「なんともいえない顔」

研究員 前浦穂高

先日『雇用ポートフォリオ・システムの実態に関する研究―要員管理と総額人件費管理の観点から―』(労働政策研究報告書No.138)を刊行した。この報告書では、非正規雇用の活用がどのように促されるのか、その仕組みについて、要員管理と総額人件費管理の観点から、事例調査を通じて明らかにしている。

今回のコラムでは、上記の報告書の基となった事例調査について書くこととした。その理由は、近年丹念な事例調査が少ないと感じるからである。上記の現状が生み出された原因はわからないが、事例調査という調査方法の重要性が失われたわけではない。

事例調査は、取り上げる事例数に限りがあるものの、調査応対者から得られたインタビュー結果と頂いた資料・データを付き合わせながら、事実を1つ1つ確認し、分析課題について、深く掘り下げることができるからである。そうすることによって、事例調査は、制度やその運用実態に至るまでの詳細な分析を行なうとともに、母集団全体にも応用できる可能性がある事柄を抽出し、分析課題に対する結論やインプリケーションを導き出すことができるという利点を持つ。

そうであるならば、現在実施中である事例調査の水準を押し上げるとともに、これから事例調査を試みる研究者が調査をスムーズに行えるよう、事例調査に対する理解を深めることが必要となるはずである。

以上が、本コラムにおいて事例調査を取り上げる理由であるが、事例調査について何を語るかと言えば、恩師から頂いた言葉(事例調査の心得)を私なりに解釈して説明することである。本コラムの内容が、少しでも事例調査を実施している研究者やこれから事例調査を試みる研究者の一助となれば幸いである


1.まずは事例を愛しなさい。

この言葉は、先生とともに本格的な事例調査に取り組む前に頂いた。その意味を私なりに解釈すれば、こちらが相手に愛着を感じなければ、相手は心を許して、事実を語ってくれないということである。あくまでもこちらは調査を依頼する身であり、相手にはそれに協力しなくてはならない義務はないからである。それゆえ相手の信頼を得て、調査に協力して頂くことが重要となる。

2.事実は都合よく転がってはいない。

この言葉の意味は、事実は、調査をする側にとって都合よく(仮説の通りに)存在するとは限らないということである。実際に調査をしてみると、事前に立てた仮説と事実との間に乖離が生じることがある。この場合、自分の仮説に合わせて事実を整理することはできない(してはいけない)から、調査から得られた事実を1つのストーリー(仮説)で説明できるよう、調査中に仮説を修正したり、調査結果を整理する過程で、新たな仮説を構築したりしなくてはならない

3.録音は自分で起こして、自分でまとめる。

事例調査では、相手の発言をノートに書き留めるが、私は調査応対者の許可を得て、できる限り、調査内容を録音させて頂くことにしている。調査が終わると、調査結果をまとめる作業にうつるのだが、私は自分で録音を聞き、自分のメモ、頂いた資料やデータの全てに目を通して、調査結果をまとめている。

その理由は、自分で録音を聞かないと、調査の臨場感が得られないこと、業者がまとめた反訳を読んでも、その内容が頭に入ってこないことの2点である。上記の理由から、私の場合、業者が作成した反訳を、自分で分析しやすくまとめ直したり、自分で録音を聞き直したりすることになり、かえって余計な時間を割くことになる。

調査結果をまとめる際には、調査の基本的な情報(調査日時、応対者のお名前とご所属、調査場所、頂いた資料名など)を記すとともに、自分のメモ、頂いた資料やデータを駆使し、必要な情報を「ヒアリングノート」にまとめる。

私の場合であるが、「ヒアリングノート」は、 (1)調査結果をどんなストーリー(仮説)でまとめるのが良いかを考える、 (2)それが決まれば、章や節を設定する、 (3)その構成にしたがって、インタビューの内容を振り分け、頂いた資料やデータを組み込んでいくというプロセスで作成している。

