SARS、中国社会、日系企業に衝撃を与える

※この記事は、旧・日本労働研究機構(JIL)が作成したものです。

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  • 国別労働トピック:2003年7月

中国を襲った、SARSは、中国の政治と社会、そして進出日系企業にも様々な影響を与えた。現地の日系企業は、その対応に追われている。SARS被害が長期化する場合には、対中経営戦略の大幅な見直しを迫られる可能性も出てきている。

1 日系進出企業の対応

北京市の日系進出企業は、政府発表とWHO発表が矛盾する中で、SARS対策に追われた。

当初の対応

日系進出企業は、2003年4月に入り、日本人従業員の家族を帰国させるよう指導し始めた。主な企業の対応を見てみると、松下電器グループは、日本人従業員の家族を帰国させ、中国国内の出張を禁じ、会議はテレビ電話会議方式を励行、各工場を定期的に消毒するとともに、労働者を専用バスで通勤させ、全ての来客者にマスク着用を依頼した。各社もおおむねこのような対策を講じた。中には、SARS対策を徹底しすぎて、返って風評被害に遭った企業もある。キャノンは、4月はじめに、高価な高性能マスク(N95)を全従業員に配布したが、結果的には、皮肉にも「感染者が出たらしい」という噂が広まる根拠になった。

日本経済新聞が、4月に上場、非上場企業243社から回答を得た調査結果によると、「業績への影響について」という問いに対する回答は、調査時点で5.3%がマイナスと回答し、長期化すれば62.2%がマイナスと答えている。特に、航空、旅行業界や流通業界が打撃を受けている。感染地域からの社員の帰国は、43.2%が認めているが、強制的に帰国させているのは、5.8%、帰国を認めていない企業が3.7%あった。(注1)

また、朝日新聞が、同じように4月に、主要企業100社を対象に実施したアンケート調査によると、46社が影響があると答え、イラク戦争で影響があると答えた42社より多く、しかも、予想された製造業以外にも広範囲な産業で影響があると答えている。

各社の対応を見てみると、バンダイ、コクヨは、中国工場の代替拠点の確保を検討し、ダイキン工業は、中国華南地方からの原材料の調達を日本国内に切り替えるとしている。JTBは、アジア向けツアーは前年同期比50%減少し、広東行きのツアーは中止した。大和證券SMBCは、テレビ会議で商談を実施した。三井住友火災海上保険は、プライベートを含め中国全域への渡航禁止措置をしいた。(注2)

松下電器産業の2工場停止

5月6日、米モトロ-ラ社は、北京市の中国本部に勤務する幹部1人がSARSに感染したため、5月11日まで事務所を閉鎖し、約1000人の社員を在宅勤務に切り替えた。これを契機に外資系企業は一段と厳しいSARS対策を敷いていた。

こうした中で、松下電器産業は、5月20日、北京のブラウン管製造子会社などの現地社員5人がSARSに感染したため、中国最大の工場である、北京松下ディスプレイデバイス(BMCC)と、隣接する松下照明(BMLC)の2工場を閉鎖した。BMCCは、鄧小平の要請を受け、1989年に操業を開始した松下電器産業では中国初の生産拠点で、1989年6月の天安門事件勃発時も操業を続け、社員数約5200人を擁する重要生産基地といわれる。この事例は、改めて、労働者のSARS感染防止の難しさを浮き彫りにした。(注3)

2 予想される今後の経済状況と対中投資への影響

SARS禍が長期化した場合、今後の経済にさまざまな影響が出ることが予想される。ただし、一部の分野には、プラスに働くことも予想されている。

1.経済成長にマイナスの影響

1.全体

2003年1-3月期国内総生産(GDP)は、前年同期比9.9%の伸び率で、1997年以降、最も高い伸び率である。これは、インフラ整備や国有企業の設備投資が前年同期比27.8伸びたことが大きく影響している。この大幅な伸びは政府系の事業を前倒し的に実施したことによる。一方、消費動向を示す社会消費品小売総額は、同期で9.2%の伸び率である。

アジア開発銀行(ADB)は、2003年4月28日、「2003年アジア開発展望」を発表し、この中でSARSの影響について、「不確定」要素としながらも、今後2年間の主要リスクの一つに挙げている。5月末までの短期的な影響にとどまる場合でも、アジア太平洋地域全体(日本、オーストラリア、ニュージーランドを除外)のGDPを0.2ポイント押し下げる影響をもたらすとしている。特に、中国などの東アジアでは、観光産業などに深刻な影響を及ぼすと予想した。更に、ADBは、5月9日に経済予想を追加し、SARSの影響が2003年第三、四半期まで長期化すれば、GDP成長率を、東アジア(日本、北朝鮮を除外)で4.7%、東南アジアで2.5%に鈍化させ、予想被害額は、284億ドルに達するとの見通しを発表した。これによると、中国のGDP成長率は、7%に鈍化する見込みである。

表 アジア主要国・地域のSARSの経済成長への影響予測(ADB報告書より引用)
2003年4月の発表予測 SARSが第2四半期まで影響を与えた場合 SARSが第3四半期まで影響を与えた場合
中国 7.3 7.3 (23) 7.0 (58)
香港 2.0 0.8 (30) -1.4 (66)
韓国 4.0 3.8 (13) 3.5 (30)
台湾 3.7 2.8 (25) 1.8 (53)
インドネシア 3.4 3.2 (7) 2.3 (20)
マレーシア 4.3 3.8 (5) 2.9 (13)
フィリピン 4.0 3.7 (2) 3.2 (6)
シンガポール 2.3 1.9 (10) 0.7 (20)
タイ 5.0 4.3 (8) 3.4 (18)

