母乳育児と仕事の両立

研究員 内藤 忍

母乳育児をしたいという女性が増えているという。厚生労働省の平成17年度乳幼児栄養調査によれば、妊娠中の96.0%の女性が母乳で子どもを育てたいと答えている。しかし、彼女たちの出産後の実態は違う。同調査によれば、母乳を多少なりとも与えられている生後5カ月児は64.4%にすぎない。

理由は様々あるだろう。しかし、原因の一つに、仕事との両立の問題があるのではないだろうか。そう考えたのは、筆者自らの産後期に、母乳育児と仕事の両立に悩む多くの産後労働者に接したからであった。

ある友人は、住居が保育所激戦区にあり、入園可能性の最も高い4月の入園を選択せざるをえず、子どもが7か月のとき職場復帰した。職場で搾乳をする場所も時間的余裕もなく、また、保育所が冷凍母乳を預かってくれないこともあり、復帰後まもなく母乳育児を中止した。もし保育所が年度の途中でも入園できれば、育児休業をもっと長く取得したのにと話している。別の友人は、育児休業の復帰後、がんばって母乳育児を続けたが、やはり搾乳場所がなく、トイレで母乳を搾ったという。かくいう私も、勤務先近くの保育所数軒に保育時間中の訪問授乳の可否を質問したところ全て断られた経験がある。

産後女性には特有の身体メカニズムがあるが、これが一般には意外と知られていない。母乳育児をしている期間は、通常、昼間勤務先にいるときでも定期的に乳房が張ってくるから、勤務中も1~3回程度母乳を搾って出すことが必要だ。これをしなければ、乳腺炎を起こして高熱を出したり、母乳が出なくなったりしてしまう。搾った母乳をあとで子どもに飲ませる場合はパックに入れ冷凍して持ち帰る。だから、搾乳する時間と場所が職場では重要だ。このニーズを理解し支援している職場がどこかにないだろうか。そう思っていたら、早稲田大学が教職員や学生のための搾乳室を設置したという。話を聞きに行った。

早稲田大学の搾乳室

早大の搾乳室設置は、2008年9月、ある職員の相談がきっかけだった。常勤嘱託職員のAさんは、産後8週間(産後2か月未満)で職場復帰した。子どもにミルクのアレルギーがあり、人工栄養に切り替えることができず、母乳育児をどうしても続ける必要があった。労働基準法で保障されている1日1時間の「育児時間」で3回の搾乳は時間的に厳しいが、昼休みも合わせて何とかがんばることにした。

しかし問題は搾乳する場所だ。搾乳した母乳をパックに詰めて子どもに届けなければならないので、不衛生なトイレは適切でない。思い切って人事部に相談したところ、同じキャンパス内の1室を搾乳室として利用できることになった。Aさんは、幸い職場の上司や同僚の理解も得られ、順調に母乳育児と仕事を両立させることができた。

実は早大では、Aさんの相談より以前に授乳室を既に設置していたが、搾乳室については考えていなかったという。Aさんの相談がきっかけとなり、以前からあった授乳室も、授乳・搾乳室に変わった。Aさんが利用した搾乳室は、その他の教職員や学生にも開放されるようになり、今や多くのキャンパスに搾乳スペース(授乳室等と兼用の施設を含む)が用意されている。利用希望者は常におり、ニーズは高いとのこと。他の企業でもこのようなニーズは必ずあるはずだ。企業は産後労働者の声を聞き、ぜひこのような取組みをして彼女らの両立を支援してほしい。

働く女性が母乳育児を行う上での障害

働く女性が母乳育児を選択する場合、育児休業が一つの大きなカギになろう。WHOとユニセフは母乳育児を2年以上続けることを勧めているが、日本では育児休業を1年以上取るのもなかなか大変である。保育所入所のチャンスはそれほど多くはないから、例えば4月入所に合わせて、育児休業を終える。すると自宅で授乳できる期間はおのずと短くなる。しかも、育児休業の権利は、法律上すべての労働者に保障されているわけではない。一部有期契約労働者は排除されている。また、家計を担うシングル・マザーは、育児休業中の所得保障が低い現状においては、長くもしくは全く休業できないかもしれない。

だから現状では職場復帰後の支援が重要だ。しかし、職場に搾乳のためのスペースがない。会議が続けば、乳房が張ってきても搾乳できない。そのうえ保育所は冷凍母乳を預かってくれないし、授乳のための訪問も無理だという。働きながら母乳育児を続けるのは容易ではない。

働く女性が母乳育児を続けられるようにするには、様々な解決策がある。授乳期間を十分カバーでき所得も十分保障される育児休業制度、いつでも入所でき冷凍母乳を飲ませてくれる保育所、仕事中に授乳に行ける事業所内託児所、衛生的でプライバシーが守れる職場の搾乳室・授乳室(冷凍庫も)、個々人の搾乳に十分な育児時間、1日の仕事スケジュールの柔軟性、短時間勤務の権利、職場の理解などである。

母乳育児はリプロダクティブ・ライツ

母乳育児は、妊娠・出産にかかわる事項である。つまり、母乳育児を行う・行わない、どれくらいの期間行うといったことは、「性・生殖に関する自己決定権」(リプロダクティブ・ライツ)に含まれる。これは国際的に認められた女性の人権なのだ。この観点から、仕事との両立にあたっては、すべての女性に職場復帰後の母乳育児の権利が付与されること、それから、職場もしくは職場に近い衛生的な場所で搾乳(授乳)できる設備が必要である。これらはILOの母性保護条約(第183号)と同勧告(第191号)でも求められている。

しかし、この視点が日本において意識されることは、悲しいことにとても少ない。もちろんILO条約も批准できていない。母乳育児を支える労働環境が改善されることがないまま、今も多くの女性労働者が不衛生なトイレで搾乳したり、職場復帰にあたって母乳育児を断念したりしている。国、自治体、企業、労使団体は、産後労働者の悩みに気付いていないのだろうか。彼女らの母乳育児に関する自己決定を阻害するものを取り除けるよう真剣に取り組んでもらいたいと思う。そして、産後労働者に知ってもらいたい。職場復帰しても母乳育児は続けられる。出産した先輩・同僚に両立のやりくりを聞いてみよう。なかなか言いにくいかもしれないが、自らの要望を会社や組合に伝えてみよう。

参考

早稲田大学 ダイバーシティ推進室(Nursing Room)新しいウィンドウ

「母乳育児と女性労働」JILPT小野晶子研究員コラム(2008年7月23日掲載)

(2010年1月8日掲載)