ケインズ「雇用一般理論」70年に寄せて

主席統括研究員 浅尾 裕

「雇用一般理論」 70年の感慨

今年平成 18年/西暦 2006年は、ジョン・メイナード・ケインズ卿の「雇用、利子及び貨幣の一般理論」が刊行されて 70周年に当たる。また、卿が亡くなられてから 60年に当たる年でもある。この稿では、普通「一般理論」と略される卿の主著を「雇用一般理論」と敢えて呼びたい。一国の雇用水準が、したがって失業水準が決まる経済社会的メカニズムを明らかにしたものとして、労働政策を研究する者として忘れることのできない文献である。私がこの「雇用一般理論」に出会ったのは、大学 1年生のときであった。そのときも、そして今も理解できないところが少なくないが、その出会いを契機として労働や雇用の分析に関心を覚えるようになったことは間違いがない。「雇用一般理論」 70周年に当たり、私なりの感慨を綴ってみたい。

私の理解するケインズ雇用理論

ケインズ卿の経済学の立脚点は、「変えることのできない過去と何が起こるかわからない未来とにはさまれた現在」という認識であったと理解している。変えられない「過去」の結果として「いま」があり、それが経済社会における前提である。その前提の上に立って人々はある「所得」を想定して経済的な意思決定を行う。一方そのとき、これから起こる「未来」は何が起こるかわからない不確実性を持っている。経済社会を総じてみたとき、所得はすべて消費されてしまわずに一部が貯蓄されると考えてよい。その貯蓄は投資の財源になるが、貯蓄を決める人と投資を決める人とは同じではない。投資を決める人は消費の場合に比べて「未来」の不確実性からより強く影響を受けると考えられる。この場合貯蓄されようとする総貯蓄の大きさと総投資の大きさとが同じになるとは限らないが、結局総投資の大きさに総貯蓄の大きさが合うように所得の大きさが増減して調整されてしまう。こうして決定される総需要(総消費+総投資)が、当初の前提であった「所得」よりも少なければ、経済社会の供給力(生産力)がすべて使われない結果となり、失業が発生することとなる。これが、「雇用一般理論」の粗筋である。したがって、失業を減らすためには、投資に伴う不確実性を可能な限り低減させること(スピード償却や金融緩和など)により投資の水準を高めることが重要な政策となる。さらに、そうした政策をとっても生産力と総需要との需給ギャップが残る場合には、ギャップを埋めるため政策的な事業を行うことも必要である。超高失業期に書かれた「雇用一般理論」であるので誤解を与える記述もあることは事実であるが、論理的帰結としては、政府の事業は何でもよいというものではなく、需給ギャップを埋めるように内容も慎重に検討して行われるべきものである。これは当面の需給ギャップだけではなく、事業を通じて中長期的な需給ギャップを減少させることにも留意して行われるべきものでもあろう。

失業者対策への示唆

失業の水準は、労働市場だけで決まるのではなく、むしろ生産物市場によって基本的に決定される。労働市場の価格調整メカニズムはあまり効かないことが多い。なぜなら、失業がある場合に労働の価格すなわち賃金を引き下げ得たとしても、賃金の低下は生産物の価格の低下をもたらし、労働需要を増やすとは限らないからである。この背景には、賃金と物価とに密接な関係があるという経済社会のメカニズムがあるのである。したがって、労働市場については、価格(賃金)による需給調整メカニズムはあまり効かないのであって、ケインズ卿が具体的に指摘したわけではないが、能力開発等の価格調整以外の要素によって調整が図られる必要があるのである。「雇用一般理論」は現代の雇用政策の理論的支柱としても、その重要性を失ってはいない。

経済学者にだまされないために

最後に記しておきたい論点は、ケインズ卿は上記のような理論構築に当たりそれまでの経済理論を舌鋒鋭く批判するのであるが、その批判の要点は、それまでの経済理論がその理論の中に「非自発的な失業」を含んでいないにもかかわらず、失業を分析しようとしていたとする点に関連している。経済学者がいろいろな問題に発言することが多くなっているが、拠って立つ理論の中にその問題となっている事象を本質的に含んでいないことが多い。そうした場合、経済学者個人の趣味嗜好で発言していることが実は多いのではないだろうか。例えば、あくまで私の個人的見解であるが、個人の生産性の違いによらない所得格差とか、金銭的利得を求めない就業とか、障害者の雇用とか、等々の事象は現在の経済理論に明確には含まれていないのである。

私は今後とも、「自称ケインジアン」として、ケインズ卿の経済学を大切にしていきたいと考えていることを最後に申し添えたい。

( 2006年 12 月 14日掲載)