ユースフルな労働統計

労働政策研究所部長(情報統計担当) 久古谷 敏行

現在の経済・社会の構造とその変化は複雑になってきていて、その実態を把握するためには各種の統計資料を活用し分析することが欠かせません。幸いにして、我が国においては行政機関をはじめとした様々な組織で各種の統計調査が実施され、その有益な結果が広く一般に提供されています。

しかし、公表された統計数値だけでは、なかなか明らかにならないこともあり、また、敢えて誤解を恐れずに言えば、現状を誤って認識してしまうことさえあり得ます。

賃金について次のような単純な例で考えてみましょう。

我が国における賃金は、最近その傾向は弱まったとも言われていますが、年功序列的な要素がかなり強くあり、また、正規社員と非正規社員でも大きな賃金格差があります。2つの集団の賃金水準を、一般的によく使われている平均賃金で比較すると、実は労働者の年齢構成や労働者の種類別の構成を比較していることになる場合も生じます。

例えば、A社とB社を比較すると全社員の平均ではA社の賃金の方が高いが、実はA社の方が管理職の割合が高く、一般職同士、管理職同士で比較してみると逆にB社の方がいずれの平均賃金も高いということが起こり得ます。

このような場合、A社とB社、どちらの賃金が高いと言えるのでしょうか。

経営者にとって、労働者に対する賃金コストはA社の方が高いのでしょうが、労働者個人にとっては、貰える賃金はB社の方が高いと言えそうです。(これはあくまでも現時点での話で、将来の話としては、一般職が管理職になれるかどうかの可能性などを考えると、また別の答えも出てきそうですね。)

上の例では分かりやすく一般職も管理職もB社の方が高いとしたので話は単純でしたが、実際には、一般職と管理職の中でも色々な構造があり、賃金の高低差も様々な組み合わせが考えられます。そんな場合には、(ある意味、仮想的な)「標準的な労働者構成」というものを考えて、それぞれの会社の労働者構成が標準的な労働者構成であったとすれば平均賃金はいくらになるかと考えて比較する「ラスパイレス指数」を計算してみるということになります(実際には会社単位ではなく産業ごと、地域ごとなどで計算するのですが…)。

当機構においては、現在、今年度版の「ユースフル労働統計 労働統計加工指標集」の作成の最終作業を行っています。この本では先程紹介したラスパイレス賃金指数をはじめとした様々な加工指標を作成し公表しています。

このコラムの読者の中には、数字がずらりと並んでいるのを見るのでさえ嫌なのに、訳の分からない計算式や、Σ(シグマ)や行列なんて言語道断だ!!と思われる方も少なからずいらっしゃると思います。

そんな方は、最小自乗法で推計して t 値がドウシタ、決定係数がコウシタなどと書いてある本を見ると、『こんな本のどこが役に立つのだろう?』と思われるのではないのでしょうか。

残念ながら「ユースフル労働統計 労働統計加工指標集」はそんな記述で一杯の本なのです。

でも、ちょっとだけ我慢して読んでみてください。数値を加工することで、平均値などの公表値だけで比較しても分からなかった、経済・社会の『裏側』の事情がどんな風になっていたのかが少しだけ分かって頂けると思います。

ただ、今年度版からこのコラムの筆者の考えもあり、数学的に見て説明が甘いと思ったところには少し詳しい補注を付けることにしたので、微分記号、積分記号などが新たに顔を出しています。すみません。

最後に数学を少々かじった者としての今年の抱負を少し。

「微分のことは微分でせよ。」[1]の精神を保ちつつ、羊の色は見えている側の色だけ言える[2]ようになりたいと思っています。

[脚注]

  1. ^ ご存じ、高木貞治先生の名言
  2. ^ 数学者などに関する「羊のジョーク」参照。いくつかのバージョンがありますが、筆者が最初に聞いたのは『黒海の沿岸[3]天文学者[4]、物理学者、数学者が一緒に旅をしていて、一頭の金色[5]の羊を見つけた時に、天文学者は「この地方の羊はみんな金色だ」と言い、物理学者は「私は今一頭の金色の羊を見ている」と言い、数学者は「見ろよ。こちら側が金色の羊がいるぞ。」と言った』というものでした[6]
  3. ^ 「スコットランド地方」がオリジナルらしい
  4. ^ エンジニアというバージョンもあるらしい
  5. ^ 「黒色」がオリジナルらしい
  6. ^ 「ディラックの実話に基づくものだ」というネットの書き込みを見たことがあります

(2008年 1月 25日掲載)