2002年 学界展望
労働法理論の現在─1999~2001年の業績を通じて(4ページ目)


1. 労働条件変更法理

紹介

荒木尚志『雇用システムと労働条件変更法理』

唐津

それでは、荒木尚志『雇用システムと労働条件変更法理』の内容紹介から始めます。本書は、その「はしがき」にもあるように、労働条件変更法理を従来のように法理論的な枠内で構成するのではなく、雇用システムないし労働市場の機能、紛争処理システムとの関連のもとに構成するという新たな議論枠組みを設定し、アメリカとドイツの比較研究を基に、日本の雇用システムに適合的であるとされる労働条件変更法理を提示することを目的としています。労働案件変更問題を規範論的に論じる規範的アプローチではなく、雇用システムや労働市場の機能等との相互関係のもとで論じる機能的アプローチを採っている点に本書の最大の特徴があります。

本書の主たる分析視点は「雇用システムの柔軟性」です。荒木さんによれば、雇用システムがいかにして経済変動に対処しているかを労働市場との関係で整理すると、外部労働市場の機能(解雇)によって調整するもの(外部労働市場型)と、内部労働市場において調整するもの(内部労働市場型)とに大別できます。

前者は、外的・量的柔軟性に、後者は内的・質的柔軟性に富んだ雇用システムとなります。日本型雇用システムは後者に当たり、解雇が規制(雇用維持が尊重)され、労働条件の柔軟な変更が認められてきました。

荒木さんによれば、柔軟性に欠けた雇用システムは変化の激しい状況に対応できず、高失業等の病理現象をもたらします。他方で、過度に柔軟な、労働者にとっては安定性に欠けた雇用システムも、長期的に見ると貧富の差の拡大や、労働力の二極化等の社会問題を引き起こしてしまう。一国の雇用システムにどのような柔軟性を、どの程度導入するかは選択の問題であるが、労働条件変更法理は柔軟な雇用システムを支える一つの制度であり、したがって、労働条件変更法理は雇用システム全体の中でバランスのとれた柔軟性をもたらすための法理でなければならない。

なお、荒木さんによれば、労働条件には集団的労働条件と個別的労働条件があり、それぞれについて別個の変更法理が要請されるのですが、日本では、個別的労働条件の変更法理については未発達であったため、近時の個別的雇用管理の進展を考えあわせれば、個別的変更法理の確立が必要です。また、集団的労働条件については、就業規則による変更と労働協約による変更の関係等、集団的労働条件設定・変更システム全体の中で、整合性のとれた変更法理を確立する必要があります。

そこで、本書では、まずアメリカとドイツを対象とする比較法的検討が行われています。具体的には両国の解雇規制を中心に、それぞれの雇用関係の外的・量的柔軟性の問題、すなわち雇用量調整のしやすさ、雇用保障の程度について検討され、続いて内的・質的柔軟性の問題である労働条件変更法理、すなわち労働条件の柔軟な変更の可能性が検討されています。

次いで、柔軟性という観点から見た日本の雇用システムの特徴を明らかにすべく、解雇規制、解雇権濫用法理、雇用システムに外的・量的柔軟性を与える有期契約等の規制状況が検討され、続いて、雇用関係の内的・質的柔軟性にかかわる労働条件の変更問題が論じられています。ここでは集団的労働条件と個別的労働条件を、集団的労働条件設定と個別的労働条件設定という観点から区別し、個別的規制により設定された労働条件の変更を、集団的労働条件変更法理である就業規則変更によって行うことはできず、個別規制条件変更には新たな変更法理が要請されていると主張されています。

そのうえで、集団的労働条件変更法理については、就業規則の不利益変更に関する判例・学説の到達点、問題点を整理した後、判例法理としての合理性基準論が日本の雇用システムのもとで妥当性を有するとの評価が示され、あわせて就業規則法理と労働協約法理を総合した集団的労働条件変更法理、すなわち多数組合、過半数組合との合意によって労働条件変更の合理性が推定されるとする議論(合理性推定論)が説かれています。

個別的労働条件変更法理としては、合意による変更、留保解約権行使による変更、そして変更解約告知が論じられ、変更法理型の変更解約告知(解釈論としての留保付承諾)の採用が提唱されています。

さて、本書では、各国の法状況、理論、動向についての明快な分析、整理をもとにして、綿密に組み立てられた体系的な変更法理(以下、荒木説)が展開されていますが、いくつか気になった点を挙げたいと思います。

