フランス・日曜就労解禁は働く者のためになるのか
―19世紀の労働環境から考える

調査員 北澤 謙

フランス印象派の画家、ギュスターブ・カイユボット展が昨年東京で開かれた。12月のある日、私は《建物のペンキ塗り》(1877年)、《ヨーロッパ橋》(1876年)という絵の前で19世紀パリの情景に思いふけっていた。というのも、フランスでは昨年、日曜就労解禁をめぐる動きが盛んになってきており(注1)、そもそも日曜休日の原則が定められた当時の労働者はどのような生活をして、どのような労働環境にあったのか、そして、どのような歴史的経緯を経て規定が設けられたのか知りたくなったからだ。当初、労働政策史や労働法制史に関する文献をひも解いてみたものの(注2)、文字面だけでは解ったという気にはなれなかった。

カイユボットは19世紀後半、変わりゆくパリの近代的な都市風景や風俗を描いた画家だ。印象派に属していながら、モネやルノワールといった印象派本来に見られる素早い筆触で自然の一瞬の情景を捉える画風ではなく、写実的な筆致で街中の人物を捉える作品を多く残した。当時のパリの人々の姿をイメージするにはうってつけだった。カイユボットが描いたパリは、ナポレオン三世によるパリ大改造(1853年から1870年にかけて)の直後の姿である。近代的労働法制が整備されていく前提がつくられた時期のパリを切りとった光景である。

フランスで日曜就労の禁止が法律で規定されたのが1906年。同じ年に労働省が設置されている。労働組合や使用者団体を結成する自由を規定した職業組合法が1884年。1880年代以降はフランスにおいて労使関係を含む労働法制が急速に整備されていった時期でもある。また、「連帯」という法律名や国家との契約の名に使われる考え方が定着していった時期でもある。

近代労働法制が整備されていく経緯を深く理解しようとすれば、少なくとも19世紀初頭まで遡る必要がある。というのは、19世紀後半の労働環境は産業革命の影響を強く受けているし、労働者の団結権が確立していく過程は、1791年の「アラードのデクレ」「ル・シャプリエ法」から見ていかなければならないからだ。1789年の市民革命と産業革命によって、中世以来の同業組合的な秩序と関係を維持し続けた職人たちの結びつきが崩れ去った。職人の伝統的な労働に代わって、工場での技能を要しない細切れの作業が求められるようになり新しい労働形態が広まった。これに呼応するようにして、アソシアシオンやソシアビリテといった労働の場における新しい結びつきが浮上してくる。当時の労働環境は劣悪で、1日の労働時間は12時間から15時間にわたり、祝日や休暇もなく、場合によっては日曜休日もない状態であった(注3)。また、工場での雇用は必要な時に呼び寄せられる不安定なものであり(注4)、家族の生計は夫婦共働きで12歳以上の子が自分で食費を稼いでやっと成り立つほど賃金が不安定であった(注5)

当時の労働者の姿はオノレ・ドーミエ(注6)の風刺画や『フランス人の自画像』(注7)に見ることができる(例えば、研ぎ師や仕立て屋、カフェ店員等の挿絵、図1参照・注8)。『フランス人の自画像』はフランス語がさほど理解できなくとも挿絵を見ているだけでも面白い。

図1:19世紀フランスの研ぎ師
図1画像

19世紀中ごろのパリの労働者は劣悪な就労環境から逃れるように、家と職場の行き帰りに街の居酒屋に立ち寄り、酒を飲んではたむろしていたという。1日の疲れを癒し、日ごろの鬱憤を晴らす場所が居酒屋であった。エミール・ゾラの小説にも当時の『居酒屋』は描かれた。仕事がない日曜には郊外の居酒屋に出かけ、管を巻いて過ごす習慣が労働者の間で根づいていた(図2参照・注9)。

図2:休日、パリ郊外の居酒屋で憂さ晴らしする労働者
図2画像

居酒屋は仲間同士の絆を確認しあう場であったが、ゴゲットという歌会が開かれる居酒屋では、仕事を終えた労働者が集って歌ったり、詩を朗読したという(図3・注10)。その内容は労働者の日常を歌ったものが多かったが、社会や政治に対する自身の考えが綴られたものもあった。労働詩人や民衆詩人と呼ばれる人々が出現し、労働者の組織化を担っていった。ゴゲットのような社交の場は社会や政治に関する知識が伝達され、議論される場でもあった。そのためストライキの結集拠点になりやすかったという。労働者の結ぶつきがストライキへとつながり、1830年代にはストライキが頻発するような事態になっていた。1830年7月革命や1848年2月革命を経て、アソシアシオンの活動は制限されつつも形態を変えて生き続けていった。

