世界で働くお父さん

本コラムは、当機構の研究員等が普段の調査研究業務の中で考えていることを自由に書いたものです。
コラムの内容は執筆者個人の意見を表すものであり、当機構の見解を示すものではありません。

企業と雇用部門 主任研究員 中村 良二

海外で働く父親に会いに行く

数年ほど前から某TV局で、子供が海外で単身赴任している父親を訪ねるという番組が放送されている。赴任先の多くは、ターミナルの現地国際空港から、電車やバスを乗り継いで、半日から一日かけて、ようやくたどり着くような地域である。その行程もさることながら、兄弟姉妹の上の子が、極度の緊張の中、下の子を気遣う様子にもぐっとくる。待望の再会-ほんのわずかな父親との幸せ時間-翌朝の別れ…父親は再び、一人で仕事に向かう。40代半ばくらいのお父さんが多い。日本企業が海外進出を始めてすでに久しいが、今も世界中の「現場」で、ニッポンのお父さんたちは働いている。

なんとか、村に産業を

これまたTV番組の話しで恐縮だが、ミャンマーで備長炭の技術を伝えようとする職人さんが取り上げられていた。御年66歳、和歌山で30年余、備長炭造りに携わっておられる。ウバメガシが自生する現地の状況と州政府からの要請で、単身ミャンマーへ渡られた。電気もガスもない自給自足の寒村で、炭作りを産業として根付かせなんとか現金収入の道をと、10人ほどのお弟子さんたちを育成する日々が映し出される。「自分ができる限りは続けたい。僕にとって得はないが、使命だと思う。でもひとつも苦じゃない。(むしろ)楽」という言葉に、清々しさと共に仕事に対する誇りがひしひしと伝わってくる。ご本人にしかできない、村にとってかけがえのない貢献である。日本への輸出を目指すとあったが、「ミャンマー産備長炭」は既に日本のどこかで使われているのだろうか。

「おでん、始めました」

一昨年、本当に久しぶりに中国で調査をする機会に恵まれ、十数年前に訪れて以来の大連に向かった。改革開放の第一段階、経済特区として早い段階にスタートした大連には、わが国製造業企業が多数進出したが、今では縮小や撤退という事態も珍しくはない。

調査を終えて街中を歩いていると、「…入荷しました!」、「忘年会はぜひ当店で!」などという多くの張り紙が目に入る。「寒いもんなぁ。おでん、いいなぁ。忘年会の季節も近い!」と通り過ぎてから、ふと我に返った。そこは中国・大連の街…。今でも相当多くの日本人駐在員たちが、時折「おでん」をつつきつつ、黙々と仕事に向かっている。「本当にいい街なんですが、この寒さだけには弱ります」と、久々に再会した現地法人社長が話して下さった。「ご家族は?」と伺うと、「娘がもう高校生なので、単身(赴任という選択)しかありませんでした」とのお答え。日常の生活環境は本当に変わった。選り好みをしなければ日本の日用品や食料はほとんど入手可能とはいうものの、次の瞬間、何が起こるかきわめて予想しにくい中国社会で、お父さんたちは業務を続行している。

日本企業のマネジメント

日本企業の海外進出に伴い、現地での人事管理も長く検討されてきた。中国各地で10年余東奔西走したわが同級生から聞く事情は、特段、目新しくはない。本社との密な連絡、現地従業員の育成など、重要課題から微細なことまでのほぼ全てが、ほんの二、三人の日本人スタッフの肩にのしかかる。派遣者数は減ることこそあれ、増えることはまずない。

『日本労働研究雑誌』2015年12月号で、石田光男先生が「日本は、非常に濃密なコミュニケーションと部門間調整をする世界ですが、他の国に行ったときにどういうマネジメントをするかというテーマは今、真正面から明らかにしていかなくてはならないと僕は思っています」(p.20)と述べておられた。状況や課題が大きく変わっていないとすれば、余計に詳細な検討が必要となろう。企業外の環境は日々刻々変わり続けているからである。日々の業務をこなしながら、働き方と組織調整という大問題にも静かに立ち向かうお父さんたちに、心からのエールを送りたい。

ふと、いつの日か、「海外で働く母親に会いに行く」という番組が放映されることがあるのだろうかと、そんな思いが頭の片隅を過ぎった。案外、近いのかもしれない。

(2016年9月14日掲載)