最低賃金制度をめぐる欧米諸国の最近の動向:イギリス
全国一律法定最賃、所得再分配に効果

1 法定最賃導入までの経緯

労使自治の原則が労使関係に浸透していたイギリスでは、政府による賃金政策は、労使間の合意による賃金決定を補完するためのシステムとして位置づけられ、保守党政府が1993年に制度を全廃するまで、公労使で構成する賃金審議会が、低賃金部門に限定した最低賃金額の決定や労働条件の設定に関する提案などを行ってきた。

労働党政府が1999年に導入した全国最低賃金制度は、この方針を転換するものといえる。新たな全国最低賃金制度は、原則すべての産業および地域を一律の最低賃金額でカバーし、また自営業者のうち従属的な就業形態の者も新たに適用対象に含めるという内容だった。適用範囲の広さにおいて、従前の賃金審議会制度と大きく異なる。

政府の最低賃金制度導入の意図は大きく二つあるといわれる。ひとつは、低賃金層の賃金水準の適正化により貧困問題に対応することで、これには93年の賃金審議会の廃止以降に低賃金層の賃金水準が顕著に低下し、賃金格差が拡大したことが重要な要因となっている。とりわけ、90年代までにかけて戦後最悪といわれるほどにまで急速に増加した貧困家庭の児童の問題が念頭に置かれていたという。同時に、財政上の問題も制度導入の強い動機になっている。保守党政府が88年に、就労連動型の給付制度(in-work benefits)として導入した家族税額控除(Family Credit)は、一定時間以上の就業を条件に所得補助(税還付)を行う制度で、貧困層の就労促進や貧困児童の問題を緩和する効果があったといわれる。しかし、賃金水準の下限が撤廃されたことにより、多くの雇用主が従業員の賃金を抑制して、この制度を最大限利用させるという傾向を生んだという。結果、受給者の拡大とともに、財政負担が急激に増加したため、妥当な水準の賃金の支払いを、応分の負担として企業に課すことが最低賃金制度導入の重要な目的として示された。同時に、最低賃金制度は政府が実施している「福祉から就労へ」という就業促進プログラムの一環として位置づけられ、低所得層への就労に関連付けた税額控除制度の実施とならんで、失業者や無業者などにとって就労が魅力的となるような賃金・所得に関する施策ともなっている。

なお、現在の最低賃金額の水準は、総じて所得補助や求職者給付など各種給付制度の支給額より高く、このため基本的には給付水準と最低賃金額が関連付けて論じられることはない。

2 制度の概要

現行の最低賃金制度は、22歳以上の労働者に適用される基本賃率(adult rate)以外に、より若い労働者向けに設定された賃率(development rate)として、1999年から設置されている18~21歳向けと、2004年に新たに設置された16~17歳向けの3種類で構成されている。毎年の最低賃金額の改定は、政府の諮問機関として公労使9名で構成される低賃金委員会が、(1)制度導入以降の雇用・所得等に対する影響、また経済情勢、雇用状況、平均賃金の上昇率など(2)最賃の影響を受けやすい低賃金業種の企業へのアンケート調査および地方のヒアリング(3)外部に委託した研究の成果(4)政府・労使などの関係組織からの意見聴取やなどの結果をふまえて、改定額やその他の制度改正の提案を行い、これをうけて担当大臣が決定する。

この3月に公表された2008年10月からの改定額は、22歳以上の基本賃率が5.73ポンド、18~21歳向けが4.77ポンド、16~17歳向けが3.53ポンド。99年の制度導入時の賃率は、基本賃率が3.60ポンド、18~21歳向けが3.00ポンドで、いずれもこの10年間で6割近く引き上げられた計算だ。また16~17歳向けについては、2004年の3.00ポンドから2割弱のアップとなる。

最低賃金額(22歳以上)の推移
  1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008
最賃額(£) 3.60 3.70 4.10 4.20 4.50 4.85 5.05 5.35 5.52 5.73
増加率(%)   2.80 10.80 2.40 7.10 7.80 4.10 5.90 3.10 3.80
未満率(%) 0.90 0.90 1.30 0.90 1.00 1.00 1.00 1.00    
対平均賃金
比率(%)*
35.70 34.70 36.50 35.90 37.70 38.50 38.50 39.60    

*労働時間・所得統計調査に基づく、低賃金委員会の推計。なお、最賃額の改定は通常毎年10月に実施されるが、同調査は4月時点のものであるため、上記は各年の改定額について、翌年4月の賃金水準と比較している(例えば99年の35.7%は、2000年4月の平均賃金に対する比率)。また、2004年と2006年にそれぞれ集計方法が変更されており、このためこの前後の数値は接続していない。

出典:National Minimum Wage: Low Pay Commission Report 各年版

適用が除外される労働者は、義務教育終了年齢前の労働者、自営業者(注1) 、19歳未満もしくは19歳以上で徒弟期間が12カ月以下の徒弟労働者、軍隊従事者(防衛省の雇用者を除く)など。

