3人のリーダーの死と日本的労使関係

江上 寿美雄

1990年代半ばから2005年にかけて、労働運動の屋台骨を支えた3人が最近、立て続けに逝去した。鷲尾悦也、笹森清、草野忠義の3氏で、いずれも、連合の事務局長、会長などの要職を歴任した。

大企業労組の出身者だという点に加えて、3氏にはもうひとつ共通点がある。30歳代から40歳代に、現在の連合の母体ともいうべき政策推進労組会議、全民労協の事務局で活躍したことだ。政策制度闘争を重視した政推会議―全民労協は、野党だけではなく、自民党、各省庁、経済団体など多方面との折衝を精力的に開始し、チャンネルをつくった。

労働戦線統一のゴールもにらんだその体験が3氏を労働界のリーダーに成長させたといえるだろう。このときに、企業別労組の枠内にとどまらない問題意識や見識、人脈などを形成し、のちに飛躍する跳躍台となった。連合前会長の高木剛氏を加え、「労働戦線統一世代」ともいえるこの世代は数年前に労働運動の第一線から退場している。結成の実感が希薄なリーダーに連合が担われる時代に入ったのだ。

振り返れば、1989年の連合結成に至る約10年間の労働戦線統一の時期は、日本的労使関係の成熟段階に当たる。1970年代半ばの石油危機を「賃上げ自制」の「日本型所得政策」で乗り切り、代わりに解雇の抑制が重視され、整理解雇法理が確立する。賃金制度では職能給が主流として定着する。戦後の波乱時期を過ぎ、日本的労使関係が確立したからこそ、その主流勢力による統一・再編が進行したのだとも指摘できる。

この時期の1980年代半ばに実施された中曽根内閣の行政改革は、日本的経営と日本的労使関係の維持と賛美を大前提としていた。既存の労使関係の打破を主眼としたサッチャー、レーガンの新自由主義とその点で違う。貿易不均衡による構造的障壁が争点として浮上し、低生産性部門と高生産性部門の壁の問題が顕在化した。その結果、労使対立よりも、規制産業と輸出産業などのセクター間対立(労労対立)が目立ち、大企業労組は「小さな政府」を要求した。労働戦線統一が「民間先行」で進行したゆえんである。

だが、バブル崩壊で日本型システムの信用が下落し、小泉改革は日本型システム打破と制度の再編をうたい拍手喝采を浴びる。会社人間からの脱却などを主張する「リベラル」と「規制緩和論者」の奇妙な連合ともいえる事態が進展したのだ。

日本的労使関係と連合の進める政策制度闘争の蜜月時代が終わりを告げた。3氏の悪戦苦闘が始まった。社会的セーフティネットの充実、地域運動の展開、組織拡大と集団的労使関係の再構築。結成時には見られなかった課題が連合の運動方針の柱にいま目につく。代表例は、地域組織(地協)の活動の強化で、連合結成時には、組織の基本を産別組織として、地域労働運動の強化を「総評運動の再来」として警戒した経緯を想起する。非正規の拡大などで、仕切り直しを迫られた一側面といえるだろう。

企業別労組の枠内から脱皮した思考と行動と人脈が3氏を労働界のリーダーに押し上げたが、彼らが立脚していたのはいうまでもなく成熟した日本的労使関係だった。それが揺れ動いた。何が見えていて何が見えていなかったか。3氏の政推会議―全民労協時代の密度の濃い体験の一端を知っているだけに、初発に立ち戻っての心情を訊いてみたかったと思う。ご冥福を心からお祈りしたい。

(2012年6月1日掲載)