動き出した巨象
―21世紀におけるインド経済の展望

カテゴリー:雇用・失業問題

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  • 国別労働トピック:2006年3月

日産自動車は2009年をめどに、インド、中国などBRICsと呼ばれる有力新興国市場向けに、排気量1000CC級の低価格世界戦略車を開発すると発表した。総投資額は1千億円を超える見通し。日産は仏ルノーと生産や部品調達で連携する。急成長するBRICs市場はトヨタ自動車、スズキや韓国勢が先行しているが、日産・ルノー連合の追撃で世界競争は新興国を舞台に新たな局面に入る。(2月9日付日本経済新聞)

なぜ今インドか?

BRICsでの2004年の自動車生産台数は17%増の1017万台と、世界全体の16%を占める。BRICs4カ国の販売台数で日産はトヨタ自動車、ホンダ、スズキに差をつけられていた。特に、小型車から中型車まで幅広い需要のある中国、中型車中心のロシア市場に比べ小型車が中心のインド市場は、韓国勢、日本勢ではスズキが強い。日産の参入を始め、各メーカーが競ってここに世界戦略車を投入しようとする裏には、10億の人口を抱えるインドの中間富裕層が四輪に手が届く購買力を手に入れつつあるという読みがある。しかし、一方で公企業改革などの遅れを不安材料として指摘する向きもあり、その将来は簡単には測れない。はたして巨象は真の覚醒を果たすのか、あるいは虚像のままで終わるのか。最近のインド経済の発展について法政大学の絵所教授は次のように解説している。

順調な経済成長

1991年がインドにとって最悪の年だった。ラジーブ・ガンジー首相の暗殺に加えて、独立後最も深刻な経済危機に見舞われた。湾岸戦争の影響による輸入原油価格の急上昇、中東への海外労働者からの送金の減少等の影響を受け、外貨準備が一挙に底をついた。その後の総選挙で政権に就いた国民会議派のナラシマ・ラオ政権は、この政治経済危機を克服すべくIMF・世銀からの支援を得て経済自由化を柱とする新経済政策(NEP)の実施に踏み切った。90年代後半から政権は何度も交代したが、経済自由化路線はこれまで着実に進展しながら継続している。92年度から96年度にかけての実質GNP成長率を見ると、5.1%,5.9%,7.2%,7.5%,8.2%と着実な伸びを見せている。92年度から2003年度の年平均成長率も6.2%であり、これだけの経済成長率は、先進工業国は言うまでもなく、ラテン・アメリカやアフリカの途上国と比較しても、抜群の高さである。

消費を支える「新中間層」

部門別に見ると、NEPの実施後経済成長をもたらした主要因は、サービス業の顕著な伸びと工業部門の成長の回復であった。1900年以降GDPに占めるサービス業の比率の伸びは顕著であり、2003年度には50.9%となった。こうしたサービス部門及び工業部門の消費の伸びに貢献したのが、いわゆる「新中間層」の存在である。特に、デリー、ムンバイ、バンガロール、ハイデラバード、チェンナイ等の大都市では、「新中間層」の急増が目覚しく、生活スタイルも急速に変化しつつある。自宅アパート居住者の急増、家電製品の需要増に加えて、自家用車保有台数も着実に伸びている。

IT産業はニューエコノミーの旗手

そしてこうしたインドの消費ブーム及びサービス化の進展を支えているのが、インドの各主要都市で展開されているIT関連産業の著しい成長である。1990年代後半から、インドは世界有数のIT国家として急速に台頭してきた。その急成長は、インドの国際的なイメージを大きく変えている。インドのIT関連産業の急速な発展の中心となっている分野はソフトウエア産業である。2001年度のソフトウエア輸出額は85億ドルで、輸出総額の8%に達しており、GDPに占めるソフトウエア産業のシェアはほぼ2%と推計される。こうしたソフトウエア産業の目覚しい発展は、当然雇用にも好影響をもたらした。1999年3月時点の従業者は28万人であるが、2008年には220万人になると予測されている。インドには338の大学と48の技術学校があり、毎年11万5000人のエンジニアが卒業し、このうち7万人近くがソフトウエア業界に就職しているが、インド人ソフトウエア技術者の高い技術力と優れた英語能力は、欧米の市場でも人気が高い。