まず、荒木説は、労働条件変更法理をめぐる議論の場を大きく広げたものとして注目されます。従来、労働条件変更問題を解決するために、判例、学説はさまざまな議論を重ねてきましたが、それはもっぱら規範的アプローチによるものでした。就業規則による労働条件の不利益変更に対して、どのような法的論理で対応できるのか、その論理構成に議論を集中してきたのです。けれども、秋北バス事件・最高裁大法廷判決(昭和43年12月25日民集22巻13号3459頁)以降、判例法理として確立した合理性基準論(以下、合理性テスト)をめぐる学説の混乱状態、つまり、合理性テスト全面否定論一色の時期の後に、その肯定的再評価の論調が現れ、次いで合理性テストを正当化する議論が展開されたが、同時になお根強い合理性テストに対する否定的評価があるという状態は、規範的なアプローチの限界を示すものだったのかもしれません。

ところが、荒木説は、労働条件変更問題を雇用システム・労働市場の柔軟性という視角(機能的アプローチ)からとらえ、労働条件の変更は解雇権濫用法理による解雇制限の代替としての機能を果たすものとして容認できるとして、判例法理である合理性テストを肯定的に評価し、あわせて合理性の判断基準を組み替え、合理性テストの補強を図ったのです。したがって、この機能的アプローチによる労働条件変更論の当否、有効性について新たな議論が起こることが予想されます。これが第1点です。

第2点は、合理性テストの理解の当否です。荒木さんは、最高裁判例が変更の必要性と変更内容の相当性という二つの要素の程度の比較考量と、これにあわせて多数組合(過半数組合)との合意に当該変更の合理性を推定するという判断枠組みを採用しており、合理性テストをこのように理解すれば、合理性判断には安定性がもたらされる、すなわち事業場の多数、あるいは過半数の支持を得ていることが合理性判定の第1次的指標となることにより、合理性判断の予見可能性が増し、法的安定性がもたらされると指摘されています。しかし、果たしてそうなのだろうか。

合理性判断基準については、浜田論文(浜田冨士郎「就業規則法の論理的課題」『講座21世紀の労働法 第3巻 労働条件の決定と変更』)であらためて厳しい批判がなされていますし、昨年のみちのく銀行事件(最一小判平成12年9月7日労判787号6頁)、北都銀行事件(最二小判平成12年9月22日労判788号17頁)、函館信用金庫事件(最三小判平成12年9月12日労判788号23頁)における地裁、高裁、最高裁での一転二転した合理性判断を見ていると、合理性テストの難点(判断対象事項の相互関係や、判断手順の不明瞭さなど)はいまだに克服されていないのではないか、また、そもそも、多数組合との同意から合理性を推定するという論理は成り立つのかという疑問があります。ですから、荒木さんの言うように、最高裁判例の展開を見ると、就業規則法理に多数組合の同意による合理性の推定を読み込めば、就業規則法理と協約の拡張適用の処理には事業場単位の統一的労働条件変更法理に向けた、一貫した収斂傾向を見いだすことができると言えるのかは疑問です。

また、浜田論文でも指摘されていることですが、労基法上の手続的規制(過半数代表からの意見聴取手続等の法定手続)を履践することが、合理性テストの前提条件であるはずであり、荒木説は、この点を軽視しているように思えます。

第3点は、変更法理型の変更解約告知論についての疑問です。荒木説では、変更解約告知について、民法528条は適用されない(つまり、既に存在する継続的契約である労働契約内容を変更する申込にはこの条文は適用されない)という解釈をとり、留保付承諾を認められていますが、この解釈論は理論的にはともかくとして、現実的ではないのではないか。本書の例示では、使用者が明確に無条件承諾か拒否による解雇かの二者択一を迫った場合、労働者に留保付承諾の余地はおそらくないとされており、留保付承諾という選択肢を裁判例の実績によって確立し、定着させることが望まれるとされています。しかしながら、その間の労働者の精神的、経済的コストを考えると、端的にドイツ流の立法的解決を図る方向の議論のほうが望ましいのではないか。もっとも、私自身は、個別労働条件変更ツールとしての変更解約告知の必要性については消極的な立場をとっています。

