「より高い賃金、より低い税、より低い給付」へ
―政府、緊急予算を発表
政府は7月、保守党単独政権として19年ぶりの予算案(Summer Budget 2015)を公表した。財政赤字の削減を柱に、若者や低所得・低賃金層に対する社会保障給付の抑制・廃止などで、2019年度までに年170億ポンドの予算の削減が盛り込まれている。一方で、25歳以上層の最低賃金額に新たな加算制度を適用する「全国生活賃金」を導入し、賃金水準の引き上げをはかる。シンクタンクや労働組合などは、給付削減の影響は最賃引き上げで想定される所得増より大きく、低賃金世帯のさらなる所得低下は不可避と見ている。
低賃金層に対する社会保障給付の削減
緊急予算は、5月に誕生した保守党政権の中長期の政策方針を示すことを目的としたものだ(注1)。政府は、今後5年間で財政の黒字転換を達成するため、2019年度までに年間予算で370億ポンドの削減を目標に掲げており、今回の予算案ではそのうち税・社会保障給付などに係る170億ポンドに関する具体策が示された(注2)。うち、およそ50億ポンドは徴税強化や税制上の不均衡の是正(注3)などの施策によるものだが、残る120億ポンドは、社会保障給付予算の削減により賄われる。給付予算の削減については、既に昨年初めから方針として掲げられていたものの、具体的な内容はこれまで明らかにされていなかった(注4)。
予算案で示された主な削減策は、就労年齢層向けの各種給付に関する4年間の改定凍結、世帯あたり給付支給額の上限引き下げのほか(2019年度には、合わせて42億9000万ポンドの予算額の減)(注5)、低所得層を対象とした税額控除およびユニバーサル・クレジット(注6)における削減(同54億4500万ポンド減)などだ(図表1参照)。また、住宅給付に関する削減策の一環として、受給者の所得水準に応じた賃貸料の負担額引き上げ(同2億4500万ポンド減)のほか、2017年4月以降に新たにユニバーサル・クレジットを申請する若年失業者(18-21歳層)に対する住宅給付の適用を原則として廃止する(同3500万ポンド減)(注7)。
このほか、若者に関連する施策としては、18-21歳層のユニバーサル・クレジット受給者に対して、2017年4月以降、受給開始と同時に集中的な求職支援が行われるほか、6カ月超の受給者には、アプレンティスシップやトレイニーシップ、職業訓練、就労体験への参加が義務付けられる(youth obligation)。参加を怠った場合には制裁措置の対象となる。加えて、低所得世帯の若者を中心に、進学に際して支給されていた年3387ポンドまでの生活費補助(Student Maintenance Grant)制度が2015年度をもって廃止(新規受付の停止)となり、並行して実施されていた貸付制度に一本化される。
対象分野と主な削減内容(削減額) | 分野別削減額 |
---|---|
給付全般
|
4,290 |
税額控除、ユニバーサル・クレジット
|
5,455 |
住宅給付
|
1,855 |
雇用・生活補助手当
|
445 |
その他 | 35 |
計 | 12,070 |
出所:HM Treasuryウェブサイト
「全国生活賃金」による最低賃金の引き上げ
予算を発表した財務相は、今回の予算案を「働く人々のための予算」(budget for working people)と位置づけ、「低賃金、高課税、高給付」から「より高い賃金、より低い税、より低い給付」への転換を方針に掲げている。このため、税額控除を中心とする低賃金労働者向け給付の削減(注8)の一方で、賃金水準の改善に向けて財相が示した施策は、「全国生活賃金」の導入だ。現在の全国最低賃金制度における成人向け最低賃金額(21歳以上の労働者に適用)をベースに、25歳以上層を対象として一定の加算を行うもので、2016年4月の導入に際しては、同月時点の最低賃金額である時給6.70ポンドに50ペンスを加算した7.20ポンドを「全国生活賃金」として設定し、雇用主に支払いを義務付ける。なお、25歳未満の若年層については、職を得て経験を蓄積することが優先されるとの考え方から、現状の最低賃金制度のみが適用される(注9)。
