ラファラン内閣発足:社会問題・労働・連帯大臣にフランソワ・フィヨン氏

※この記事は、旧・日本労働研究機構(JIL)が作成したものです。

フランスの記事一覧

  • 国別労働トピック:2002年8月

5月5日の大統領選第2回投票で再選が決まったシラク大統領は、翌6日に自由民主党のラファラン上院議員を首相に指名し、7日には新内閣の顔ぶれが出揃った。27人中21人が初入閣というフレッシュな構成の中、労働問題を担当する社会問題・労働・連帯大臣にはフランソワ・フィヨン氏が就任した。

フィヨン氏は今回の就任で政府のナンバー3へ昇進したことになるが、オブリ氏からギグー氏へと引き継がれた「帝国」へ乗り込むことを予期していたわけではなかっただろう。最初の閣僚候補リストから引き上げられたサルト県出身の下院議員(共和国連合=RPR)はむしろ国防相の方を思い描いていたかもしれない。フィヨン氏は国防問題の専門家として、1986-88年に国民議会国防委員会の議長を務めたことがある。しかし、シラク大統領は別の決定を下した。フィヨン氏は新たな労使対話の推進役となり、それにより政府の中心的な1本の「柱」を担うことになる。

ウェールズ人の妻と5人の子供を持つ48歳。愛想がいい控え目な性格のフィヨン氏はこれから向かう分野に長い経験は持っていない。近いうちに会わなければならない労働団体の指導者たちも、氏のことをほとんどもしくはまったく知らない。非中央集権化の実験を支持するフィヨン氏は、ナントで、ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏会議の議長として、恒久的な新規雇用を創出する中小企業、商店主、職人に大幅な社会保険料の引き下げを認める「3500件の契約」に尽力した。

ジュペ政権下で郵便・電気通信・宇宙相を務めていたときに、フィヨン氏はフランステレコム規定改正の問題を担当した。国営から株式会社への転換と部分民営化は、郵便職員の公務員の身分、採用計画、そして55歳からの早期退職の維持と引き換えに、やむなく実施されたが、このとき、フィヨン氏は、とりわけ労働者の力(FO)と相互理解の接点を見いだすことができた。

「コンセンサス」を重視するフィヨン氏は、大統領与党の中にあって、ナンバー2のニコラ・サルコジー氏が具体化する右派路線に反対する勢力に属している。フィヨン氏は大統領選挙の第1回投票の翌日、「改革の教育学」が必要だと判断し、退職年金、国家改革、地方改革などの重要課題で「コンセンサスを築く」必要性を強調していた。氏は、「右へも、もちろん左へも、急旋回がない」選挙結果を喜んでいた。

1983年から2001年までサブレシュールサルト市長を務め、ソレーム市(サルト県)の市会議員になったフィヨン氏は実用主義者だ。バラデュール内閣の下で1993-95年に高等教育研究相を担当した同氏は、長年にわたってフィリップ・セガン氏の番頭役を務めていたが、今では同氏と距離を置いている。大統領与党連合(UMP)とその前身のシラク政党UEMの主要な政策立案者の1人でもある。

一方の足を国政に、他方の足を地方政治に置くフィヨン氏は、決してサルト県の基盤をないがしろにしない。ルマン氏生まれの公証人の息子は、公法の学位を取得し、サルト・ジョエル・ル・テゥールのドゴール派系議員の秘書としてキャリアを開始し、1978?1981年には運輸省で経験を積んだ後、国防省に働く場を得た。1981年以降は連続的にサルト県で下院議員に当選。1992年には県会議長に選出された。1998年にはペイ・ド・ラ・ロワール地域圏議長の座をオリヴィエ・ギシャール氏から引き継ぎ、右派の重鎮の仲間入りを果たした。

2002年8月 フランスの記事一覧

関連情報