社会労働政策
インドネシア社会労働政策の新展開
—成長成果の配分に向けた取り組みについて

(独)国際協力機構インドネシア共和国労働政策アドバイザー
勝田 智明

このところ、日本では中国以外の投資先として、アセアンの各国に目が向けられており、その中でも筆者が独立行政法人国際協力機構の労働政策アドバイザーとして勤務するインドネシアは、域内最大の人口、世界最大のイスラム人口を有する国として注目されることが多くなっている。昨年から今年にかけて、都道府県知事を団長とする経済ミッションの来訪も相次いでおり、日本とインドネシアの経済的な関係がさらに強化されるものと期待が高まっている。

1998年の政治の民主化以降、経済成長が著しいインドネシア経済だが、貧富の格差は大きく、国民の間には、経済成長の果実の配分を求め、格差の縮小に向けた施策への要求も強くなっている。これを背景として、この2年ほどの間に、最低賃金の大幅引き上げ、派遣・請負規制の強化、国民皆保険制度の導入といった施策が講じられた。

本稿では、このような政策対応に行ったインドネシアの経済、社会の状況や、それぞれの施策の概要さらには今後のインドネシア社会労働政策の課題について述べたいと思う。

1. 好調な経済成長と縮小しない格差

インドネシアの経済成長率は、この10年ほど、ほぼ毎年5%から6%台の成長を続けており、リーマンショックの影響があった2009年でさえも4%台の成長を維持する等順調に推移してきた。この背景には、民主化による政治的な安定とともに、人口ボーナスで、毎年200万人以上が新規に労働市場に参入するという豊富な労働力の供給も大いに寄与してきた。

このような状況の中で、消費を中心とする内需が外国からの投資を呼び込み、雇用機会が増加した。

拡大しつつある中間層は四輪乗用車、とくに大家族で乗ることができるワンボックス、ミニバンへの需要に結びついている。それ以下の層はオートバイの保有に向かっている。自宅に固定電話がなくとも、携帯電話を持つことは当然のようになり、露天の店員やゴルフ場のキャディーさんさえブラックベリーを持っている。ジャカルタ市内には大型ショッピングモールも林立し、街の景観を大きく変えるとともに、悪名高いジャカルタの交通渋滞をさらに悪化させている。

一方、生産年齢人口が急速に増加する若い人口構造による労働力の供給圧力と、1997年のアジア通貨危機等の影響による為替レートの大幅下落が相まって、今世紀にはいってからのインドネシアの賃金は、タイ、中国よりも低い状況で推移してきた。また、製造業を中心とする雇用機会の増加も労働市場への新規参入者を十分に吸収することができず、徐々に改善しつつあるとはいえ、インドネシアのインフォーマルセクターでの就業者は全労働者の6割から7割で推移し、タイ、マレーシア、フィリピンと比べても高い状況となっている。さらに、フォーマルセクターで働いている労働者についても、有期雇用契約や解雇の規制が非常に厳しいこともあり、派遣、請負といった外部労働力への依存が続いていた。このような状況の下、インドネシアでは、このところ、ジニ係数も上昇し続け、労働組合や国民からは、政府に対して、様々な要求が出されるようになった。

2. 2013年最低賃金の大幅引き上げ

インドネシアの最低賃金は中央、地方の賃金協議会の審議を経て、日本の都道府県に相当する州とその下の市町村に相当する県・市(両者は同格)の一部が地域最賃と産業別最賃を設定している。最低賃金は就職後1年以内の労働者に適用されるべき金額とされ、勤続1年以上の労働者は当然のごとく、それより高い賃金が支給されるべきものと解釈される。しかし、現実には、最低賃金は男性労働者の平均賃金の3分の2程度、女性労働者の平均賃金とほぼ同額となっており、最低賃金イコール製造ラインの労働者の基本給という状況あり、労使にとって最低賃金改定が賃金交渉の主要部分となっている。このため、最低賃金改定時の労働組合の運動は激しく、中央でも地方でも、デモ隊による中央、地方政府庁舎前の集会、座り込み、場合によっては、工業団地や高速道路の封鎖といった動きさえある。

