特別掲載記事:アメリカ
大統領選挙と新たな「社会契約」の必要性

  • カテゴリー:労使関係
  • フォーカス:2016年12月

(解説 ―「社会契約」としての労使関係を読む)

2016年11月8日に行われた大統領選挙とそこへ続く選挙戦のなかで、民族、人種、宗教、LGBT、女性、所得格差といったさまざまな場面での分裂をアメリカで目の当たりにするようになった。

こうしたことは突然あらわれたのではなく、働く人が自らの能力を向上させて企業活動に貢献し、企業は安定した雇用と労働条件、社会保障で労働者に報いるといったアメリカの「社会契約(Social Contract)」が1980年代に崩壊したことに端を発する。政策、労働運動、企業活動、教育といった社会システム全般にわたり、社会契約(Social Contract)」の再構築に向けて何がいま必要なのかを説く。


マサチューセッツ工科大学教授 トーマス・コーカン

写真:トーマス・コカーン教授

写真:トーマス・コーカン教授

11月に行われた大統領選挙は、交差する2本の大きな断層の存在を顕在化させました。この断裂を放置すれば、アメリカの歴史上前例のない社会的・経済的な大変動の時代を生み出す可能性があります。

第一に、断層は、人種、民族、ジェンダーの間に存在する深い分裂状態を明らかにしました。昨年来のイスラム教徒へのヘイトクライム(憎悪犯罪)の急増がその一つです。問題の解決のためには、いまも引き続き広がりつつある断層を修復するための不断の努力が必要です。そのためには、強力なリーダーシップと互いの困りごとにすすんで耳を傾けることが不可欠です。

第二に、断層は、不均衡をもたらす経済システムのなかで、取り残されていると感じ、自分の子供たちの生活水準が自分たちよりも下がることを恐れている人々の根深い失望と怒りとなって私たちの目の前にその姿をあらわすことになりました。

本稿の中心的なテーマは、こうした断裂を修復するための手がかりを示すことにあります。そのカギは、社会のあらゆるセクターの人々が協力して、質の高い雇用を生み出すとともに、すべての人々の賃金を再び増加させることにあるのです。つまり、お互いがお互いを思いやる相互尊重に基づく新たな「社会契約(Social Contract)」を今日の労働者の実状と経済のニーズに合わせたかたちで、再構築しなければならないのです。

「社会契約(Social Contract)」という言葉は多くの人にとって耳慣れないと思います。これは、経済の主要な利害関係者である、労働者、実業界のリーダー、教育者、そして政府を相互に結び付け、それらの各組織が自らの目標達成を追求する一方で他の組織に対する義務を果たす、といった仕組みのこと言います。たとえば、労働者は良い賃金とキャリアを望む一方で、生産性の高い仕事をし、雇用主の成功に貢献するという義務を負っています。一方で、雇用主は、投資家、従業員、顧客の抱く期待に応えることが求められるといったようなことをいいます。

しかしながら、残念なことに、アメリカの「社会契約」は、1980年代に崩壊したのです。その時に、生産性が上昇しても、賃金が増えないというギャップが初めて顕在化しました。今年の大統領選挙の選挙戦では、失望したり落胆したりする人々を数多く目にすることになりましたが、そうしたことは1980年代に始まっていたのです。さて、ドナルド・トランプが次期大統領に選出され、議会で共和党が過半数を占めるようになりました。このことは、新たな「社会契約」を作り上げるプロセスがワシントン主導で進められることになるだろう、という幻想を捨てなければいけないことを意味しています。

けれども、歴史が我々に教えてくれているように、生活を改善する社会的・経済的な変化の大半は、実際は、国策によって起こるものではないのです。

「民主主義の実験室」

最高裁判所の判事を務めたことがあるルイス・ブランダイスは、「各州は民主主義の実験室だ」との有名な言葉を残しています。かつて、アメリカのそれぞれの州では、革新的な活動や社会的な運動が問題解決のためにさまざまな試みを行い、その成果を国の政策に影響を与えてきました。