労働条件変更問題については、その解決システムをどう整備するか、つまり、裁判所以外の解決システムの可能性が論じられるべきであろうと考えます。この点、本書では自認されていますが、あまり突っ込んだ検討はなされていません。ですから、荒木さんの変更解約告知の合理性審査(従前の労働条件の変更の必要性と提案された労働条件変更内容の相当性の相関判断)については、就業規則変更についての裁判所による合理性テストの適用の場合と同様の難点を負わなければならなくなる、と思われます。荒木さんは、本書で、紛争処理システムも視野に入れた労働条件変更理論を打ち出したいとおっしゃっているにもかかわらず、裁判所による司法審査だけが議論されている。これは残念だなと思いました。荒木さんが、どういうシステムを考えておられるのかということに興味があったものですから。やはり労働条件変更問題を解決するためには、労使双方の納得可能性を高めるということで、おそらく多数組合との同意、合理性推定論も出てくると思うのですが、納得性を高める方向での解決方法ならば、裁判所だけを念頭に置いた議論というのは、ちょっと足りないような気がしました。

討論

機能的アプローチと規範的アプローチ

大内

どうもありがとうございました。今、論点として三つほどご指摘をいただきました。まず第1点目の機能的アプローチによる労働条件変更論の当否についてですが、唐津先生自身はどうお考えですか。

唐津

雇用システムの外的柔軟性と内的柔軟性に着目して、ドイツ法、アメリカ法の現状を分析し、日本の就業規則変更法理を法的論理としてではなく、雇用システムとの調和という観点から正当化する、このこと自体は巧みな説明のような気かします。ただ、アメリカではそもそも労働条件変更法理は不要なわけです。自由に解雇ができるのだから変更も自由にできる。また、ドイツでは内的な柔軟性と外的な柔軟性のバランスをとった議論というものを特に意識しているわけではないようです。ところが、外的柔軟性と内的柔軟性をトレードオフの関係でとらえると、日本ではうまくやっている、つまり、解雇規制が厳しいから内部で労働条件を変更して対外的な経済情勢の変動に適応している。しかし、アメリカ法、ドイツ法の比較法的な検討そして、日本の現状それ自体からは、日本の変更法理の正当性を論証することはできないのではないかという気がします。雇用システムのあり方をどう考えるかということと、労働条件変更法理とは直結するのかという疑問があるのです。

私も同じような意見です。労働条件変更法理の現状をいかに整合的に説明するかという観点からすれば、優れた著作だと思います。ただ、内的・質的柔軟性、外的・量的柔軟性を図式化しすぎているのではないかという印象を持ちました。トレードオフの関係にあるというのですが、果たしてそのように単純にとらえてよいのかどうか。

もう一つ、本書の前提として重要なのは、市場の概念です。外部労働市場、内部労働市場というように、同じ市場という概念を使って雇用システムを説明しようとしています。しかし、この点についても、その場合の市場とは何か、法律論に、しかも労働条件変更という解釈問題に、市場という経済学的な概念を持ち込むことが妥当なのかどうかについて、疑問を持ちました。

水町

唐津先生が問題提起されたように、規範的アプローチと機能的アプローチに分けて議論をすれば、法学者の基本的な作業は規範的判断なのですが、その規範的判断の前提として、機能や実態、社会経済の状況などを考慮に入れて考えることは、あるべき方向だと思います。

そういう意味で、機能に着目して規範的判断をしていくということであれば、新しい観点から新たな解釈の方向性を示した作品だと言えるかもしれません。ただ、機能を重視するあまり、規範的な観点や、理論的な根拠について十分に説明がされていない部分がある点がちょっと気になったところです。特に、就業規則の不利益変更について、その法的根拠が明示されていない。機能的な説明はあるけれども、規範的な根拠について明示的な説明がされていないのが不十分だと思いました。

もう1点、機能に着目した整理ですが、整理としては非常にクリアな気がします。ただ、外的柔軟性と内的柔軟性を峻別することにこだわりすぎているのではないかと思います。同じような問題が、集団的規制と個別的規制にも言えます。集団と個別の峻別にこだわりすぎている点で、非常に人為的で不自然な解釈になっているのではないかという気がしました。外的柔軟性と内的柔軟性は、実は連続性のある概念であって、外的柔軟性と内的柔軟性を別個に取り出して解釈すると、結論として非常にバランスが悪い帰結になることがあるように思います。また、集団と個別の問題についても、集団的労働条件でも個人の尊重が重要な局面もありますし、逆に、荒木先生の言う個別規制条件でも集団的な交渉や集団的な調整が必要な場合もある。両者が密接にかかわった問題であるにもかかわらず、両者を峻別して解釈論を立てすぎている点に不自然な点があると感じました。