図3:ゴゲットで詠じる労働者
図3画像

1884年には職業組合法が制定、団結権が認められ、1880年代にはストライキが頻発、増加するようになっていった。1890年には北部の繊維産業を中心にストライキが生じフランス全土で12万人もの労働者が参加したとされている。政府は抑圧するよりも調停や仲裁によって労使の相互理解を促進しようと1892年に集団的労使紛争に関する法律を制定する。労働時間の規制では1848年のデクレで1日12時間と定められ、1904年には女性や年少者を対象とする10時間とする法律も施行された。日曜休日の原則が定められた1906年のメーデーでは1日8時間労働制が提起されたが、それが導入されるには1919年まで待たなければならない。

このように振り返ると、労働者が権利を獲得していく過程には数知れない試練があったと想像できる。日曜就労禁止の権利は19世紀末から20世紀にかけて、労働者による社会や政治体制との闘争の結実として勝ち取ったといっても過言ではないだろう。割増賃金が得られるからという理由で日曜就労解禁を求めるのは目先のことしか考えていないように思えてくる。

労働政策の一つ一つには歴史的な経緯が息づいている。その政策が100年以上の古いものであれば、その歴史的経緯を当事者から直接、聞き取る手段は残されていない。当時書かれた文献を読み漁り、その行間を読み取る作業をしなければならない。私はそれに加えて、当時描かれた絵画を鑑賞したり、当時の労働者たちが口ずさんだであろうシャンソン(注11)を聴いてみたり、そうした行為の積み重ねによって、想像の域を出るものではないが、当時の人々の息づかいを感じることが少しできたように思う。

日曜就労を全面解禁するということは、修正を加えながらも週35時間労働制を維持し、若年者の不安定雇用につながる「初回雇用契約」に対しては抗議運動が全国的に拡大して抵抗するといったフランス的な働き方の方向性という意味では、逆行しているようで少々残念に思う。フランス労働政策の調査に携わる人間として、いま一度、労働法の成り立ちを振り返って議論してほしいという思いがこみあげてくる。遥かに離れた日本にいる若輩が口を挟むことは、おこがましいことではあるが。

[注]

  1. 日曜夜間就労解禁をめぐる最近の動きについては、当機構ホームページ海外労働トピック2014年1月参照
  2. 水町勇一郎(2001)『労働社会の変容と再生―フランス労働法制の歴史と理論』有斐閣、赤司道和(2004)『19世紀パリ社会史―労働・家族・文化』北海道大学図書刊行会、平実(1976)『フランス労働者政策史論』晃洋書房等を参照。
  3. Alain Dewerpe, 1989, Le monde du travail en France, 1800-1950, Paris : A. Colin などを参照。
  4. 経済学者E.ビュレによる研究。
  5. 医師・統計学・社会学者L.R.ヴィレルメ氏による1840年の調査報告。
  6. 喜安朗編(2002)『ドーミエ諷刺画の世界』岩波書店(岩波文庫)
  7. Les francais peints par eux-memes
  8. Les francais peints par eux-memes : encyclopedie morale du dix-neuvieme siecle. T. 4, L. Curmer (Paris), 1840-1842新しいウィンドウ(フランス国立図書館・電子図書館(ガリカ)より)
  9. Les francais peints par eux-memes : encyclopedie morale du dix-neuvieme siecle. T. 5, L. Curmer (Paris), 1840-1842新しいウィンドウ(フランス国立図書館・電子図書館(ガリカ)より)
  10. Les francais peints par eux-memes : encyclopedie morale du dix-neuvieme siecle. T. 4, L. Curmer (Paris), 1840-1842新しいウィンドウ(フランス国立図書館・電子図書館(ガリカ)より)
  11. ジャン=バティスト・クレマン作の『さくらんぼの実る頃』(Le Temps des cerises)やウジェーヌ・ポティエ等による『インターナショナル』(L'Internationale)など

(ホームページ最終閲覧:2014年2月10日)

(2014年2月14日掲載)