アメリカの「社会契約」は、1920年代後半の世界大恐慌からの復興を目指したニューディール政策から生まれました。そのときも、人々が地方から国政を動かしたのです。ニューディール政策は、フランクリン・D・ルーズベルト大統領が、失業保険、社会保障、障害者給付、団体交渉権、最低賃金を確立する法案に署名した時よりも前から始まっていたのです。

20世紀の最初の数十年、労働者の運動がニューディール政策の基礎を作りました。たとえば、1914年創設の合同繊維労働組合(Amalgamated Clothing Workers Union)の当時の指導者であったシドニー・ヒルマンは移民労働者を組織化して、集団交渉の基本原則を作り上げています。

ウィスコンシン、マサチューセッツ、ニューヨークなどの州では、労働運動家の活動によって、失業保険、最低賃金、時間外手当に関する法律が制定されました。ウィスコンシン州立大学で教鞭を取っていたジョン・R・コモンズと教え子たちは、州レベルの革新的な政策の具体化と研究に貢献したことで、ニューディール政策の「知的な父」と呼ばれています。その後、彼らはワシントンD.C.に出向き、ルーズベルト大統領が各政策の法文化を手伝いました。大恐慌を終わらせて、中間層が拡大する礎となったのです。

こうした変化は、連邦政府の中枢である権力の回廊で起こることはほとんどありません。変化は、ごく少数の人々によってもたらされるのです。たとえば、女性の選挙権を獲得するための婦人参政権運動は、スーザン・B・アンソニーとキャリー・チャップマン・キャットといった少数の指導者から始まったのです。

けれども、規制緩和、労働組合への攻撃、グローバリゼーションの拡大、そして、自動車を中心とする中西部のラストベルト地域の製造業の破壊につながる深刻な不況が起こった1980年代に、これまで申し上げてきたような「社会契約」は不運にも崩壊したのです。その時に、本来であれば行わなければいけなかったそれまでの古い「社会契約」の書き換えに失敗したことで、賃金が伸び悩み、ついには、今回の大統領選挙によって明らかになった人々の怒りと分断がおきたのです。

最前線に立つ労働者

大統領選挙が終了した現在、今日の経済、労働者、社会に適した新しい「社会契約」を構築するための長いプロセスにとりかからなければなりません。その契約は、失意の中にある人々の本当の声を汲み上げ、そうした人たちの怒りを行動へと導くものです。私たちはすでに着実な前進を続けていることが良いニュースです。いまや、多くの草の根的なイノベーション活動が社会全体に広がっています。この動きが加速し、拡大していけば、方向性がおのずと自分たちのものになり、明確な形となっていくでしょう。この道は、集団としての労働者が自ら導いていくものです。ここには、労働組合、コミュニティ組織連合、そして「労働者中心のアントレプレナー(worker-centered entrepreneurs)」というべき組織がいるのです。

「ファイトフォー・フィフティーン運動」(国別労働トピック「生活できる賃金を求める運動が過去最大規模で展開」を参照)のことを思いうかべてください。この運動は、連邦最低賃金を15ドルに引き上げるためのものです。最初の目に見える成果は、シアトルで2015年に達成されました。その背景には一般市民の強力な支持がありました。アメリカ全土にその波がうねりのように伝わることで、そのほかの18州の最低賃金の引き上げにつながったのです。ここには、大統領選挙と同時に行われた住民投票により最低賃金の引き上げを選択した4州も含まれています。

こうした進展は、ウォルマートやマクドナルド、ギャップといったような伝統的に賃金が低い企業が熟練度の低い初歩的レベルの従業員に支払う賃金を、連邦および州別最低賃金を上回るように圧力をかけることにつながっていったのです。イケアのような企業は更に一歩先を行っています。マサチューセッツ工科大学は、一定の生活を維持するために必要な時間給としての「リビングウェイジ」を独自に計算していますが、イケアはこの「リビングウェイジ」をアメリカのすべての店舗で約束しています。

