UNEDIC協約、ジョスパン首相とMEDEF

※この記事は、旧・日本労働研究機構(JIL)が作成したものです。

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  • 国別労働トピック:2000年12月

ジョスパン首相とフランス企業運動(MEDEF)のセリエール会長は、10月15日から16日の深夜にかけて行われた電話会談で、全国商工業雇用協会(UNEDIC)の改革について合意に達した。オブリ雇用相は、今後1年間の失業保険制度について定めたデクレの内容を労使双方へ提示するつもりであったが、首相の介入によって、政府と使用者の間の行き詰まりを打開することが可能になった。オブリ雇用相の辞任日程(10月18日)が迫っていることもあって、この1週間ほどの交渉は、労使にとってとくに厳しい試練であった。

MEDEFによって始められた「労使関係再構築」の最初の課題であるUNEDIC協約について、首相とセリエール会長との間で合意が形成された。これは、首相が自らセリエール会長へ電話で連絡した結果である。セリエール会長は10月16日、「首相は労使共同運営の原則に支持を表明した。首相は、労使関係分野の『戦争』に終止符を打ちたいと望んでいたし、労使関係再構築が労使関係を発展・近代化させる基盤になると考えていた。こうした理解の上に立って、合意が形成された」と語った。

民主労働総同盟(CFDT)のノタ書記長も、同日夜にこの話し合いについて知らせを受けていた。キリスト教労働者同盟(CFTC)、管理職総同盟(CGC)、手工業者職業連盟(UPA)、中小企業総連盟(CGPME)へ通知されたのはもう少し後になってからであった。10月16日の遅くに、本文への最後の修正内容を検討する目的で、協約案の調印者と非調印者の両者が集合する予定であるが、その前にMEDEFの実行委員会が開かれる。

この新しい局面が生まれたのは、MEDEF、CGPME、UPA の経営側と CFDT、CFTC、CGC の労働側が調印した内容に置き換えるために、政府が1年間有効なデクレの内容を提示する準備を行っていたときであった。政府は、コミュニケを発表し、デクレの内容を検討して意見を発表するよう労使当事者に求めるつもりであった。いくつかの理由から、いかなる追加的な期限も検討されてはいなかった。雇用復帰援助制度(PARE)の修正のために調印当事者へ先週の1週間を与えた後で、政府は、話し合いは十分に行われたと判断した。オブリ雇用相にそれ以上の時間は残されていなかった。雇用相は、欧州社会問題相会議の議長を務めるために16日の夜にはルクセンブルクへ出発しなければならなかったし、それから、パリに戻り、18日には辞任前の閣議に出席する必要があった。

経営側は、2002年に予定されている2回目の保険料引き下げを見直すことに断固として反対していたし、失業者の個別的就職支援措置の際にUNEDICに割り当てられる役割に対するその立場を強化していた。結局、首相と結ばれた合意の中でも、2回目の保険料引き下げは実施されるが、半年を経た2回に分けられる。すなわち、失業保険制度の会計状態がそれを許すのであれば、1月1日に0.2%、7月1日に0.2%となる。

当初予定されていたデクレの中で、政府は PARE を創設する協約について、いくつかの修正を試みていた。手当の権利を得るために、18カ月間に4カ月の労働期間という基準期間が定められていたが、これが12カ月間に3カ月の労働期間へ改められていた。この修正によって保証を受けていない18万人の求職者を失業保険制度へ組み込むことが可能になった。また、失業保険料の第1回目の引き下げは認められていたが、2回目は今後の話し合いに任されることになっていた。さらに、失業者の個別的就職支援措置(PAP)による調査と管理には、国立職業紹介所(ANPE)だけが責任を負うことになっており、UNEDIC は通知を受けるだけであった。

ジョスパン首相とセリエール会長との合意は、保険料の引き下げに関して行われた妥協からも明らかなように、デクレに盛り込まれたすべての点が引き継がれているわけではない。

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