東京と「地方」とのコントラスト

研究所長 若木 文男

東京の景観・「地方」の光景

東京、この国の首都にして、政治、経済、文化の中心、次位以下の都市に大きく差をつける巨大都市。最近では商業用のみならず住宅用としても都内 23 区の複数の都心に林立する、スカイスクレイパー群。しかし、その高層ビルからさほど遠くない、あちこちに立ち並ぶ低層の戸建て、または、公共・民間のアパートの数々。この対比は、東京に生活する者には見慣れた、いまさら不思議と思うこともない景観であろう。

翻って、東京から遠く離れた、例えば中核的な都市を含む「地方」―東京の人たちは、東京以外の地域をこの様に呼ぶ傾向がある―における光景を思い描くと、そこには周辺に緑豊かな田園を配し、市街地といえども、中層ビルはあるが、多くはゆとりある空間に立つ事務所ビルや住宅が目に入る。

そこでの市民生活の一つ一つをみると、食生活については、近郊の農家で栽培される野菜、果物が店に並び、魚介類なども近海であがったものが食卓にのぼる。スーパーや小売店に並ぶ工業製品の品揃えこそ、不必要と思えるほど豊富な大都会にはひけを取るが、通信販売やネット販売を含む流通の発達のお蔭で、必要なものはまず手に入る。生鮮食料品等は、大消費地の都会に比べれば安価である。住生活はといえば、まず大都市圏に比べて土地は遥かに安いから広い敷地や庭を確保できる。上屋も、資材以外の建築費用が安い。土地と建物とに掛ける費用の大小関係が、大都市とは逆になりうるので、立派な家が多いということになる。週末を過ごす山川、海浜、温泉、ゴルフ場にも近く、そこまでのアクセスである道路についても、混雑度は一般道、高速道ともに、大都市圏、特に首都圏に比べると、遥かにスムーズな移動が可能である。

限られる「地方」での雇用機会

ところが、である。広い庭のある大きな家に住む住人の年齢は高く、「地方」における老齢人口の比率は高い。GW、お盆、年末年始に息子や娘の家族が帰省して戻ってくるときにだけ若壮年人口も増えるが、時季が過ぎると、こんどは静寂が戻ってくる。

この国では、少子化が言われるずっと以前、70 年代後半から子供の数は長期的に減っている。子供の数が2名程度ということは、長男、長女が子供の数の半数近くを占めることになるから、子供を手元に置きたがる「地方」の親は、地元近くに子供のための職場を探すが、その希望を叶えることは誰にでも出来ることではない。扶養されるべき老親と住む家はあるが、それを支える、満足で納得のいく仕事が容易には見付からないのである。

「地方」にも、老舗優良企業、地方公共団体、その他公共性の高い企業等、一般的に良好な雇用機会はあるにはある。しかし、その数は限られている。能力とか家業承継といった幸運に恵まれた人たちは、自然・生活環境の恵みも大いに享受できる。さほど良好とは言えなくとも我慢の出来る雇用機会に手が届く人もいよう。いずれにしろ、その際は、若い時期に有り勝ちな強い好奇心や大都会の持つ刺戟と誘惑とを断ち、その意思を持続させることが必要である。

政策担当者に求められる「地方」の視点

高度成長時代に国土の均衡ある発展、豊かな地域社会を目差して数次の開発計画が立てられ、着実に実行されてきた結果、相対的に、多くの人が多用し、やや貧弱な様相を見せている大都会の公共の施設・設備と比べて、「地方」には目を見張るような立派な社会資本の蓄積の結果がある。耐久性の高いストックたる固定資本は長い使用に耐えるだろう。しかし、それを享受する「地方」の人になり、それを続けて行くために必須の雇用、職場は、日々、年々生み出して行かなくてはならないフローの性格が強い。豊かなストックと限られた雇用機会の対比をどう考えればよいのか。

政治、経済、文化・教育といった社会における営為の発信元が中央に集中するように思われる今日、政策担当者には、巨大都市東京に身を置いているということを自覚して、かつて出奔してきた、あるいは、生まれながらの東京人であるため実感を持つことの出来ない「地方」についての視点を持つ複眼思考が求められる。

( 2006年 5月 24日掲載)