「中小企業における人材育成・能力開発」とは
―私的で暫定的な到達点―

副主任研究員 藤本 真

2007年4月から5年間、プロジェクト・マネージャーとして担当してきた、調査研究プロジェクト「中小企業における人材育成・能力開発」がこの3月末で終結を迎える。

5年前、このテーマを担当することが決まった時、2つの意味でとんでもないテーマだと正直思った。1つは調査研究を担当する立場から、「とんでもなく難しい」テーマだと感じた。何せ日本企業の99%は中小企業である。この事実を真に受ければ、「中小企業の人材育成・能力開発」を政策研究の対象とするということは、「日本のほぼすべての企業の人材育成・能力開発にとって意味ある成果を目指す」ということになる。そんな事は神ならぬ人の身には到底できるはずがない。「日暮れて道遠し」(これはプロジェクト開始当初より、当機構の稲上毅前理事長の口から事ある毎に聞かされてきた台詞である)といった事態が、ほの見えて、プロジェクト発足から2年ぐらいまでの間は再々途方に暮れた。

もう1つは、地方にある零細小売業企業の経営者の息子と言う立場から、中小・零細企業の当事者にしてみれば「とんでもなくのんきな」テーマだなと思った。確かに、自身も含めた社員の人材育成・能力開発ができればいいなと思う経営者は少なくないが、それは日々の売上を確保したり、何とか資金繰りの目途をつけることができたりして、経営に余裕が出てきたところで初めて取り組める話である事が多い。日々、厳しさと世知辛さが増していく中小・零細企業を取り巻く経営環境を、月に数回程度の母親との電話での会話さえからもひしひしと感じながら、こんなテーマをやって、中小企業の当事者の方々にとって意味があるんだろうか、少しでも振り向いてもらえるんだろうかと、プロジェクトに取組んでいる途上も疑問に思い続けていた。

プロジェクトが終わろうとする今になってみても、上記の「とんでもなさ」を払拭できる心持ちには全く至っていない。それでもプロジェクトに関わっている間に、「中小企業における人材育成・能力開発」の基本的な部分については何とか理解でき、次への足がかりをつかめたかもしれない――そんな思いがしたのは、先日ある方から「中小企業における人材育成・能力開発はどのように進められるものですか」と問われて、口ごもったり、ためらったりすることなく答えている自分に気がついてからである。プロジェクト発足からつい最近までできなかった事だ。

その問いに対して私はまず、中小企業における人材育成・能力開発の契機は4つだと答えた。4つとは、 (1)新たに採用した従業員(新卒・中途を問わない)に一通り仕事を習得させる事、 (2)仕事をするのにどうしても必要な資格(例えば、溶接やクレーン操作の資格など)を従業員に取得させる事、 (3)経営者に代わって、現場や特定の部署を取り仕切る管理・監督者人材の確保、 (4)最高の意思決定者にして最重要のセールス・パーソンを兼ねることも多い経営者自身の自己研鑽、である。いずれも企業経営、事業活動に強く裏付けられた契機であり、従業員の潜在的な能力の向上を図る部分も大きい大企業における人材育成・能力開発との違いを如実に示している。

4つの契機について説明した上で、私は中小企業の人材育成・能力開発を取り巻く、企業周辺の環境に話を向けた。4つの契機は、企業経営や事業活動に裏付けられているだけに、ほとんどの中小企業の経営者に多かれ少なかれ意識されている。ただ、人材育成・能力開発以外の当座やらなければならない業務が続いたり、4つの契機に基づく活動のうち何から着手していくのかの方針が定まらなかったりして、実際の取組みになかなか踏み切れずにいる経営者が多いと見られる。また、中小企業における教育訓練活動は大企業のようにスケジュール化されているというよりも、必要になった都度行われると言う性格が強く、その時々の経営者の費用対効果の見通しに大きく左右される。ここで、教育訓練に関連してなすべき事を会社の経営状況を踏まえながら交通整理してくれたり、必要な時に安価な教育訓練サービスを提供してくれたりするという存在が身近にあれば、教育訓練に取り組もうとする経営者の背中を大いに押してくれる可能性がある。そうした存在としては、例えば商工会議所のような地域の経営者団体や業界団体などが考えられ、これらの組織は従来から中小企業の人材育成支援を行ってきているが、より一層着目する(単に「目を向ける」と言うだけでなく、「あり方を見直す」と言う意味もここでは含む)に値しよう。

さらに、「これは企業にインタビュー調査にうかがっていて感じたのですが・・」と私は続け、中小企業における人材育成・能力開発をめぐっての労使コミュニケーションの重要性を指摘した。人材育成・能力開発は企業運営や事業活動に役立つべきものという考えや、教育訓練にまわす時間やお金の余裕がないといった事情は、中小企業の経営者と同じく、中小企業で働く従業員にも広がっている。また、人数が少ない分、ある従業員が教育訓練のために職場からいなくなると、大企業よりもそのしわ寄せが他の従業員に及びやすいという職場環境もある。こうした状況の下、教育訓練の実を挙げようとするならば、「教育訓練の必要性」について労使の共通理解を作っていくためのコミュニケーションが大企業以上に求められる。教育訓練を積極的に進めようとする中小企業の経営者は、多くは試行錯誤の上、従業員の育成・能力開発をめぐる通念や事情を理解し、そもそもなぜ教育訓練が必要なのか、どうしてその内容の研修やセミナーに従業員を派遣するのかと言った点を、企業経営の現状やビジョンと結び付けて懸命に説明しようとしている――ここまで言って、私は「回答」を締めくくった。

以上は回答であると同時に、2つの「とんでもなさ」の感覚を導きの糸としてたどり着く事ができた、「中小企業における人材育成・能力開発」をめぐる現実についての、私の暫定的な理解である。もちろんこんな理解は、ここでひけらかすのが恥ずかしいほどに、中小企業について良く知った方から見ればごく基本的な理解であり、私は5年かけて、ようやっと「調査研究⇒政策的・社会的取組み」へと続くプロセスにおける「イロハ・・・」の「イ」の地点にいてもいい資格を得たにすぎない。とはいえ、とんでもなくも興味深いテーマにめぐりあい、5年間曲がりなりにも取りくんでいくことでこそ得ることのできた資格だろうから、さらに中小企業の世界に関する理解とコミットメントを深めていければと思う――今後も「とんでもない」テーマだと言う感覚を持ちながら。

(2012年3月9日掲載)