マレーシア公務員のボーナス事情

国際研究部 坂井 澄雄

情報収集と英語の勉強を兼ねて2日に1時間ほど外国の新聞を眺めている。多少の個人的思い入れがあってマレーシアの新聞を読むことが多い。週明けには金、土、日と3日分の新聞があり1時間で済まないことがある。10月の最初の週明けはとりわけ時間がかかった。9月の最終日に2006年政府予算案が国会に提案され、翌日の紙面がかなり増ページされていたからである。

エコノミック・リポート

予算案自体は、重要ではあるが、それほどおもしろいものではない。興味深いのは、予算案とタイミングを同じくして毎年公表される『エコノミック・リポート』(ER)である。新聞の紙面もこちらの解説により多くの紙面を割いている。ERは過去1年間の経済情勢を分析し、向こう1年間の経済を展望した文書で、実質的な経済白書といっていい。これを国会で発表するのは財務大臣の職務で、見方によっては予算案を提案する首相よりも注目を浴びる。もっとも現在はアブドラ・バダウィ首相が財務大臣を兼務しているが。

マレーシアで現在、最も重要視される経済官庁は、経済開発5カ年計画、毎年の経済開発政策を立案し、その実施状況、成果をモニタリングしている首相府のエコノミック・プランニング・ユニット(EPU)である。しかし、ERは財務省が所管する。本来ならばEPUが所管してもよさそうだが、EPUは比較的新しい官庁で、伝統と格式を持つ財務省がER発表の権限を手放さないのだろう。予算と税金を握る財務省はどこでも強い。

日本には『経済財政白書』と並んで『労働経済白書』があり、労働市場の状況は厚生労働省が所管して経済一般とは別個に分析している。マレーシアでは経済一般とともに、労働市場分析もERの中で行っている。だが、ER全体を財務省で書いているわけではない。「雇用、賃金、労使関係」の章は人的資源省(労働省)の担当官が執筆している。

複合多民族社会の所得格差

マレーシアは、アジアにおけるイギリス、オランダの植民地を広く研究した歴史学者ファーニバル(J.S.Furnivall, 1878-1960)が指摘したように、典型的な複合多民族社会である。マレー人、中国人、インド人が宗教、食物、言語、生活習慣、すなわち基層文化を異にし、居住地域を分け、職場以外の生活の場で互いに交わることの少ない人種別社会をマレーシア社会の中にそれぞれ築いている。都市化が進んでもこの基本的構造は変わらない。人種間の婚姻が極めて難しいことがその理由である。かつては職域も棲み分け、政府(公務員)はマレー人、民間企業は中国人、天然ゴムのプランテーション、鉄道、弁護士などはインド人の領域といわれた。しかし、この棲み分けが人種間の所得格差を構造的なものとしていた。とくにマレー人と中国人の所得格差は1対10ほどに開いていた。これを打破するために政府は「マレー人優先策」を導入、この政策の実施によって経済発展速度が鈍っても可とする姿勢で臨んでいる。この結果、経済の飛躍的発展もあって、マレー人と中国人の所得格差は統計的には縮小している。だが、新しい問題も発生した。所得を向上させたマレー人社会内部の所得格差が顕在化している。また、多くの有能なマレー人が、優先策もあって民間企業で成功している反面、公務員になる人材が手薄になっている。

マレー人社会内部の所得格差縮小のためボーナス支給

公務員の賃金は上級職と一般職に区分される。いずれも改定は5年に1度程度で不定期。日本のような民間賃金の変動に準拠して改定する制度はない。アブドラ・バダウィ首相は最近、公務員の待遇改善にしばしば言及している。今年7月に公務員に完全週休2日制を導入、来年度予算案には公務員の特別ボーナスが計上された。『エコノミック・リポート』は向こう1年間のマレーシア経済を石油価格高騰などを要因として経済成長は鈍化すると予測、このため来年度予算案は10%のエネルギー消費節約など歳出抑制策を打ち出している。こうした経済環境の中での公務員へのボーナス支給は注目に値する。

マレーシアではボーナスを制度化している民間企業は少ない。利益が大幅に計画を上回った場合にのみ文字通り「ボーナス=賞与」として支給されるケースがほとんどである。90年代半ばの景気が過熱した時期には「ボーナス、15カ月分」などの見出しが新聞を賑わせていた。利益の概念のない公務員には民間の論理は当てはまらない。ボーナス支給は政府の政策判断である。当然ながら、民間と公務員の所得の間に大きなギャップが生じていることが理由の1つに上げられている。同時に、首相の言葉を借りると、経済開発によって国民の生活を豊かにするという崇高な役割を担っている公務員に、優秀な人材を充てる必要があり、そのために処遇を見直すことは政府の重要な施策であるとの認識がある。

とはいえ、優秀な人材を確保するためにボーナス支給に踏み切ったと単純には考えられない。公務員の大多数はマレー人である。公務員の所得向上策は、即マレー人の所得向上策であり、民間企業で成功したマレー人との所得格差縮小を図る政策でもある。首相は予算演説の中でボーナス支給の理由を、子弟の教育費と来るべき祝祭シーズンのための費用を援助するため、と説明した。来るべき祝祭シーズンとは10月10日に始まったラマダン(イスラム教徒の断食月)に他ならない。マレー人は例外なくイスラム教徒である。予算案を報じた現地紙は公務員のボーナス支給の欄に笑顔を抑えきれない公務員の写真を何枚も載せている。いずれもマレー人である。