ドイツの労働時間口座制度
- カテゴリー:雇用・失業問題
- フォーカス:2016年12月
ドイツでは、労働者が残業をした場合に、その残業時間を銀行口座のように貯めておき、後日休暇などで相殺する「労働時間口座」が、労働者全体の6割に普及している。労働協約や事業所協定によって、様々な運用がされているこの制度は、2008年の世界経済危機時の雇用維持にも大きな役割を果たした。現在は、ドイツ政府が進める「労働4.0(Arbeiten 4.0)」(国別労働トピック「労働4.0 ―関連議論が活発化」を参照)という未来の働き方を検討するプロジェクトにおいて、その活用が期待されている。
労働政策研究・研修機構(JILPT)は2016年12月7日に、ドイツ経済社会研究所(WSI)のハルトムート・ザイフェルト氏を講師に迎え、「ドイツの労働時間口座」と題する研究会を東京で開催した。 日独の労働問題に詳しく、労働時間口座に関する研究実績も多いザイフェルト氏が、導入経緯から、利用状況、今後の展望に至るまで、広範囲にわたり解説した。以下にその内容を紹介する。
ドイツ経済社会研究所(WSI)元所長 ハルトムート・ザイフェルト
1960年代のフレックス制がルーツ
写真:ハルトムート・ザイフェルト氏
ドイツでは1960年代に、通勤時の混雑緩和などを目的に、2カ月の調整期間(貯めた時間は2カ月以内に消化しなければならない)を設けたフレックス制度を用いる職場が出現した。これが今日の労働時間口座の原型となった。その後、1980年代半ばに、ドイツ金属産業労組(IGメタル)などの労働組合が主導して労働時間短縮を盛んに求めた。その過程で、1年の調整期間を設けた労働時間口座(短期労働時間口座)を導入する職場が増えた。1990年代には、それまでの実践をもとに、生涯にわたり労働時間を貯めることができる「長期労働時間口座」の概念がほぼ確立した。1998年には「Flexi I法(柔軟な労働時間規制の社会法上の保護のための法律)」が、2008年には「Flexi II法(柔軟な労働時間規制の保護のための基本条件の改善およびその他の法律の改正のための法律)」が制定され、長期労働時間口座の根拠法として重要な役割を担っている。
Flexi II法の概要
Flexi II法は、「価値積立(Wertguthaben)」という概念と密接に関わる。「価値積立」とは、社会保険料支払い分も念頭においた残業時間の合計や該当する支払い金額の合計額であり、企業が常に確実に保障しなければならない労働時間口座上の残高を指す。長期労働時間口座は、調整期間なく在職期間中にずっと貯められるため、考えられる様々なケースを想定している。例えば会社が倒産した場合の口座保護、労働者が在職中に死亡した場合の扱い、転職先に長期労働時間口座がない場合の取り扱いなど。また、口座に貯まった価値積立分(本来、労働者に支払うべき賃金は、長期間にわたり企業の手元に留まる)を使用者が運用する場合の株式比率の上限なども同法で定めている。
Flexi II法はその上で、当事者(労使)が合意(労働協約や事業所協定)に基づいて具体的かつ詳細なルールを規定することを求めている。例えば超過した労働時間を「時間」として貯めるのか、それとも「お金」として貯めるのか、残高時間を使用する際の事前告知の期限はいつまでか、貯蓄時間の上限や債務時間の下限はいくらか、といったことなどである。
全体の61%に普及
連邦労働社会省の下部機関の調査によると、2015年時点で、労働時間口座制度がある職場で働く者の割合は61%だった。特に口座保有割合が高い産業は、公務・行政(73%)、エネルギー供給業(73%)、製造加工(72%)、水道事業(68%)、金融(67%)などとなっていた。逆に割合が低かったのは、教育・学習支援(38%)、不動産・住宅業(44%)、サービス業(51%)などである。
長期労働時間口座を導入している企業の割合は、従業員500人以上の企業で13%、同250~499人規模の企業で9%、同50~249人規模の企業で5%となっていた。大企業の導入割合の方が大きいものの、全体的に長期労働時間口座を導入している企業は少ない(調査対象企業数4699社)。ただし、これは2011年の調査であり、現時点で調査した場合、さらに導入割合が増える可能性もある。
主権は労使どちらにあるのか
口座に積み立てた残高時間を従業員が自由に利用できるかどうかについては、公務、工業、手工業、サービス業、その他いずれの産業でも、6割前後が「個人的事由で自由に使える」と回答していた一方で、「使用権限は労使同等」という回答が2~3割、「業務上の事由のみ(使用者側が一方的に指示)」という回答も1~2割あった。