政府の予測では、導入時点でおよそ170万人の労働者が賃金増の対象となり、例えば最低賃金で週35時間働く労働者の場合、年間1200ポンドの収入増につながる。また、導入当初の水準は平均賃金額の55%だが、2020年までにはこれを60%に引き上げるとの目標が掲げられている。政府に経済財政見通しを提供する予算責任局(OBR)は、この方針に基づき、2020年時点の全国生活賃金を9.35ポンドと試算、同水準への引き上げにより2020年までに直接・間接におよそ600万人の賃金増につながるほか、引き上げに伴い雇用減少が想定されるものの、その規模は6万人程度に留まると分析している。なお、政府の掲げる目標水準の達成に向けた「全国生活賃金」の改定案の検討は、最低賃金制度に関する諮問機関である低賃金委員会(Low Pay Commission)が担う。
最低賃金の引き上げに伴う雇用主の負担軽減策として、財相は現在実施されている「雇用手当」(社会保険料の還付)の還付額の上限を、2000ポンドから3000ポンドに引き上げるとしている(注10)。一方で個人向けにも、所得税の非課税限度額を2020年度までに1万2500ポンドに引き上げるとともに(現在は1万600ポンド)、これ以降も、最低賃金による週30時間労働分の賃金収入を非課税とする旨、法制化する意向を示している。加えて、子育てを理由とする就労困難者のユニバーサル・クレジット受給に際して、子供の年齢を3歳に引き下げる代わりに、両親が働く世帯に対して3~4歳児の託児費用を週30時間分補助する。
低賃金層への影響に懸念
給付削減の影響は、低賃金労働者や若者、一人親世帯など広範な層に及ぶとみられている。財政研究所(IFS)の推計によれば、税額控除とユニバーサル・クレジットの減額に関する所得制限により、300万世帯が平均で年1000ポンドの所得減に直面するほか、3人以上の子供に対する加算の廃止も、87万世帯(うち、就労世帯はおよそ55万世帯)に対して年3670ポンド(2013年度平均)前後の給付減に相当する。一方で、「全国生活賃金」は最低賃金労働者の賃金収入を高めるとみられるものの、対象となる労働者は低所得向け給付の受給世帯に属しているとは限らず(最低賃金労働者は、その配偶者がより高い賃金を得ている場合も多い)、給付削減による所得の減少を補完しているとは言い難いと指摘している(注11)。IFSは、今後の税・給付制度改革により、所得水準の低い階層ほどさらに所得低下が進むと推計、特に低賃金の就労世帯を多く含む層が、税額控除の削減による所得低下の影響を大きく被るとみている(注12)。
シンクタンクのResolution Foundationは、税額控除やユニバーサル・クレジットの減額が受給者の就労を通じた所得に及ぼす影響を分析、失業状態からの就労への移行や、労働時間の拡大へのインセンティブを低下させうるとの結果を報告している。「全国生活賃金」の導入で想定される賃金の増加は、これを多少は緩和するとみられるものの、世帯構成によってもその効果は異なり、またいずれにせよ適用が除外される25歳未満層には助けにならないと述べ、低賃金世帯にとっては就労を通じた貧困からの脱出がより困難になる、と結論付けている。関連して、複数のシンクタンクが、子供の居る世帯における所得低下を予測、貧困世帯に属する子供の増加が懸念されている(注13)。
また、国内で生活賃金運動を主導するLiving Wage Foundationは、そもそも「全国生活賃金」は最低賃金に対する加算制度であり、既存の生活賃金とは異なると指摘する。最低賃金は、雇用への影響に配慮しつつ最低限の賃金額を設定するもので、最低限の生活水準の維持に必要な賃金水準を、世帯構成などを勘案して算出する生活賃金とは、考え方が根本的に異なり、実際に設定される賃金水準にもこの違いは反映されている(従来の生活賃金は現在ロンドンで時間当たり9.15ポンド、ロンドン以外で7.85ポンド)。同団体は、最低賃金の実質的な引き上げ自体は歓迎するものの、生活賃金としての水準には達していないこと、また25歳未満層に対する適用除外の問題に加え、生活賃金は本来、給付の受給を前提に算定されているため、政府の掲げる税額控除の削減を前提とする場合、現状よりさらに高い水準に設定する必要がある(注14)、と指摘している。生活賃金運動にも参加しているナショナルセンターのイギリス労働組合会議(TUC)も、「全国生活賃金」の導入による賃金上昇の効果は、給付削減の影響を大きく下回るとみており、就労世帯の貧困の拡大を予測している。
