない労働契約に特殊な事情がやはりあるのではないでしょうか。解雇の問題ではこの点は無視できないのではないですか。

そうですね。先ほど水町さんが言われたこととの関連では、労働者が埋没し、取り込まれている企業組織から、その期待に反して排除するのが整理解雇だという認識です。

たしかに、解雇は、荒木さん流に言えば、外部労働市場で労働力を調整するという機能を持っているけれど、実はもう一つ、組織からの排除という面も持っているわけです。整理解雇は、まさに労働者の責めに帰すべき事由がないにもかかわらず、使用者側の判断によって組織から排除することで、労働者の生活を根本から覆すという意味を持っているわけですから、それはまさに整理解雇制限に特有の根拠になるのではないでしょうか。

大内

労働者に落ち度がない場合には、組織や共同体からの排除は簡単に認めるべきではないということですか。

そうです。逆に、専門職とか、年俸制で働いている契約社員などの場合には、組織に対する取り込まれ方は緩やかなこともあるわけで、そういった労働者については、仮に契約条件変更について労使が合意できない場合には、契約の解消という形で組織から出ていくということも考えられます。

大内

なるほど、共同体に取り込まれないような方向に行くべきだという、先ほどの水町さんとは逆の指摘ですね。

水町

盛先生の説明だと、おそらく人格の問題ではなく、経済的に非常に大きな不利益を被ることや、生活の基盤が覆されるといったコンテクストでとらえられていると思います。

権利濫用論としての解雇権濫用法理

唐津

土田論文は、解雇権濫用法理を正当化する論拠を求めるという構成ですが、権利濫用について、普遍的な正当化根拠を議論すること自体がおかしいのではないか。そもそも、いろいろな要素があって、それを総合判断して解雇権の濫用を議論するわけでしょう。一般的な制約の論理というのはそもそもあるのかという疑問がわく。権利濫用の材料になるような要素の中には、例えば、人格的利益が問題になる場合もあるでしょう。しかし、これは一般的な話ではないですよね。いろいろな雇用形態があるわけだし、経済的なダメージの軽重も、いろいろなケースかありうるわけでしょう。

大内

ただ、解雇権濫用法理は、権利濫用論の外見をまといながら、ある意味では制定法に近いような、一つの確固たる法理になっているとは言えないでしょうか。実際、土田さんは、この法理を制定法化すべきと言っているわけです。つまり、この法理には、それなりのはっきりとした規範的な内実があり、それを明らかにしなければならないという点については、わりと、そういう問題意識は学界で共有されていると思っていたのですが、唐津先生のお考えでは、そうじゃないということですね。これはまだ単なる権利濫用論にすぎず、個別的な処理が行われているにすぎないということですか。

唐津

解雇権濫用法理とは、解雇権の行使にさいして、例えば労働者本人の労働能力の欠如や非行、規律違反といった客観的・合理的理由になるものを要し、これに労使の相対的な利益状況のバランスを考えた社会的相当性という、もう一つの要件を加えたものだ、というのが私の理解です。それはやはり、権利濫用論の一適用にすぎないのではないですか。

だから私は、解雇によって、ある利益たとえば人格権的利益が侵害されるとしても、その被侵害利益から解雇を制約するという関係が一般的に成立するのか、疑問に思います。先ほど大内さんが、雇用政策のことを言われましたが、私も、解雇の問題は労働条件変更問題と違い、まさに雇用システム、雇用政策の問題だと考えています。労働条件変更は規範的にも解決できると思うのですが、解雇法理はやはり労働市場との関連がありますから、雇用政策的な視点から考える必要がある。解雇問題の解決のためには、経済的な損失補償や雇用代替的な利益の確保という道をきちんと整備するほかないのではないか。それを雇用政策の各種の行政措置と連動させて、労使がともに利用できるような状況にする。だから、労使協議が大事ですし、解雇退職条件の整備は、一般の解雇にも当然必要だろうと考えるのです。解雇は個別労使間の問題にとどまらないという意味では、何か普遍的な制約原理がありそうですが、実はそうではないのではないか、という気がしています。

解雇規制の立法化

大内

立法化の議論はどうですか。

唐津

解雇ルールは立法化したほうがいいと思います。ただ、そうするとそこでまた新しい議論をしなければいけない。でも、そうすれば最近の東京地裁のような議論はもう出てこなくなります。

大内

立法化に反対する人はほとんどいないように思いますが、私は実は反対なのです。整理解雇に限らず、解雇権濫用法理というのは、権利濫用法理であるがゆえのフレキシビリティーがあるのではないか。私は、権利濫用法理は、一般的な法理となっていると同時に、先ほど唐津先生も言われたように裁判所における個別的な解決手段としても役立つものであり、雇用政策の状況や、外部の社会的な環境の変化に応じて変わりうると思っています。立法化をすれば、ある程度固定化してしまうわけですから、そうではなく権利濫用法理でやっているというのは、ある意味で日本法は幸運な状況にあると言えると思うのです。

立法化の問題というのは、言うなれば、同床異夢という色彩が強い。一方で、解雇の要件を立法化することで解雇をやりやすくすべきだという主張があり、他方で、判例による解雇法理を立法によって明文化すべきだという主張がある。私などは、少なくとも、判例法理では不十分な解雇手続の面や整理解雇基準については立法化して、その内容を明確にすべきだという考えです。

大内

手続的な明確化はあってもいいのですが、解雇回避をしなければならないと法律で書いても、あまり意味がない。かといって、それを具体化していくとかえって硬直化する。

たしかに、そういうことを明文化しても、多くの大企業にとっては意味がないでしょう。既に雇用調整についての仕組みが出来上がっているような企業では、そのような立法は大きなお世話だということになるでしょう。しかし、そのようなルールがない場合や、解雇権濫用法理について知らない、あるいは知っていながらあえてばっさり解雇してしまうような使用者に対しては、立法化による教育的効果を期待できるのではないかと思うのですが。

大内

そのために立法化するというのは、何か、立法化の濫用という感じがします。

それならば、指針や要綱による行政指導という方法もあるでしょう。そのほうが現実的かもしれません。

大内

一部の学者は、規制内容の明確化のために法律をつくれと言うのです。その根底には、簡単に法律をつくったり変えたりできると思っている節がある。法律の制定・改廃は、それ自体にコストがかかるものであるはずで、この点を簡単に考えてはいけないと思います。

そうですね。法律を変えれば解雇が簡単にできるようになるという、法律万能主義のような発想があるように思います。

それに、もっぱら解雇だけを取り上げて、雇用調整全体を見ない傾向も気になります。例えば、統計上、日本では他国に比べて解雇が非常に少ないのは解雇が厳しく制限されているせいで、迅速な雇用調整を妨げているというような議論があります。しかし、解雇はあくまで雇用調整のための一手段であって、これまで日本の企業の多くは解雇以外の手段でかなりの雇用調整をしてきました。だから、解雇が少なくなるのは当然のことです。むしろ、それによって雇用調整を円滑に進めてきたともいえるわけです。

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