大内

なかなか厳しい批判が出ていますが、本書は雇用システムの構造が非常にクリアに整理されていて、私としては勉強になったというのが率直な感想です。

集団的労働条件と個別的労働条件の区別

大内

ただ、やはり、皆さんが指摘されたのと同じような疑問を私も持ちました。とりわけ、荒木さんは判例の就業規則法理を認めておられる。その論拠は結局、外的柔軟性の欠如、つまり雇用保障から来ています。やはり規範論としては、そもそも、なぜ雇用保障が正当化されるのかをもう少し議論してほしい気がしました。外的柔軟性がないということを所与として、外的柔軟性がないから内的柔軟性があるべきだという議論を立てる場合には、その前に、なぜ外的柔軟性がなくともよいのか。なぜ、アメリカ法的であってはいけないのかについて、本当は議論をする必要があると思います。

次に、水町さんが言われた個別的規制と集団的規制という点についての私の疑問は、荒木説によれば、労使慣行が個別的規制の問題になるという点です。私はこれを集団的労働条件とみるので、就業規則に規定された労働条件は労使慣行により引き下げられうると考えているのです。荒木さんは、労使慣行はあくまで契約により規制される個別的労働条件なので、就業規則と契約との関係を規律する労基法93条が適用されるとします。そして93条を適用していない裁判所の一部の判決は問違っていると指摘されます。はたして、裁判所は間違っているのか、という疑問があるのです。

集団的規制、個別的規制の荒木説的な分類というのは、ドイツの議論の影響が強いと思われますが、私自身は、形式的には個別的規制手段によっているが、実質的には集団的性格を持つような労使慣行は集団的労働条件と位置づけるべきと考えています。

水町

荒木説だと、労働協約や就業規則で規定されているのは集団的労働条件で、それ以外のものは個別規制条件というように、それがどこで規定されているかで集団と個別を分けています。ただ、個別と集団の区別の議論では、客観的に集団的な関連性があるのかどうかという点が実は重要で、この本のなかでもこの客観的な集団的関連性を背景としたような解釈部分もみられています。この点で、個別と集団の区分とそのなかでの具体的な解釈がうまくかみあっていないのではという疑問があります。

もともと、最高裁判例(秋北バス事件判決)が就業規則による労働条件の一方的変更を認める根拠として、労働条件の集団的・画一的決定ということが重視されていました。そういう集団的・画一的決定・変更を必要とする労働条件であるがゆえに、就業規則には特別の効力が認められる。逆に、個別的な決定に服する労働条件には就業規則の効力は及ばない。そういうふうに考えることもできるわけですが、それでは、集団的な決定が必要とされる労働条件はどこまでなのかというと、おっしゃるとおり、その範囲を画定する基準は必ずしも明確ではありません。

唐津

荒木説によれば、個別規制と集団規制の区別は決め方の問題ですね。例えば、労働時間や、職務内容、勤務地といった労働条件の内容による区別ではない、そこはおもしろいと思う。今まで、集団的な規制がなじむかなじまないかで区別をやっているわけでしょう。けれども、ある条件について、それを決めたツールでないと変えられないというのは、どうでしょうか。最終的には全部契約の内容いかんに帰着する問題になるような気がするんです。だから、どこにこの議論のメリットはあるのかという気がする。

一つには、そういう個別的決定について、就業規則による集団的決定を排除することでしょう。いわば、有利原則の承認ですね。それを無条件で認めるのか、それとも、そのためには何らかの正当性のようなものが必要なのか。そこのところをもう少し議論してほしかったように思います。

もう一つ、集団的か個別的かという区別は、変更解約告知の議論に影響を及ぼすことになります。要するに、集団的な労働条件決定であれば、就業規則でやるべきであって、そこに変更解約告知が入り込む余地はない。それ以外の個別的な労働条件であって初めて変更解約告知が意義を持つ。この点が、荒木さんの変更解約告知論の特徴です。