一方で、「全国生活賃金」の導入に伴う賃金上昇の影響も、様々に懸念されている。Resolution Foundationの分析によれば、影響が最も大きいとみられる介護業では、70~100万人の介護労働者(全体の5~6割)の賃金増加が13億ポンドの経費増につながり、結果としてサービス提供にかかるコストの拡大や、質の低下、あるいは民間プロバイダにおける最賃違反の増加につながり得る、と指摘している。また現地メディアによれば、同様に賃金水準が低い小売業でも、小規模事業主を中心に影響が懸念されている。雇用主や業界団体は、賃金以外の手当の削減や労働時間の圧縮、従業員の削減、あるいは価格への転嫁などで対応せざるを得ないのではないかと見ているという。
アプレンティスシップ促進に向けた負担金制度の導入へ
政府は予算案と併せて、今後導入を予定または検討している諸施策についての方針も示している。その一つが、アプレンティスシップ(企業における見習い訓練制度)の促進策として、雇用主に対する負担金制度(levy)を導入するとの方針だ。2020年までに、アプレンティスシップを300万人に提供するとの公約の実現に向けて、大企業から負担金を徴収し、これを雇用主によるアプレンティス受け入れに対する補助の財源に充てることが計画されている。対象となる企業規模の範囲や徴収内容等については、今後の一般向け意見聴取の結果を受けて具体化される見込みだ。
また一方で、公共部門の毎年の賃上げ率を1%に抑制するとの方針も示されている。公共部門労組はこれに強く反発しており、歳出削減に関連して今後見込まれるさらなる人員削減などと併せて、労使紛争の激化が予想される。政府は、ストライキの実施に際しての組合員投票手続きを厳格化する、制度改正を進めているところだ(関連法案を7月に提出済み)。
注
- 今年度予算については、前連立政権下で3月に大枠が示されており、緊急予算案もほぼこの内容を踏襲している。(本文へ)
- 省庁別の事業予算による削減分となる200億ポンドについては、11月の歳出見直し(Spending Review)で公表が予定されている。(本文へ)
- 高額所得者の年金積み立てに対する非課税措置や、非居住者に対する免税の廃止など。(本文へ)
- ただし、過去5年間で210億ポンドにものぼる削減策を法制化(シンクタンクIFSによれば、実際の予算削減効果は167億ポンド分)しており、追加的な削減策は困難を伴うと見られていた。(本文へ)
- 法定出産手当や障害者向け手当などは、引き続き消費者物価指数により改定される。(本文へ)
- 税額控除は、低所得世帯に対する給付制度で、年齢等に応じた一定の週労働時間を条件とする就労税額控除と、子供の有無による児童税額控除がある。支給額は、就労税額控除の基本部分が最高で年1960ポンド、児童税額控除の家族加算、児童加算(一人当たり)でそれぞれ545ポンドと2780ポンドなどで、子供の数や(本人や子供の)障害の有無などで加算があるほか、所得水準に応じた減額がある。受給世帯は2013年度でおよそ450万世帯、うち7割近く(313万世帯)を就労世帯が占める。既存の他の低所得層向け給付制度(所得補助、求職者手当(所得調査制)、雇用・生活補助手当(所得関連)、住宅給付)と併せて、現在段階的に導入が進められているユニバーサル・クレジットへの統合が決まっている(2020年度までに既存制度の受給者の大半の移行が完了する予定)。(本文へ)
- 例外として、困難な状況を抱える若者や、親元で生活することが難しいと判断された場合は受給可能。また、既に親元を離れており、かつ申請に先立って6カ月以上就労していた者は、求職期間中に最長6カ月の受給が認められる。(本文へ)