履行確保を所管する歳入関税庁は、国内に16チーム、計80名の監督官(compliance officer)を配置し、最賃違反に関する労働者などからの申し立てや通報をうけて、雇用主に対する立ち入り検査を行う。違反雇用主に対しては、最長で過去6年分までさかのぼって未払い部分の賃金の支払いを命じ、履行しない場合は、未払い賃金の支払いに加えて罰金を科すことができるほか、悪質な雇用主(注2) に対しては、刑事訴追を行うことができる。

3 制度導入の影響と議論の焦点

最低賃金制度の導入は、低賃金層の賃金水準の改善を通じて、所得の再分配効果をもたらしたとの見方が一般的だ。また、賃金水準に関してその恩恵を最も被ったのは、低賃金層の半数近くを占める女性パートタイム労働者であるといわれ、この層の賃金水準の改善を通じて、男女間の賃金格差の縮小につながった。

制度導入に際して保守党や企業などが主張した雇用に対するマイナスの影響や、若年層に労働需要がシフトすることにより、基本賃率を適用される22歳以上層の労働者が職を失うといった懸念は、これまでのところ現実化していない。この間の雇用水準は、長期的な景気の好調に支えられて拡大しており、雇用状況はむしろ若年層において若干の悪化がみられる。低賃金委員会は、労働力調査のデータから、この数年の雇用増の大半は最賃の影響をより受けやすいとみられる小規模企業において生じている、と説明している。また、企業の収益や生産性に対する悪影響は観察されていないと報告している。

ただし、長期的な景気拡大が踊り場に差しかかっているとの認識から、低賃金委員会は近年、最賃額の大幅な引上げに替えて、企業におけるコンプライアンスを高める方向に提案内容の力点をシフトさせている。最賃制度の遵守状況については、未満率の低さや摘発件数の少なさなどから概ね良好との見方が一般的だが、歳入関税庁による履行確保体制は非常に限定的であることもあり、必ずしも実態が正しく把握されていないとの指摘もある。また、外国人労働者や派遣労働者などの立場の弱い労働者(vulnerable worker)に対する違反は近年増加傾向にあるともいわれる。

政府も、履行確保を重視する意向を示しており、歳入税関庁の監督官の増員や広報活動などによる制度の周知徹底を実施しているほか、派遣労働者や外国人労働者などの立場の弱い労働者に対する搾取の問題への対応についての議論も進めている。例えば住居費等の賃金からの徴収に関するルールの厳格化や、最賃違反に対する即時の罰金の適用および罰金額自体の引き上げ、監督官の権限の拡大などが検討されている。加えて、これまで最低賃金の範囲とみなしてきたチップ(雇用主によって賃金の一部として支払われる場合)について、来年中にはこれを除外するとの方針を先ごろ示したところだ。

なお現地メディアによれば、労働党と労働組合は8月、基本賃率の適用年齢を21歳に引き下げることで合意したという。21歳層への基本賃率の適用については、低賃金委員会も制度導入の当初から提案していたところで、実態として21歳層を22歳以上層と区別している企業が圧倒的に少ない点が根拠となっている。また、政府内部では地域別最低賃金に関する議論が進められているとも報じられている。全国一律の最低賃金額の設定には、シンプルでわかりやすい制度にするという政府の狙いがあったといわれ、また地域間の賃金水準の格差を是正してきたとの側面も指摘されている。しかし、地域によって賃金水準の相場が異なるために、見直しの声が出ている。政府内部で当面の議題にのぼっているのは、北アイルランドなど一部の地域についてのみともいわれるが、詳細は不明だ。

一方、最賃制度に対する近年の労使の関心は、最低賃金の水準に関するものが中心となっている。低賃金委員会が改定額の検討に際して毎年実施している関係者からの意見聴取に対して、使用者側から毎回寄せられる見解は、最賃引き上げによって生じるコストが企業の経営に大きな負担となっており、これを捻出することが年々難しくなっている、というものだ。このため経営側からは、雇用などへの影響をみるためにも、改定の間隔を例えば隔年などにするなどの主張がみられる。

対する労働組合側は、企業の利益率は記録的に上昇しており、最賃の引き上げは企業にとって十分対応可能な水準にあるとしている。むしろ、低劣な賃金水準を理由とする高い離職率が、新たな従業員の訓練によるコストを増加させているとして、「生活賃金」の考え方に基づく最賃額の一層の引き上げを主張している。さらに、インターンシップや職業経験プログラムを通じて就業している若年層に対して、最賃未満の賃金の支払いや無給で就業させるなどの違反事例が多発しているとの指摘や、年齢区分に応じた減額措置は、若年層に対する年齢差別の容認だとの批判もある。

注:

参考:

  1. 小宮文人 「イギリスの全国最低賃金に関する一考察」北海学園大学法学研究42巻4号(2007)、 「イギリスの全国最低賃金とわが国への示唆」季刊労働法217号(2007)
  2. Brown, W. "The Low Pay Commission After Eight Years"(2005)
  3. Coats, D. “The National Minimum Wage. Retrospect and Prospect”(2007)
  4. 1英ポンド( GBP)=187.955円(※みずほ銀行ウェブサイト新しいウィンドウへ2008年9月8日現在のレート参考)

2008年9月 フォーカス: 最低賃金制度をめぐる欧米諸国の最近の動向

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