フロイトの言葉から

 主任研究員  横田 裕子

精神分析学の創始者 S.フロイトの最も短い言説とされる言葉がある。ある人がフロイトにたずねた。「正常な人間がよくなすべきことは何だと思いますか。」フロイトはそっけなく答えた。「愛することと、働くことだ。」

この言葉には深い意味がある

簡潔な言葉だ。しかし、フロイトの理論の継承者である精神分析学者の E.H.エリクソンは、その意味を次のように解している。

「彼が愛することと働くことと言ったのは、人間が性器的な生き物であり、かつ人を愛する存在であるという権利もしくは能力を失うほどに一般的な仕事の生産性が個人を占有してはならないことを意味したのである。」( E.H.エリクソン著、仁科弥生訳『幼児期と社会Ⅰ』 1977 より引用)

「愛すること」とは性器的な愛の意味らしい(エリクソンは自分の発達理論における性器愛の意義を説明するために上の言葉を引用した)。筆者としては、「働くこと」がそれと並ぶような基本的機能とされたことがまず興味深い。加えてエリクソンの解釈は、わが国の長時間労働やワーク・ライフ・バランスの問題を連想させる。

仕事に占有される人々

フロイトは 1856 年に生まれ、生涯の過半をウィーンで暮らした。ウィーンは華やかな街のイメージがあるが 1870 年代から 10 余年の大不況が続き、 1890 年代にはスラムや貧民街に失業者があふれていたという。人員が削減され、働く人の負担が増える状況が当時もあったのか。

職業によっては、仕事内容が現在と大分違うだろう。例えば工場労働は、クリーンルームで精密装置を操作して IC チップを作るような仕事ではない。紡績であれ製鉄であれずっと人手がかかる工程と、長い労働時間だ。 1884 年にオーストリアで「労働時間短縮」が国会議決されたが、その内容は一日 10 時間労働だったという。

フロイトの言葉と「キャリア」

今日のわが国は労働法制の整備や職業・働き方の選択の自由度など、多くの点でフロイトの時代より恵まれているが、同時に様々な課題も抱えている。その中でよく使われる「キャリア」という言葉は、単に経歴、職業、仕事という以上の意味がある。中心的含意として次の点が指摘されている(木村周『キャリア・カウンセリング』 2003 より)。

(1) 何らかの意味で上昇的な要素を含む仕事(職業的)移動である。

(2) 個人の生涯にわたって継続するものである。

(3) その中心となるのは個人にふさわしい人間的成長や自己実現である。

キャリアを人の人生として捉えれば、フロイトのシンプルな言葉に通じる。しかし、ある人がどんな仕事に就けばキャリアにつながるのかという具体的な問題になると、多くの要素が関わってくる。その人の職業経歴、職業能力からその発展の方向性を考える必要があり、一方では能力を生かし、発展させられる職場がどれほどあるかも重要である。それは企業の採用方針や人事管理システムとも無関係ではない。有効なガイダンスを行うためには、多くの事例やデータの蓄積が必要と思われる。

( 2007年 10 月 12日掲載)


[本文に挙げた以外の参考文献]

R. アッピグナネッセイ他 著、加瀬 亮志訳  『 For beginners フロイト』  1980