デンマークのフレキシキュリティと我が国の雇用保護緩和の議論

情報解析部情報管理課長 松淵 厚樹

我が国では、国際協調を軸とした経済政策[1]を講じていく中で発生したバブルとバブル崩壊後の不良債権の発生や財政赤字の拡大による、見方によっては特殊な事情による長期停滞経済を経てきた。こうした中、以前は経営者でも声高には議論することはなかった雇用保護の緩和を中心とする労働市場改革に関する議論が最近頻繁に聞かれるようになった[2]

先般、当機構の招聘研究員であるオルボー大学(デンマーク)のラーセン教授とブリッドガード助教授から「フレキシキュキリティ (Flexicurity)[3]」政策についてお話を伺う機会があったので、簡単に紹介するとともに、我が国での労働市場改革の議論との関係で考えてみたい。

デンマークの労働市場の特徴

まず、デンマークの労働市場の姿を統計的な面から見れば、失業率は 4 ~ 5%程度とEU内では低く、就業率は約 75%と高水準であり、良好な数値となっている。労働者の平均転職回数はEU加盟国中最多の約 6回、平均勤続年数は 8.3年、雇用期間1年未満の者の割合は 20.9 %と高く、10 年以上の者の割合は 31.5 %と米国に次いで低い水準となっている。因みに、国民の75%は数年の間隔で転職することを肯定的に捉えており[4]、解雇規制も非常に緩い。

フレキシキュリティとは

このような労働市場の姿を実現可能としているのがフレキシュキリティ政策である。EU諸国では、デンマーク経済及び雇用が好調であることもあり、このフレキシキュリティがもてはやされており、我が国でも注目されつつある。

我が国で、多くの人が注目するのは、解雇規制の緩さなどフレキシブルな労働市場についてである。しかし、この柔軟性は、「ゴールデントライアングル」とも称される (1) フレキシブルな労働市場、 (2) 失業者に対して手厚い給付を行う失業保険制度等[5]、(3) 失業者の技能向上を目的とした職業訓練を伴う積極的労働市場政策の3つの密接な相互連携からなるデンマーク特有の体制の下での「雇用の保証(employment security;同一企業内の雇用保証ではなく、職業訓練など活性化施策と密接に関連した手厚い失業給付を基盤とした切れ目のない雇用の場の確保)」を基礎に実現されていることに注意が必要である。

特に、こうした政策を実現可能としているのは、使用者団体と労働団体の合意を中核とした政労使三者合意による世界最高水準の国民負担率( 74%)に対する国民の合意である。こうした条件の下、GDPに占める労働市場政策への支出割合も 4.5%、失業者の再訓練を含む積極的雇用対策費は同 1.8 %とOECD諸国で最高となっている(我が国ではそれぞれ 0.7%、0.3%)[6]。ラーセン教授によれば、「世界で最も費用がかかるシステムであるが、国民はこれを投資と見なし納得している。」とのことである。失業しても深刻な事態にはならない手厚い失業給付とセットになった職業訓練による活性化施策が大きな役割を果たしているからであろう。特に、失業者に対する職業訓練は、スキルの低い労働者が高い資格を得られるようにするなど非常に充実したものとなっている。これは継続的に更新される基本スキルを有した労働力を基盤とした企業競争力の源泉ともなっている。

我が国の労働市場改革の議論への示唆

以上でみてきたような特徴を持つデンマークの労働市場及び労働政策であるが、ラーセン教授は、「デンマークモデル(フレキシュキリティ)は、100年近くの長い年月をかけて(政労使3者合意により)構築された福祉国家を基盤にしたものであり、直ちに他国に輸出できるものではない。」との考え方を示されていた。また、デンマーク企業の労働市場は、我が国のような内部昇進型ではなく、転職によりスキルアップや職位レベルのステップアップを図っていく(逆に同一企業内ではスキルアップ・ステップアップは一般的ではない)という米国に類似した労働市場である[7]。このようにデンマークの労働市場は、我が国とは異なった社会構造・制度・慣行を背景に形成されたものであることを無視することはできないであろう。

我が国では、デンマークのフレキシブルな労働市場のみが注目される傾向にある。しかし、このような労働市場は、国民全体の合意に基づく高負担の下でのゴールデントライアングルと呼ばれる様々な手厚い施策により、失業した場合でも安心して生活できる条件が整備されていることによって実現されているのである。デンマークの労働市場を我が国の労働市場改革の議論の参考にする場合は、一面のみならずデンマーク社会全体の構造を見ていく必要がある。

( 2007年 3月 9日掲載)


[脚注]

  1. ^ 1985年 9月に成立したプラザ合意により急激なドル安となった。1987 年 2 月のG7会合において、各国が現行水準で為替相場を安定させる(一層のドル安を回避する)ために緊密に協力することを内容とした「ルーブル合意」が成立し、我が国では金融の緩和(低金利政策)及び内需拡大のための財政支出(公共投資)等が実施された。
  2. ^ 政府レベルでは、昨年 12月、経済財政諮問会議に「労働市場改革専門委員会」が設置された。
  3. ^ Flexibility (フレキシビリティ)の Flexi と Security (セキュリティ)の curity を合わせた造語。
  4. ^ 欧州委員会( 2006)「労働力の流動性に関する調査報告書」
  5. ^ 失業者に対しては、最長 4年間、平均給付水準が失業前の賃金の 81%相当の失業給付が給付される。失業給付期間終了後も就職できない場合その他就業が不可能な場合は、生活保護、障害者は障害者年金を受給することが可能である。また、社会保障は、スカンジナビア(スウェーデン、ノルウエー、デンマーク)型と称される充実したものである。
  6. ^ 2004年度。因みに、デンマークに次いで高い水準にあるオランダでは、それぞれ 3.7%、 1.4%。
  7. ^ 官庁や一部企業には我が国同様の長期雇用・内部昇進型の人事管理体系を持っているところもある。