就業規則変更の合理性判断

大内

二つ目の論点に行きましょう。合理性判断をめぐる議論についてはどうですか。

唐津

先ほど述べたように、荒木説では、多数組合との合意があれば、合理性テストの枠内での合理性が推定できるとしている。この論理は、第一小型ハイヤー事件の最高裁判決(最二小判平成4年7月13日労判630号6頁)に発想の萌芽があり、それが第四銀行事件最高裁判決(最二小判平成9年2月28日労判710号12頁)で取り入れられたという理解ですよね。けれど、秋北バス事件判決以後の就業規則に関する最高裁判例を検討してみると、最高裁は、かなり無原則といいますか、自由に文言の解釈を変えています。みちのく銀行事件最高裁判決では、多数組合との合意は無視されている。多数組合との合意は、やはり合理性判断のためのいろいろなファクターの一つにすぎず、相対的な位置づけしか与えられていない。菅野和夫先生や荒木さんは、多数組合との合意を重く見るということによって何とか合理性テストの活用可能性を高める方向で議論なさっていますが、裁判実務はそう動いていないのではないかという気がしています。

大内

しかし、その点については、この本の中で説明されていますよね。

唐津

説明はわかります。

だから、最高裁判例をいわば所与の前提として、それをいかに整合的に説明するかについて苦心されているわけですね。逆に、浜田論文との比較で言えば、判例を所与の前提とするがゆえに、なぜ規範的な意味で就業規則に拘束力があるのか、なぜ合理的ならば労働条件を変更できるのか、という基本的なところについての検討は十分にはなされていません。

大内

その点の検討は、やらないということなのでしょうね。

判例を前提とする以上、必要ないということかもしれません。それから、判例の理解自体にも、やや強引なところがあるようにも思います。例えば、判例は、多数組合や多数従業員の同意をそれほど重視しているのでしょうか。一応、合理性の推定機能はあるのだろうけれど、容易に覆すことができる程度の推定ではないでしょうか。

大内

第四銀行事件の最高裁判決では、「推定」という言葉は使っていません。「内容が合理的なものであると一応推測させる」と述べているだけです。ただ、私は、多数従業員の態度を尊重すべきとする考えを支持していますけれども。

唐津

逆に、多数組合ときちんとした協議を経ていないということが、合理性判断のマイナスファクターにならない理由がよくわからないのですが。そういう場合でも不利益が少ないなど、ほかの面で合理性が担保できれば、それは無視されるわけですね。けれど、先ほど言いましたように、労基法の意見聴取手続をやはり踏まなければいけない。罰則付きであるわけですから。こういうふうな枠組みで合理性テストは出来上がっているということを前提にすると、多数組合との協議は、合理性判断にプラスにだけ作用するファクターであって、マイナスにならないというのは、ちょっとバランスを欠いているような気がします。

大内

プラスにだけ作用させているのは多数組合との協議へのインセンティブを与えるということが意識されているのかもしれません。

唐津

多数組合との協議をやらないということは、使用者側が不利益変更を合理化する努力を怠ったということになるわけですから、そのことについてはやはりマイナス評価をする。マイナス評価をすることによって、労使協議へのインセンティブをかけることが可能になるのではないですか。

変更解約告知

大内

個別的な変更手段としての変更解約告知論についてはいかがですか。

唐津

私自身は労働条件変更というのは、雇用関係の解消を目的としたものではないということを前提に考えています。ですから、雇用関係を維持したまま交渉する、あるいは就労を継続しながら協議して、まとまらなかったら、その適否は第三者、望むらくは裁判所以外の特別な機関(紛争処理機関)で判断してもらう、そういうプロセスが当事者意思にかなうのではないか。雇用関係を維持できないのであれば、これは解雇か、あるいは辞職という形で関係の解消を図る以外にないのですから、変更法理型の変更解約告知というツールは要らないのではないかと思うのです。

大内

荒木説だと、合理性の適否は裁判所が判断することになりますね。

唐津

その問題が一つあります。結局は、荒木説では、変更解約告知の留保付承諾が認められますから、労働者は就労したまま、裁判所で変更の相当性を争うことができるということですよね。でも、労働条件について変更する権限を一定の場合に認めたうえで、その変更権の行使が相当であるかどうかを第三者機関で判定してもらうことでも、実質的には変わらないのではないか。私は、解雇が付随した変更の申し入れというのは、避けるべきではないかと考えているのです。

