もてなしを売る

副主任研究員 堀 春彦

日曜日の夕暮れ時、スーパーに足を踏み入れると、夕食の食材を求める客で店内はごったがえしている。カートに商品を山のように詰め込んだ家族が行き交い、脇をすり抜けるのも一苦労だ。ガキガキガッキーは運動会よろしく店内を走り回っていて、気をつけないと体当たりされるのが落ちである。この様な時にである。正にこの様な戦争状態と化した店内で、スーパーの店員は補充商品を満載した大きなラックと共に繰り出して来て、徐ろに陳列棚の隙間を埋めて行く。しかもラックを通路の真ん中に置いているため、客は通路を通り過ぎることもできない。しかしながら店員は、自分が客の大きな障害になっているという自覚すらない。

違う通路に足を向けると、商品の陳列を終えた店員が二人空き箱になった段ボールの取り壊しを行っている。段ボールの取り壊しには力がいるのだろう。女性店員の一人は半ば四つん這いになって、段ボールを取り壊している。そんな状態なので、気を遣いながら、「でも、ここで段ボールの取り壊しを行わなくてもいいんじゃない」などと思いながら脇を通ろうとすると、天罰か踏ん張っていた女性店員の足が滑り、当方の右脚を直撃した。被害者なのにも関わらず、生来気の弱い中年オヤジは「どうもすみません」と謝っている。でも、キックを食らわした当の女性店員の口からは「すみません」の一言もない。

日本では、品物を売るという行為の根底には、これまでずっと客を気遣う気持ち(「もてなしの心」とでも呼ぶべきもの)が横たわっていたように思える。ただ単に品物を客に売るということだけではなく、品物を買った客に気持ちよく満足して帰ってもらうために、売る側は苦心をし工夫を凝らして来た。商店では、元気よく「まいど」、「いらっしゃいませ」などと客を迎え入れ、客に対してお世辞の一つも言うのが当たり前だった。品物の包装技術は世界に類を見ないほど素晴らしく、大量に品物を買ってもらった場合、客に勉強するのも当たり前だった。馴染の客なら「後で一緒に届けるから」と他店の品といっしょに宅配もしたりした。

上のスーパーの事例は、商店とはいっしょにはできないと言えばそうだろうし、店の教育訓練がなっていないと言ってしまえばそれまでの話だ。しかしながら、そうしたものを超えて、昨今売る側の客に対する気遣いが足りなくなってきているように思えてならない。品物を売る行為の裏にある「もてなしの心」を大事に思っているのは一人筆者だけだろうか。

(いろいろと文句をたれつつも、水曜日の冷凍食品半額セールが気になって仕方がないスーパー大好きジジイの独り言)

(2012年8月24日掲載)