このような最低賃金設定に当たって、もっとも重視されているのは、適正生活費(KHL)といわれるものである。これは、中央の賃金協議会審議の上、独身男性の生活に必要な品目と量が決定され、地方毎に、個々の品目の価格調査を行い、その合計額により決定している。2012年の最低賃金までは対象品目は46品目だったが、2013年最低賃金の改定にあたり、14品目追加され60品目となり、KHL金額が急上昇することとなった。これを受けて、首都ジャカルタ特別州の最低賃金は、月額約153万ルピアから220万ルピアへ約40%の急増となり、これにより、インドネシアの首都ジャカルタの最低賃金はタイの首都バンコクを上回ることとなった(2014年3月現在1万インドネシアルピア=約90円)。

このような大幅引き上げの結果、労働集約型の輸出産業では経営に支障を来すとして、法律で認められている最低賃金支払いの猶予措置を申請する企業も数多く出た。一方で、一部の州ではKHLの上昇にも拘わらず、これを大幅に下回る水準での最低賃金改定を行った州もあり、地域間の格差は拡大した。

2014年の改定では、政府内で労働集約産業への影響、貿易赤字拡大への懸念もあり、労働組合側からのKHL対象品目追加要求は認められなかった。このため、前年に大幅引き上げとなったジャカルタ特別州も月額220万ルピアから約244万ルピアへ10%程度の引き上げに留まった。一方で、政府は最低賃金のKHL水準達成を方針として掲げたので、KHL水準を下回っていた地域については、大きめの引き上げ幅となり、全国的な格差の縮小に繋がった。また、県・市レベルの最低賃金を定めているジャカルタ周辺の県・市では、ほぼジャカルタの最低賃金額並に改定されることとなり、広域的な均衡も図られつつある。さらにKHLを上回る場合の労使間の協議を強調した結果、ジャカルタ周辺では産業別最賃が発行の目標とされてきた年初でも決まらず、2月段階で審議中というケースが散見される注1

3. 派遣・請負規制の強化

インドネシア労働法の解雇規制は、解雇理由が限定的かつ手続き的にも労働事務所の許可を要する等非常に厳しいものである。加えて、解雇手当は高額、かつ、有責解雇の場合でも支払いが義務付けられている。また、有期雇用契約についても締結要件が限定されており、原則として恒久的な業務については有期契約が認められていない。このため、多くの企業において、業務の繁閑に対応する場合を含め、派遣や請負といった外部の労働力を利用する対応が行われていた。

2003年に制定されたインドネシア労働法では、派遣、請負に関する規制があり、各企業は、その中核業務には派遣、請負を利用してはならないことされており、中核業務ではないものとして、清掃、給食、警備、鉱業・石油業の補助業務、労働者輸送が列挙されていましたが、これ以外の業務についても、派遣先、請負発注会社からの中核業務ではないとの疎明に基づいて広範に派遣、請負が行われ、多くの国営企業や外国企業も利用していました。これに対して、労働組合側から、労働法に違反するとして憲法裁判所への訴訟が提起され、2012年1月労働組合側勝訴の判決が出た。

この判決を受けて、新たな派遣請負規制の検討が行われ、2012年11月に新しい派遣請負規制の大臣令が発出された。

この大臣令では、派遣については、前述の列挙されていた5業務に限定すること、請負利用が許されない中核業務と可能な非中核業務の区分については業界団体で定め、届け出ること等が規定された。さらに、従前からの規制も含めると、派遣先変更時における雇用の承継、違法請負の場合の直接雇用化、請負契約の事前届け出、派遣請負労働者の適正労働条件確認等が義務づけられている。

この大臣令は、公布即日施行でしたが、1年間の移行期間が置かれたため、2013年11月に完全適用となった。しかし、この問題を巡る攻防は、まだ続いており、使用者側は大臣令を違法として憲法裁判所への訴訟を起こしている。また、労働側は、多くの国営企業での請負利用中止と請負労働者の正社員化を求め、労使間や議会での闘争を展開している。さらに、地方での施行に当たる担当職員が地方分権の結果労働行政専門でないことから資質、知識等が不十分なケースも見られる。こういったことを踏まえると、今後の展開に注目する必要があるものと考えられる。

4. 国民皆保険制度の導入

2014年元旦、インドネシアで最も注目されたニュースは、国民皆保険制度のスタートだった。

これまでのインドネシアの医療保険制度は、フォーマルセクターについては、公務員、軍人、警察官(2013年時点で家族を含め全国民の7.5%。以下同じ)はそれぞれの保険制度で手厚く保護され、民間企業の労働者は公的な被用者保険制度(3%)、または、それと同等以上の民間医療保険(1.2%)若しくは企業負担(7.1%)によって保障されていた。インフォーマルセクターでは、貧困者に対する政府負担の医療制度(36.3%)、地方自治体所管制度(主に自営業者等対象)(19.6%)があったが、残りの25.3%は保険未適用となっていた。

