職業研究の地平

主任研究員 西澤 弘

日常生活において時折、自分の職業を書くように求められたり、自分の職業に当てはまる項目を選ぶように求められたりすることがある。たとえば、今週から平成21年分の確定申告の受け付けが始まっているが、申告書には職業を記入する欄がある。この他、本に差し込まれた読者カード、各種の申込書、アンケート調査の回答用紙などにも職業を記入する欄が設けられていることがある。

職業欄に記入するとき戸惑った経験はないであろうか。自分の従事している仕事を職業名として表現するだけのことにすぎないが、ためらいがちになる人もいる。それは、自分の仕事を表す名称がこの職業に就いている人の一般的な職業名なのだろうかと漠然とした不安を感じることに関係しているのかもしれない。また、ある特定の職業名を使うのは何となく気が引けるなどの気後れに関係しているのかもしれない。

同様に、職業として列挙された項目の中から自分の仕事に該当するものを選ぶとき、当惑する人もいる。選択肢の中からただ選ぶだけなので容易なように思われるが、その選択肢によっては気の滅入ることもある。たとえば、選択肢が「会社員、自営業、管理職、専門職、技能職・・・」であった場合、経理の仕事をしている人は「会社員」を選択せざるをえない。仕事に対する自負心の強い人ほど自分の仕事が「会社員」として表現されることに憤りを覚えるかもしれない。

ここに紹介した2つのケースは、職業をめぐる個人と社会との距離を表しているともいえる。第1のケースは、特定の仕事を共通の言葉で表現する土台が必ずしも確固として確立しているわけではないこと、第2のケースは個々の仕事を集約する際の表現について社会的な共通理解が必ずしも形成されているわけではないことをそれぞれ示している。

日本や中国の歴史書をみると政権が代わると度量衡の統一が行われてきたことがわかる。その政策の背景にある謀略は措くとして、物差し・枡・秤の統一基準を作ることによって共通の土俵の上で物事を処理することが可能になる。職業は、この点ではなはだ遅れている。職業を取り扱う機関・事業者が職業の名称や区分についてそれぞれの独自性を前面に打ち出して事業を行っており、職業について共通理解を促すような環境が整っているとは言い難い。

たとえば、求職者や転職希望者が、ハローワーク、人材紹介会社、求人情報提供事業者などのインターネットサイトで希望する仕事の求人情報を検索する場合、サイトによって希望する仕事の名称や職業分類上の位置づけが異なることがある。このため自分の職業認識とサイトに掲載された職業とのギャップに困惑し、目的とする求人情報にたどり着くまでに余計な手間がかかることになる。

それゆえに職業の名称や区分を社会的に統一しようという考え方が広まってきた。この流れは、既にアメリカやイギリスを始めいくつかの主要国では標準職業分類として実を結んでいる。標準職業分類は、職業を扱うときに使用しなければならないという制約がある一方、職業について基準を示し、共通の認識と理解を促進することに大きく貢献しているといえる。我が国も昨年12月に日本標準職業分類を職業の基準にすることを決め、遅ればせながら世界の潮流に従うことになった。

日本標準職業分類の設定は、職業の共通言語化という課題に対するひとつの解答であり、また、その第一歩でもある。今後、そのいっそうの可能性を探るためには、仕事に従事する人の面、仕事の行われる職場の面、職業人を育成する社会の面の三者を総合的に把握・分析する枠組みを整え、体系的に研究を進める必要がある。これは私にとって職業研究の新たな地平である。

研究成果(当機構における主な著作物、発表論文など)

(2010年2月19日掲載)