- 税額控除に関しては従来から、低賃金労働者の所得の底上げを通じて、雇用主による賃金抑制を助長し、実質的な賃金助成となってきたとの批判があり、財相もそうした議論を今回の削減策の根拠に挙げている。(本文へ)
- 10月の改定により、21歳以上の最賃額は現行の6.50ポンドから6.70ポンド(3.1%増)に、また18-20歳層向けが5.30ポンド(17ペンス、3.3%増)、16-17歳層向けが3.87ポンド(8ペンス、2.2%増)、アプレンティス(企業における見習い訓練の参加者)向けが2.63ポンドから3.30ポンド(57ペンス、21%増)に、それぞれ引き上げられる予定。(本文へ)
- なお現地メディアは、悪質な雇用主による同制度の悪用(個々の従業員に即席の会社を設立させて、それぞれで還付を受ける)の横行を指摘していた。政府は対策として、個人事業主(雇用主が同時に唯一の従業員)は還付の適用外とする制度改正の実施を予定している(2016年4月から)。(本文へ)
- 給付削減の所得への影響は世帯の構成等によっても異なるが、OBRの推計によれば、税引き前の賃金増の総額は40億ポンドで、給付削減策による120億ポンドの減を大きく下回っている。(本文へ)
- IFSの推計によれば、今後5年間の世帯当たりの年間所得の減少効果は、平均で500ポンド弱だが、最も大きな影響が想定される第2十分位(所得階層順で下から11~20%)では年間約1300ポンド、第3十分位(同21~30%)でも1100ポンドの減となる(最貧層10%への影響は800ポンド)。以降、最上位層を除けば、所得階層が高いほど影響は低下するという。(本文へ)
- 例えば、経済社会研究所(NIESR)は家族構成や労働時間、賃金水準により、複数の世帯タイプへの影響を試算、所得が増加するとみられるのは、独身かつ週40時間働く世帯のみで、子供の居る一人親またはカップル世帯では労働時間を問わず(週30時間、40時間のいずれも)、また独身世帯でも週30時間労働の場合は、やはり所得が低下するとの結果を報告している。また、雇用年金省による影響評価も、世帯当たり給付支給額の上限引き下げの影響を受ける世帯では、2017年度に週63ポンドの所得減となり、貧困世帯に属する成人15万60000人と児童33万3000人に影響が及ぶと推計している。
なお前政権は、貧困世帯に属する児童の比率に関する複数の削減目標を法制化していたが、政権成立以降、比率はほぼ横ばいで推移しており(17%から19%へ)、目標達成は不可能と見られていた。これを受けて、政府は7月、目標を変更するとの意向を示したところだ。雇用年金相は、経済的な貧困に関する従来の指標は、児童の生活状況の改善の有無を捉えるには全く不十分であったと述べ、新たな指標は貧困の根本的な原因に着目、教育達成度や世帯の就労状況(非就労世帯か否か)を考慮するとしている。なお、平均所得未満の世帯に関する雇用年金省の統計(Households Below Average Income)によれば、貧困世帯(世帯当たり平均所得の6割未満)に属する児童の3分の2(64%)は就労世帯に属している。非就労世帯に属する貧困児童の減少の結果、この比率は15年あまり上昇が続いている。なお、同統計は就労世帯に属する貧困児童の実数を提供していないが、およそ150万人前後で推移しているとみられる。 (本文へ) - 生活賃金は税額控除や住宅給付などの受給を前提として算定されている。シンクタンクResolution Foundationの試算によれば、給付を受給しない場合の生活賃金額は、ロンドンで11.65ポンド(2.5ポンド増)となる。(本文へ)
参考資料
Gov.uk、Institute of Fiscal Studies
、Resolution Foundaiton
、National Institute of Economic and Social Research
、TUC
、BBC
、The Guardian
、The Independent
ほか各ウェブサイト
参考レート
1英ポンド(GBP)=194.96円(2015年8月6日現在 みずほ銀行ウェブサイト)
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