大内

でも、唐津説でも、あくまでも労働者が変更を拒否すれば解雇できることがあるということにはならないのですか。

唐津

ですから、拒否して、第三者の判断で処理をする。嫌であれば、それはもう労働者がやめればよろしいという考え方です。労働者と使用者間の条件が折り合わなければ働けないわけですから、お互いの言い分が通らないということになれば、第三者に仲裁してもらうか、それぞれが決断せざるをえない。使用者が決断するということは解雇です。労働者の決断は辞職です。解雇を前提にするような変更ツールは、私は望ましくないと思っているのです。

大内

そういう場合でも整理解雇が認められる場合はありますよね。

唐津

そうです。整理解雇、つまり、解雇法理で対応すれば足りると考えています。

大内

私もそう思います。「変更法理型」の変更解約告知は、概念としてはそのようなものはあってもいいのですが、現行法上は、要件面では整理解雇法理や、解雇の一般法理に吸収されてしまうのではないかと思うのです。もちろん、変更解約告知というタイプの解雇が行われたときに、多少、従来の法理に修正を加える必要はあるのかもしれませんが、いずれにせよ、荒木さんのいう「特殊解雇法理型」で十分ではないのかと思うのです。

唐津

スカンジナビア航空事件(東京地決平成7年4月13日労判675号13頁)も、整理解雇法理で処理できたと思うのです。あえて変更解約告知と東京地裁は言いましたが、これにはちょっと疑問がある。最近では、個別的雇用管理というとすぐに変更解約告知を活用すると言う人が多いのですが、これには非常に抵抗がある。

水町

留保付承諾を認めるかどうかで、大内さんも、唐津先生も認めないという立場で議論をされているようですが、留保付承諾を認めるという立場は、労働条件変更は嫌だけれども解雇や辞職はもっと嫌だという労働者に雇用を維持しながら争う方法を認める立場ですから、その分、選択の幅は広がることになります。

大内

そうです。留保付承諾を認めるということだとすると、たしかに「変更法理型」の変更解約告知という類型を特別に認めることの意義が出てきます。

水町

立法的解決によって処理するのが望ましいというのは私もそのとおりだと思いますが、立法が動かない段階で、現行法の解釈としてどう処理するのかという観点から見ると、唐津先生が言われるような結論に近づけようとすれば、留保付承諾を民法の解釈として認めて、それでもうまくいかない場合には、最終的には解雇権濫用法理の問題になるということでしょう。荒木説と唐津先生の考え方の違いは、立法的解釈を重視するか、それとも立法が望ましいけれども、立法がないときにどう解釈するかの差ではないでしょうか。

変更解約告知の議論の前提として、解雇それ自体が目的なのか、労働条件変更が目的なのかという問題がありますね。仮に、労働条件変更が目的だとすると、なぜ労働条件変更の問題に解雇を絡めなければならないのかが疑問になってきます。特に、留保付承諾を認めて、労働条件変更自体についての司法審査を肯定するのであれば、なにも解雇を前提とする必然性はないわけです。なぜ変更解約告知が必要なのかというところの議論が、ちょっと欠けているような気がします。変更解約告知を認めるなら、労働者側にも労働条件変更請求権を認めないとバランスを失するのではないでしょうか。

大内

私が変更解約告知を言うのは、最終的には解雇による処理という形にしたいからです。どうしても変更についての合意が成立しないときには解雇だというのを強調したい。荒木さんはそうではなく、むしろ変更法理として純化せよという発想です。そうなると、今、盛先生が言われたように、解雇を伴う必要があるのかという疑問は出てくる。

水町

ただ、配転の場合にも本質的には同様の問題が出てくる。配転については労働条件の変更としての配転法理がありますが、そのときに、留保付承諾を認めるかどうか。もし、労働者が留保付承諾をしないで配転を拒否した場合には、使用者が解雇をすることがあり、この解雇の効力は解雇権濫用法理の枠内で判断されることになりますね。

大内

その場合には、懲戒解雇の法理になりますね。

たしかに、配転の場合は異議をとどめて配転命令自体の効力を争うことができます。これが労働条件変更の場合と決定的に違うのは、配転の場合には使用者に命令権限があることが前提で、その行使について法的な有効、無効を争えるけれども、労働条件変更は、本来は労使の合意が前提になる問題だから、いったん変更に応じたうえで合意の効力を争うことに矛盾が生じることです。

唐津

私は、配転も労働条件変更権の行使の一種と考えているんです。そういう場合は就業規則の中に、変更権が留保されているという構成です。

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