「大きな社会」へ?

調査員  樋口英夫

イギリスでは、5月の総選挙で誕生した保守党と自由民主党の新連立政権による大規模な歳出削減の計画(海外労働情報11月の記事参照)が世間を賑わせている。目下の議論の中心は、景気や雇用への影響にもましてその内容の「公正さ」の如何にあるようだ。政府は、歳出削減による公共サービスや給付の削減の負担は富裕層ほど大きいとしているが、財政研究所(IFS)をはじめシンクタンクなどによる分析の結果は、この主張とは大きく食い違う。例えばイギリス労働組合会議は、公共サービスの歳出削減によって各家計が被る損失を所得階層別に試算(注)、低所得層ほど負担が大きくなるとしている。年間所得に対する比率では、最貧層が20.3%の損失を被るのに対して、最富裕層では1.5%にとどまる。これに給付制度の引き締めによる損失を加える場合、最富裕層における負担は若干高まるものの、やはり低所得層ほど損失が大きいとの結果は変わらないという。

ただしこの試算には、政府が今後推進を明言している公共サービス改革の影響は考慮されていない。保守党は総選挙前から、「大きな社会」というコンセプトを掲げており、その内容は、これまで「大きな政府」によって管理されてきた公共サービスの実施に係る権限を、地方自治体や地域コミュニティなどに委ねるということらしい。交付金に関するより大きな裁量権を自治体に与えるとともに、非営利組織や社会的企業などがサービスの担い手として期待されている。給付や公共サービスの予算は削減されるが、革新的・効率的な民間の手法なり、あるいはボランティアによる無料奉仕なりを通じて、より多くをより小さいコストで提供できる、というわけだ。低所得層はこうしたサービスから利益を受ける、従って予算の多寡だけで公正を論じてもらっては困る、と。

とはいえ、予算不足はやはり大きな懸念材料のように見える。政府は歳出削減の一環として、自治体に対する交付金の削減を決定しており(イングランド全体では4年間で26%減)、自治体側では対応策として、既存の施設やサービスなどの廃止を検討しているという。このため、これまで自治体からの委託を通じて公共サービスの一翼を担ってきた非営利組織等への予算は、むしろ削減される可能性が高い。政府は、資金調達が障壁とならないよう、休眠口座の資金を利用して社会的プロジェクトに融資を行う「ビッグ・ソサエティ・バンク」を設置するとしているが、初発段階に予定されている2億ポンドという規模は、公共サービスの予算削減には遠く及ばない。

また、地域における担い手の問題も指摘されている。公共サービスに対するニーズは低所得層の多い地域ほど大きく、かつこうした地域では公共部門の雇用の比率が高いため、今回の歳出削減による打撃を被りやすいが、一方でボランティアなどの活動は不活発だ(あるいはそんな余裕はない)という。調査会社Ipsos-MORIは、市民活動への参加は所得水準にほぼ比例しているとの調査結果を報告、本来こうした活動が必要な低所得地域で、人々が参加するきっかけをどのように作るかが課題だと指摘している。

参加を求められている当の国民は、「大きな社会」をどう見ているのか。同じくIpsos-MORIの調査によれば、回答者の半数以上が考え方を評価しているものの、その成功には懐疑的で、やはり政府の目的は歳出削減にあるとの見方が多数を占めている。政府は大きくなりすぎた、個々人が自分の生活により大きな責任を負うべきだ、といった回答が多数を占める一方、今後数年にわたり政府や公共サービスによる支援がのぞめなくなるのではないかとの不安を抱く人々も半数にのぼるなど、反応は複雑だ。

「大きな社会」が最終的にどこまで拡大する計画なのかは未だ判然としないが、現首相が数年来あたためてきた構想だというから、当分は国を挙げての社会実験が続くのだろう。せめて貧困層など立場の弱い人々が、この新しい試みによってさらに不利益を被らないよう祈るばかりだ。

[注]2012年度の歳出額ベースによる試算。政府の計画では、この時点で年間の公共サービス予算の340億ポンドが削減されているという。

[参考資料]HM TreasuryBBCGuardian.co.ukTUCIpsos-MORI 各ウェブサイトほか

(2010年11月12日掲載)