使用者の評価と雇用保障への貢献
労働時間口座に関して、使用者側は、「超過勤務コストの軽減」、「労働時間を受注状況に適合できる点」、「生産性の向上」、「企業への忠誠心の向上」、「企業のブランディング、イメージ向上」、「経済危機時の雇用保障」などに役立つと評価している。
「経済危機時の雇用保障」については、使用者側のみならず、労働者側も高く評価している。これは2008年から2009年にかけて起きた経済危機で、急速に景気が悪化した際に、労働時間口座と操業短縮手当制度(注1)を併用して、雇用を継続させたことを指す。両制度の活用で大量の失業者を出さずに危機を乗り切った点が評価され、当時は、EUやOECDなどから「ドイツの雇用の奇跡」と呼ばれた。
経済危機の時に労働時間口座がどのように活用されたかというと、例えばDAX(ドイツ株価指数)で知られるドイツ取引所の社員の労働時間口座は、調整のための自宅待機により一時マイナス300時間まで時間債務を抱えたが、景気回復後は速やかに労働時間が増加し、その後正常な値に戻った。これは、緊急時に労使が合意して時間債務の下限を大幅に引き下げたことで可能となった。
裁量によって変化する労働者の評価
他方、労働者の評価は、各人の持つ裁量によってかなり変わるようだ。労働者の大多数は、労働時間口座の管理裁量が労働者自身にある場合、「労働時間の自律性の向上」、「ワークライフバランスの向上」、「雇用保障」などの点を高く評価している。しかし、裁量が主に使用者側にある少数の労働者は、「他律的時間の増大」や「ワークライフバランスの低減」、「残業手当がない」、「短期労働時間口座の場合、短期間で時間残高が失効するリスク」などのデメリットを挙げて、あまり評価していない。
「労働4.0」における活用可能性
現在、労働社会省(BMAS)を中心に、「労働4.0」(第4次産業革命を見据えた未来の働き方と制度のあり方を検討するプロジェクト)が進行している。11月28日には関連の白書が発表され、その中で、労働時間口座の活用可能性についても検討されている。今後は、全ての就業者が生涯にわたり「口座」(注2)を保有することも検討されている。
高齢化社会に向けて高まる重要性
以上、ドイツの労働時間口座は1960年代からの伝統がある古い制度でありながら、現在も労使のニーズに応じて目まぐるしく変化している。また職場ごとの運用は多種多様だ。
日本もドイツも高齢化社会という共通点があり、育児や介護などの責任を負っても労働者が離職せずに最後まで無理なく就労継続できる制度設計が重要である。今後もその文脈において、労働時間口座制度は重要性を増していくだろう。
注
- 操業短縮手当制度(操短手当)とは、労働市場政策の助成措置の一つである。企業が経済的要因等から操業時間を短縮して従業員の雇用維持を図る場合、連邦雇用エージェンシー(BA)に申請すると「操業短縮」に伴う賃金減少分の一部(減少分の60%、扶養義務がある子供を有する場合は67%)が補填される。操短手当自体は1969年に創設されたものだが、2008年秋以降の世界的な経済危機に対応するため時限措置で期間延長や対象者拡大などの制度拡充が図られた。(本文へ)
- 「労働4.0」で提案されている「就業者口座(Erwerbstaetigenkonto)」を指すと思われる。現地報道(Focus 11.29.2016)によると、2017年1月からフランスで導入される「活動個人口座制度(CPD, Compte personnel d'activité)」がモデル。同口座(CPD)は、原則16歳以上の全労働者に付与され、職歴によって発生する様々な権利(例:職業訓練受講可能時間など)を生涯にわたりポータブルに保有できる制度のようである。(本文へ)
講師プロフィール
ハルトムート・ザイフェルト(Dr. Hartmut Seifert) ドイツ経済社会研究所(WSI)元所長
経済学博士。1974年より職業教育訓練研究機構(BIBB)研究員、1975年よりハンスベックラー財団ドイツ経済社会研究所(WSI)主任研究員を経て1995年から2009年まで同研究所の所長を務める。2010年に当機構の招聘研究員として1カ月半日本に滞在。主な研究業績として「非正規雇用とフレキシキュリティ」(2005)、「フレキシキュリティ-理論と実証的証拠との間に」(2008)など多数。
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