職務発明問題と労使自治

調査員 奥田栄二

身分から契約へ?

3 年ほど前であろうか、労働法の大家である某先生にインタビューした際のことである。その先生は、日本での労使自治の実質化(すなわち、労使間に生来ある交渉力・情報の格差をいかに埋め、実質的な労使自治を構築するかという問題)について次のように訴えた。「労使関係が今の身分関係に近いものからもっと契約関係にならなければだめだ」。

しかし、この「身分から契約へ」の流れがすでに現れているとも語る。「近年の職務発明訴訟の増加はその兆候だ。今までは、会社に反旗を翻したら終わりだった。青色発光ダイオードの中村修二氏が典型だが、彼には日本企業がだめなら、米国に行くという選択肢がある」。普通のサラリーマンでも高度な専門能力を持ち、モビリティが可能な社会であれば、企業と交渉することもできるようになると言うのである。思うに、先生が示唆されているのは、組織の中で自己主張することの難しさそのもの、なのだろう。

特許法改正の影響は?

確かに、当時、職務発明訴訟は増加傾向にあった。オリンパス光学工業事件最高裁判決(平成 15・4・22)以降、衝撃的な判決が続き、日亜化学工業事件東京地裁終局判決(平成 16・1・30)では、200億円の「相当の対価」を認容するまでに至った(その後、平成 17年 1月 11日の東京高裁による和解成立で 6億円に縮減)。以後、これらの判決に呼応するように、企業は報奨金規定の上限額を高額化し、あるいは上限を廃止した。それらの結果、手続規制を重視する形で特許法 35条が平成 16年に改正されたことは記憶に新しい(平成 17年 4月施行)[1]

研究開発は不確実性の高い分野[2]であるだけに研究者等の処遇の変更は世間の耳目を集めることとなった。すでに当機構では、法改正前の平成 14年度に従業員の発明にかかわる処遇について調査(以下、「前回調査」)を実施していた[3]。そこで、法改正後の変化と改正法の影響をみるため、平成 17年度にも同種の調査(以下、「今回調査」)を実施することとした[4]

今回調査の結果によれば、改正法が例示している協議や意見聴取などの手続きを実施する企業が法改正を契機として増えていることがわかった。そもそも、改正法の本旨は、本来算定が難しい職務発明の対価について、使用者と従業者が協議をすることで対価決定基準を定め、使用者側から情報を開示することを促すところにあるといわれているだけに、その効果が期待されるところである[5]

変化は手続面にとどまらない。報奨金の取扱い規定あるいは慣行がある企業について、報奨金額の決定方法をみると、「評価に基づき決定(上限なし)」としているのは、「自社実施時」で 53.2%、「他社への実施許諾・権利譲渡時」で 63.9%となっている。企業が、研究者等のインセンティブ向上に努めている姿が垣間見える。

実際、調査をしてみて分かったこととは、ここ 3年あまりの間、企業は、研究者等に対する処遇の改善にかなり取り組んできたのではないか、ということだ。例えば、報奨金規定の問題点に眼を向けると、今回調査で「問題点がある」とする企業が 44.5%で、前回の 57.3%に比べ低くなっている。その中身をみても、「報奨金額の決定が困難」が依然高いものの(前回 36.7%から今回 53.4%)、「発明等の対価にふさわしい内容になっていない」「発明等のインセンティブになっていない」「発明者等が不満をもっている」の割合が前回に比べ低くなった。

変化の兆しはあるか?

ここで、冒頭の先生の言葉に戻ろう。職務発明訴訟の増加は労使関係の変化の兆しなのだろうか。普通のサラリーマンでも専門能力を培えば、企業との対等交渉も可能となるのであろうか。今回の調査をみると、リスクやインセンティブの必要性に応じて、企業には紛争を避け手続きを尽くす用意があるように見える。あとは、その手続きがただの形式で終わることなく、働く個々人にとって納得の得られるものであることを望むばかりである。というのも、誠実に交渉し納得の程度を高めることで、より労使自治の前提が整うように思えるからだ。そういう意味では(自律的な労働が尊ばれる今日においてはなおさら)、改正特許法を契機とする手続規制という規律は、新たな労使自治のテストケースとして注目してよいのかもしれない。

( 2006年 11 月 10日掲載)


[脚注]

  1. ^ 改正特許法 35条については、特許庁( 2005)『新職務発明制度における手続事例集』(商事法務研究会)参照。
  2. ^ 研究開発の不確実性の見地から、報奨金の高額化について警鐘を鳴らす議論として、小池和男(2005)『仕事の経済学(第3版)』(東洋経済新報社) 111~ 122頁参照。
  3. ^ 平成14年度実施の前回調査「従業員の発明に対する処遇について(労働に関するWEB企業調査)」については、http://www.jil.go.jp/press/rodo_kansuru/020918.htmlを参照。
  4. ^ 今回調査については、http://www.jil.go.jp/institute/research/2006/027.htmを参照。
  5. ^ 土田道夫( 2005)「探求・労働法の現代的展開:職務発明と労働法」ジュリスト 1302号、田村善之・津幡笑( 2006)「職務発明の相当な対価請求に関する手続的な規律のあり方」季刊労働法 213号など参照。