コラム:研究余滴

本コラムは、当機構の研究員等が普段の調査研究業務の中で考えていることを自由に書いたものです。
コラムの内容は執筆者個人の意見を表すものであり、当機構の見解を示すものではありません。

アドバイザリー・リサーチャー 西澤 弘

新年を迎え、よしやるぞ!という意気だけは新たにしたいものである。

夢、希望、期待、決意などのそれぞれの思いを抱いて新たな年の第一歩を踏み出した人も多いことだろう。筆者も思いだけはあれこれと限りなく広がるものの、年末になって一年を振り返ると尻すぼみになっていることが多く、除夜鐘声の心、元日曙色の気を忘れずにという言葉を胸に秘めて過ごしたいと思っている。年末に年初計画の決算をすると予期した結果から大きく外れるのは、要するに自分自身を把握していないからということに尽きる。

自分自身を把握する、あるいは理解するということは、よくよく考えてみると実に難しい課題である。心は外に馳(は)せやすく、省みることを得意にしている人は少ないからである。その中で日常的な行為に表れやすい性格や習慣、あるいは日々反復する仕事については、割とよく把握しているのではないだろうか。

社会生活になくてならないものは仕事である。ましてやそれが生計を営む資を提供してくれる職業であれば、自分の仕事を職業の視点からとらえ直すことは比較的容易であろうと思われる。この楽観的希望を前提にしないかぎり、職業に関する調査は成立しない。人は自分の職業を知っていると考えているからこそ、調査担当者は安心して回答者に職業を尋ね、その結果と他の調査項目とをクロスさせて職業別の集計をすることができる。他方、その調査結果を利用する人は、通常、職業別の回答にエラーが含まれているかもしれないなどとは考えないものである。

調査回答者が自分の仕事を正確に職業に変換することが、職業調査の根本的な、しかし暗黙の前提になっている。自分の仕事が、どのような内容であって、どのような責任がともない、どのようなスキルを必要とするかを知らない人は少ないと思う。しかし、仕事を知っていることと、それを職業というフィルターを通して見ることとは別問題である。つまり、仕事を知っていても、それを社会的な分業の呼称である職業に正しく変換できるとは限らない。

だから、極端な言い方をすると、仕事と職業との対応を自明とする考えは幻想にすぎないといえよう。もし、これを立証する事実を目の前に突きつけられたらどう反応するだろうか。筆者は、唖然(あぜん)としてしまった。個人の職業を把握することは一見容易に見えて、実は難しい問題が隠されている。

筆者がこの点を痛感したのは、2012年と2013年にインターネットを利用した調査を実施したときである(注)。この調査では約500の職業を対象にして、職業別の集計を行った。回答者の職業を確定する際に使用した問いは次の2つである。

  1. 現在の職業(500職業のリストから該当するものを選択)
  2. 主に従事している仕事(自由記述)

これらの項目に対する回答を回答者ごとに対比してエラーチェックをすると、選択した職業と仕事の記述との不一致がきわめて多く、その内容も多岐にわたっていた。両者の不一致が少ない職業でも回答者の1割程度が不一致だった。不一致の多い職業では、過半の回答者が不一致だった。少なく見積もっても全回答者の2割程度に不一致が見られた。

回答の不一致をパターン化すると、次の3つに集約できる。

(1)実際の仕事に対応する職業が選択されていないケース
(2)回答者の職業意識が偏っているケース
(3)意図的にエラー回答が記入されたケース

自分の仕事を職業に変換する過程は、点と点を結んだ直線的な軌跡を描くわけではない。両者の間には職業リストが介在している。したがって職業リストというフィルターの出来具合が職業選択の正確さを左右することになる。ところが不一致パターンから明らかなように、問題は職業リストだけではなく回答者にもある。それゆえ職業リストをいくら精巧に作成しても、それが回答者の職業認識に合致していないのであれば、そもそも正確な職業選択を期待することはできない。

今回の調査では、職業を把握することの難しさを再認識することになったが、その一方で大量の不一致データからは職業分類の改善につながるヒントや材料、回答者の職業認識に関する貴重な情報を得ることができた。その意味では予想外の大きな収穫があったといえる。

今回のように思いがけない結果と収穫が交錯した調査にこそ、実は日計足らずして歳計余り有りといったおもしろさが潜んでいるのである。

(2015年1月9日掲載)