写真:トーマス・コカーン教授

写真:トーマス・コーカン教授

労働者の権利を守るための新しく誕生した組織は、一般市民へ情報を提供する運動を展開しています。スターバックスのような企業では、一日にまとまった時間を働かせないようにして、健康保険や年金などの対象から除外するような管理をすることがあります。企業にとっては、人件費コストの削減となりますが、働く側からすれば、生活するための収入が不足することになります。こうした状況に対して、コワーカーズ・ドットオルグ(Coworkers.org)という組織は、ソーシャルメディアやそのほかのテクノロジーを活用したアプリケーションを駆使して、勤務スケジュールを事前の早い段階で確実に労働者に通知するように企業に促すといった取り組みを行っています。

全国各地の労働組合と労働組合ではないものの労働者の生活支援と権利擁護を行う組織、「ワーカー・センター」によるさまざまな取り組みも進行しています。それらは、「賃金泥棒(Wage Theft)」と総称される、最低賃金違反、チップや残業代未払いを防止するための運動や、職業訓練プログラムを実施しています。そこに、多くの女性、マイノリティ、移民を参加させることで、賃金が低く熟練度が高くない仕事から能力の向上にあわせて賃金が上昇する階段(キャリアラダー)へのせていこうとしています。これは、アメリカの「コモンセンス(常識)」としての経済戦略なのです。

長い混乱の後、いまや、いくつものアントレプレナー的な冒険的試みが全国で姿をあらわしています。そのなかには、ワーカーズ・ラボ(Workers' Lab)があります。アメリカでは、雇われずに仕事単位で契約して働く独立労働者(Independent Worker)の数が拡大しています。そのために、従来の労働組合のように企業と労働条件について合法的に交渉することができません。こうした労働者が企業と取引(Bargaining)をするための、新しい交渉力を生み出すことに力を注ぐ非営利組織(NPO)が立ち上がろうとしています。ワーカーズ・ラボは、そうしたNPOの設立を支援するインキュベーターなのです。利用者とタクシーの運転手をつなぐライドシェアのビジネスを展開するウーバーを例にとれば(国別労働トピック「雇われて働く安定を取り戻す動き」を参照)、運転手は賃金などの労働条件についてウーバーと交渉する権利をもっていません。雇われて働くのではなく、仕事単位で契約して働く請負労働のために、合法的な交渉手段がないのです。しかし、そうした状況でも、ニューヨークやシアトルの運転手は、ワーカーズ・ラボの支援を受けて、自らの報酬を決定する契約条件に対する交渉権を獲得するために、労働組合の組織化の運動を始めています。

こうしたことや、いままさに生み出されようとしている戦略のなかから、次世代型ハイテク草の根労働運動の息吹が生まれるかもしれません。

実業界は新しい『社会契約』のために何ができるのか

実業界のリーダーたちは、株主利益をすべてに優先させる時代に終止符を打つ必要があることを理解し始めています。それは、ウォール街で最も尊敬されている大物のひとり、JPモルガン・チェースCEO(最高経営責任者)、ジェームズ・ダイモンが今年の夏に表明した「良い長期的投資のために従業員の賃金を引き上げるつもりだ」との言葉にも表れています。

従業員の賃金を引き上げることが金融企業にとっての長期的投資であるならば、金融企業として顧客企業に助言する際に、同じロジックを用いるべきです。長期的な投資を重視することによって、雇用創出に必要不可欠な労働者の訓練と研究開発に対する投資を妨げてきた短期志向を終らせるよう、後押しできるでしょう。