この数値から見ると、フォ-マルセクター従事者とその家族は全人口の2割以下となっており、労働力人口の3割から4割と言われるフォーマルセクターの割合を考えると、これまでの医療保険制度を含む社会保険の企業への適用が十分行われていなかったのではないかと推測される。また、地方自治体所管の制度は域内の診療所、病院でしか使えなかったので、居住地に住民登録を持たない注2自営業者等は、保険に加入する実益がなかった。約4分の1の医療保険未適用のグループには、このような人々も相当数含まれているものと考えられる。

新しい医療保険は、全国単一の制度で、保険料はグループ毎に定められている。軽減料率が適用される経過措置終了後の時点で、フォーマルセクター労働者は給与の5%(公務員は使用者3%、労働者2%、民間労働者は使用者4%、労働者1%)で、本人家族併せて5人まで保障し、6人目からは給与の1%の追加保険料となっている。自営業者等は入院可能な病室のレベル等により、家族一人毎に月2万5,500ルピアから5万9,500ルピア、貧困層は月1万9,225ルピアを政府負担とされている。保険料負担としてはフォーマルセクターが重く、他の被保険者の費用を事実上補助することになるものと考えられる。とくに、これまでの民間の労働者の医療保険制度では労働者負担分がなかったので、その不満は高いものがあった。また、貧困層の保険料については、インドネシア国内の医療専門家からも不十分との意見があり、筆者が意見交換した国際機関関係者の多くも2倍から3倍程度必要との見解である。

また、このような財政事情を反映して、診療報酬が抑えられたことから、民間医療機関で保険診療を引き受けるものが少なく、中には一旦保険診療を引き受けることとしたものの数日で離脱する病院も出る状況となっている。

保険適用義務化は段階的に進められており、自営業者を含めた全面的な義務化は2019年だが、貧困層等は既に加入しているので、加入適用促進を含む保険財政と医療サービス供給の確保が喫緊の課題となっている。

5. 今後の課題

以上のような政策の展開は、フォーマルセクターの労働者の賃金を引き上げ、非正規労働者の規制を強化による正規雇用代替防止、インフォーマルセクター従事者を含む全国民の健康を確保とそれぞれ首肯される目的を持ち、いずれも、このところのインドネシアの経済成長の果実をより均等に配分しようとするものである。

しかしながら、インドネシアの労働市場は、インフォーマルセクターの割合が非常に高く、しかも、このところの経済成長にもかかわらず、その比率の低下は非常に緩やかなものである。

最低賃金の引き上げはフォーマルセクター労働者に限定されており、急激な引き上げは労働集約産業を中心に雇用を縮小させる可能性さえある。派遣・請負規制もフォーマルセクター内規制であり、かつ、厳しい有期契約、解雇規制の関係もあり、企業経営、外国投資への影響によっては雇用への影響も懸念される。さらに、健康保険制度では、フォーマルセクターに高い保険料を課しており、インフォーマルセクターと称して保険適用を免れようとする企業が多数出てくることが予想される。

こういったことを考えると、労働分野では、成長の成果を国民に配分し、格差を縮小するために、フォーマル雇用の増加、インフォーマルセクターからフォーマルセクターへの転換促進が課題であり、一つ一つの政策においても、この観点からの整合性の検討のうえ、実施していくことが必要となっている。フォーマルセクターへの流入を促す若者雇用対策の重視、流出を抑制する雇用保険制度導入、さらには社会労働保険適用強化からフォーマルセクター雇用として、労働者を保護していくことがインドネシアにおける課題と考えている。

インドネシアは来年も被用者年金制度の導入等さらに労働者を保護する政策の展開も予定しており、このような社会保障の充実は内需拡大によりインドネシア経済に資するものと考えているが、可能な限り多くの国民がフォーマルセクター従事者との経済成長の配分を急需できる、均衡ある発展が望まれるところである。筆者も、その一助を担うべく、努力しており、皆様のご支援をよろしくお願い申し上げたい。

注:

2014年4月 フォーカス: 社会労働政策

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