しかし、IT関連サービス業は製造業とは異なり、産業の裾野がそれほど広くない。英語を使いこなすインド人は人口の5%程度であることを考えると、階層間格差が著しいインド社会においては、ソフトウエア産業はエリートによるエリートのための「飛び地」でしかないと、絵所教授は指摘する。

巨象は目覚めるか

長期的に見て、インド経済発展の可能性を決定づけるのはやはり人口規模であろう。インドの人口は2005年5月に10億人を超えた。現在でも年間平均1.7%の人口増加率を継続しており、2045年頃には中国の人口を抜いて世界一位になり、ピーク時には15-17億人程度になると予測されている(Visaria 1992; Dyson2004)。今後も6%前後の成長率が見込まれると仮定し、さらに人口増加率を勘案すると、一人当たりGDPの増加率はおよそ4.5%程度が見込まれる。これは2020年までには一人当たりGDPが1000ドルを超えることを意味する。
しかし、IT分野での躍進などで過大評価されがちなインド経済であるが、現段階での実力はまだ500ドル程度の典型的な低所得途上国に過ぎない。現在でも3億人近くの絶対的貧困者を抱える世界最貧国であることを見過ごしてはいけない。現在のインドは、急激な経済発展に社会システムの変化が追いついていけないジレンマを抱えていると言える。

2005年7月25日、ホンダが全額出資するホンダ・モーターサイクル・アンド・スクーター・インディア(HMSI)の従業員約1000人によるデモと機動隊が衝突、多数の負傷者が出る騒ぎとなった。一時は紛争の拡大が懸念されたが、同社のあるハリナヤ州知事、マンモハンシン首相の仲介などにより争議はどうにか収束に向かった。しかし、この事件は急激な経済拡大を始めたプロセスの中の、社会の歪みを表している。食料品や交通運賃など物価が上昇を続けるなど経済成長とともにインフレは深刻化している。これに伴い、IT技術者と生産労働者の賃金格差はますます拡大。賃金の急激な上昇は、日本企業を含む多国籍企業に負担感を与えている。カースト制度に根ざす労働者階級間の労働条件の格差を解消することは難しい。給与を含めた男女間格差も大きく、女性は正規雇用比率が著しく低い。また私企業においては、失業、傷害保険も完備されていないなど福利厚生の面では先進国とはまだ大きな隔たりがある。労組を認めたくない経営側と労働者側のトラブルは、日系企業を含む多国籍企業を中心に頻発している。労働者のフラストレーションの向かう先が多国籍企業という図式が続く限り、こうしたトラブルは今後も増えるだろう。格差を是正する社会システムの整備は喫緊の課題だ。

インド経済が軟着陸できるかどうかの鍵は、こうした社会インフラの整備と、教育が握ると見られている。インドは現在でも依然として35%の非識字率を抱えた国である。教育データによると、2000年時点で小学校修了率は49%、基礎教育修了率(中学校卒業に相当)は、25%にとどまっている。インドの労働市場は教育水準によって階層化され、教育水準は所得水準と密接に相関関係を持っている。「購買力のある消費層」の拡大には、基礎教育修了層の拡大など教育レベルの向上が不可欠。巨象が真に覚醒できるかどうかは、すべての国民が開発過程に参加できる環境整備を整えられるか否かにかかっているといえよう。

本稿は、2006年2月8日、ホテル銀座ラフィナートで行われた日外協(社団法人日本在外企業協会)主催の講演会『日印グローバルパートナーシップとインド経済の展望』における、法政大学経済学部長絵所秀紀氏の講演『インド経済の展望』及び同講演会資料をもとにまとめたものである。

参考

  • 『インド経済の展望:巨象か?虚像か?』絵所秀紀(2006.2.8)
  • 日本経済新聞2006年2月9日付朝刊
  • 海外労働情報―『インドホンダ子会社の労使紛争-その背景にあるもの』(労働政策研究・研修機構2005年9月)

参考レート

  • 1米ドル=116.29円(※みずほ銀行リンク先を新しいウィンドウでひらくホームページ2006年2月28日現在)

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