アメリカでは、老朽化した道路や橋などのインフラの再建が必要になっています。この事業をすすめるために、基金を創設することで経済の発展とともに投資家にも利益をもたらすことができるでしょう。この基金の創設には、ウォール街が主導的な役割を果たすことができるでしょうし、労働組合も協力できるかもしれません。次期大統領トランプを始めとする多くのグループのリーダーたちは、国のインフラを再整備する必要性と価値を認識しています。だからこそ、超党派的な運動の力、官民のパートナーシップの力、そして実業界と労働組合の協力の力を示す絶好の機会となるのです。

企業のなかには、高い生産性に高い賃金で報いるという戦略を競争力の源としているところがあります。「社会契約」のなかで、企業が自らの責任を果たしているのです。こうした企業の戦略は、調査結果によれば、高利益とアメリカの労働者に質の高い仕事を持続的に生み出しています。

教育の役割

今日は知識集約型の経済が主流です。そのため、教育界のリーダーたちは、新たな「社会契約」をつくりあげ、持続させていく上で極めて重要な利害関係者の一人として扱われなければなりません。

教育界のリーダー、ならびに教育改革のための積極的な資金提供を行なっている社会貢献組織のリーダーたちには、教育的な目的を達成する上で良い教師ほど重要な存在はない、という確信があります。学習時間を拡大し、教師の養成を支援すると共に、急激に変化する社会の中で労働者が自らのスキルを向上させるためのオンライン講座を実施するといった試みが、マサチューセッツ、ニュージャージー、イリノイを始めとする多くの州の教職員労働組合と教育界のリーダーたちの協力によってすすめられています。こうした努力は全国に拡大されるべきです。

もしも、知識が力であるのなら、こういった革新が、職業人生のうえで必ずや経験する課題に対処するために必要なツールを、今日の、そして明日の労働者に提供することになるのです。

新しい「社会契約」の種

これまで紹介してきたのは、社会から取り残された人々に希望を取り戻す新たな「社会契約」へと育ていくためのいくつかの種です。

次に必要なことは、多様な利害関係者が一堂に会することです。そうして、どのような方法が効果的かを学び合うとともに、政策を実現させるために政策立案者をどのように動かすかということを学ぶことです。

私たちはまさに今、マサチューセッツ工科大学をこれまで紹介したようなイノベーションを起こそうとしているリーダーたちがともに集まることができる場所にしようとしています。そこで、経験を共有し、成功例や失敗、教訓を記録するための調査の実施を働きかけるとともに、より汎用的に拡散するための方法をあみだそうとしているのです。

私たちは日立財団(Hitachi Foundation)と共に「良い会社-良い仕事イニシアティブ(Good Companies-Good Jobs Initiative)」をスタートさせ、ミーティング、ワークショップ、オンライン講座などを通して、労使関係を改善させるとともに、職場の紛争解決に向けた支援をしています。私たちの目標は、そのような運動を拡大させることによって将来の革新的な活動のための触媒の役割を果たし、新たな「社会契約」がどのようなものになるのかを、指導者たちに示すことです。

実業界も労働界も教育界などの組織とその組織を構成する私たちはみな、何よりも、地域での現状改革運動、抗議運動、そして革新的な運動を促進する活動を鼓舞するように促し続けていくべきなのです。そして、そうすることこそが、やがてはワシントンの指導者たちに耳を傾けさせ、新たな「社会契約」の構築に向けた役割を果たさせるために必要なのだということを、歴史が教えてくれています。

*本文は、トーマス・コーカン教授の許可のもと、Creative Commonsによるウェブサイト「The Conversation」に掲載された記事「Election rage shows why America needs a new social contract to ensure the economy works for all 新しいウィンドウ」を和訳したものです。


コーカン教授の説く「社会契約(Social Contract)」は、アメリカの労使関係論(Industrial Relations)と深いかかわりがあります。より深く、「社会契約(Social Contract)」を理解する助けとしていただけるよう、解説をしています。

(解説 ―「社会契約」としての労使関係を読む)

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2016年12月 フォーカス:大統領選挙と新たな「社会契約」の必要性

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