このようにすれば、「ヒアリングノート」のこの箇所は、原稿のどの部分に活用するのかが明確になり、原稿を執筆する際に役立つ。

4.自分がわかった気になれるかどうか。

事例調査をする際に、気になることの1つに、調査回数がある。調査はあるテーマや分析課題を解明するために行われるから、1つの事例に対して、どこまで掘り下げるのか、調査を何回行えば良いかということは決まっていない。したがって、調査回数は設定したテーマや分析課題を解明できたという感触が得られるかどうかで決まる。それを言葉にするのなら、「自分がわかった気になれるかどうか」ということになる。しかし調査回数が増えると、それだけ調査応対者のご負担が大きくなる可能性が生じるから、効率の良い調査をしなくてはならない。つまり1回の調査でどれだけ「自分がわかった気になれるか」が勝負となる。

この感触を得ることができれば、事例のまとめ方(ストーリー)が決まり、原稿を執筆するのに必要な事実やデータの整理ができたことになるため、私はその段階で「ヒアリングノート」を基に原稿を書き始める。

5.分析をする際には、冷たく突き放しなさい。

研究者である以上、分析は冷静かつ客観的に行わなくてはならない。しかし調査を実施する段階で、相手に対して愛着を持っているため、即座に割り切って分析をするのはなかなか難しい。しかしこれができないと、相手の回答を鵜呑みにしてしまったり、誤った解釈をしてしまったりすることになる。そのため分析をする際には、調査応対者がどう思うかを気にしながらも、最後は「自分は研究者なのだ」と言い聞かせてまとめていく。

原稿を書き上げると、必ず調査応対者にお送りし、内容のご確認をお願いしている。原稿は何らかの形(論文や報告書など)で公表されるため、調査応対者にご迷惑をおかけすることがないよう、事実誤認、不適切な表現、公表するのに相応しくないデータや記述などを指摘して頂くためである。ただしご確認頂くのは、あくまでも上記に該当する部分に限定し、事実の解釈や事例のまとめ方(ストーリー)については、その対象から除外している。それは、解釈や事例のまとめ方は研究者の仕事の範疇であること、そこまでご確認頂くと、逆に調査応対者の主観が入ってしまうからである。


以上、恩師の言葉を借りて、事例調査の心得について述べてきたが、最後に大きな疑問が残される。果たして、良い事例調査とはいったいどんな調査であろうか。

恩師曰く、それは調査応対者が原稿を読まれた時に、「なんともいえない顔」をした時なのだそうだ。そのお顔とは、原稿に対して言いたいことはあるけれど、こちらの主張(分析結果)が客観的かつ論理的であるため、何も言えない状態を指す。

私はというと、調査応対者から「自分たちが普段やっていることの意味がわかりました」とか、「なるほど、こうなっているんですね」というお言葉を頂くものの、残念ながら、まだそのお顔に出会ったことはない。

その時がいつ訪れるかはわからないが、そのお顔に出会えることができた時に、恩師から事例調査の免許皆伝を頂けるのではないかと期待している。

[脚注]

  1. ^ 事例調査のほかに、アンケート調査という方法もあるが、調査方法の選択は、分析課題を解明するのにどちらが相応しいかで判断すべきである。今回の調査は、企業が非正規雇用の活用をどのように決定しているのかという分析課題について、総額人件費管理と要員管理の両側面から明らかにすることを目的としているため、私は事例調査を選択した。
  2. ^ あらかじめ断っておくが、本コラムの内容は事例調査の絶対的なルールを示すものではない。重要なのは、事例調査を実施する個々人が、自分にあったスタイルを確立し、多くの人が良い事例調査をすることにある。
  3. ^ この仮説の修正や再構築がスムーズに行えないと、調査の間隔があいてしまい、1つの事例に対する調査回数も増えるなど、大きなロスを招くことになる。
  4. ^ 例えば、同じ言葉でも、その場の雰囲気や口調(語気)によって、意味は異なってくる。どういう雰囲気のなかで発せられた発言なのか、応対者はどのような口調(語気)で発言したのかなどの情報は、自分で録音を聞いてまとめなければ得られない情報である。

(2011年10月21日掲載)