数字は、実数GDP伸び率の予測値、単位は%。( )内は、成長率低下による予想被害額、単位は億米ドル

国際労働機関(ILO)は、5月、SARSが旅行・観光業を中心に世界の雇用環境に深刻な影響を与えるとの推計を公表した。この公表内容によると、広東省では、旅行・観光関連産業の労働者の30%に当たる99万7000人が失業すると予想している。ただし、この推計は、中国の場合、広東省以外は、算入していない。(注4)

日本貿易振興会(ジェトロ)は、5月8日から14日にかけて、アジア地域進出企業3071事業所(2015事業所が回答)に対しアンケート調査を実施した。その結果によると、調査時点で、生産・販売が減少した企業が25.7%に達し、2から3カ月影響が続いた場合には、45%の企業が生産・販売の減少を予想した。

また、中国の政府系研究機関、国家情報センターが4月末にまとめた報告では、SARSにより2003年のGDPが1.5ポイント程度押し下げられ、年成長率は7.5%になるとの予想を発表した。

2.経済成長にプラスの影響

SARS問題が、経済にプラスに働き始め、雇用が増加している分野も出ている。

  1. 乗用車

    富裕層が、満員のバス、地下鉄による通勤を避け、自家用車を購入する動きが出始めている。国家統計局によると、4月の全国乗用車生産台数は、前年同月比83.6%増加の16万6900台に達した。北京市では、1日の新車販売台数が1000台を超えた日も数日あった。

    このような事情を反映し、ダイムラークライスラー社は、合弁事業により高級セダン「メルセデス・ベンツ」を年間2万台生産するよう広東省の合弁政府と調整に入った。トヨタ自動車も2005年春から予定通り天津市の合弁工場で、高級セダン「クラウン」の生産を開始する予定である。中国市場で現在最大手のフォルクスワーゲン社も長春市と上海市の合弁工場でフル生産をし、年間60万台超の販売目標を立てている。

    このため、自動車産業では、今年度も雇用労働者は増加すると見ている。

  2. 加工食品

    レストランでマスクをしながら食事をしながら商談するわけにも行かず、外食を控えているビジネスマンが多い。また、北京市衛生局は、外食好きの市民に対し、個人が大皿からそれぞれのはしで料理を小皿に運ぶのが如何に危険か繰り返し警告を発している。

    このため、事務所で昼食を取り、自宅で夕食を取る人が急増しており、弁当やピザの配達、レトルト食品やカップ麺などの販売が急伸し、こうした分野での雇用が増加している。

  3. PHS電話

    在宅勤務や出張を延期する企業が増加し、電話、電子メールの使用が増加している。そうした中で、PHS電話サービスが各地で急速に発展している。

    広州市では市内全域で4月29日から、北京市の市中心部で5月17日から、上海市では工業団地や新興住宅地の集まる一部の地区でも同日から、それぞれPHS電話が使用できるようになった。料金は、携帯電話の約半分である。加入者は、携帯電話の約1割に当たる1600万件程度と予想されている。現時点では、端末や基地局の多くは、日本の三洋電機や日立製作所が提供している。各社は、労働者の健康管理に細心の注意を払い、工場閉鎖などの事態に陥らないよう対策を立てている。(注5)

  4. 生命保険

    市民は、SARSで入院した場合、設備によって相違するが1日当たり、1万円以上の入院費が必要になる場合もある。これは、一般労働者にとっては、重い負担である。所属する単位が、財務内容が良ければ、保障してくれる場合もあるが、赤字企業の場合自己負担に追い込まれる可能性が高い。政府が運営している医療保険制度が、どの程度まで保障すべきかについては、検討中である。

    このような中で、これまで、主に医療保険制度が受けられない単位や地域の労働者、あるいは自営業者が加入を検討していた商業医療保険、生命保険への加入を、一般労働者が、検討し始めている。日本の損保業界では、東京海上、三井住友海上が上海市ですでに営業を開始している。各社は、日本式の保険営業方式を基礎に、中国人の営業マン研修を実施し、主要都市に営業職員網を構築するよう事業展開するのではないかと予想されている。

3.カギを握る上海市への影響

2003年1月から3月期の海外からの対中直接投資額は、実行ベースで前年同期比56.7%増の130億8600万ドルと大幅に増加した。

だが、今後、SARSの影響により、経済活動が制約されると予想される。また、進出企業からは、政府の発表内容や公表資料への信頼性が低下し、企業の事業展開が停滞するという予想もでている。

地域的には、上海市での感染者の動向が、今後のカギを握ると見られている。上海市は、日本人長期滞在者が最も多く2002年10月1日現在で、約1万6000人が在住する。上海市政府は、北京市や広東省と比べて感染者の少ないことを理由に安全を強調しているが、WHOのヘイマン感染症対策部長は、4月下旬、政府発表の感染者数に懐疑的発言をした。

上海市政府側の発表では、1988年、30万人の患者を出したA型肝炎への処置経験が生かされているとのことである。(注6)

4.中国政府の対応上の問題点と今後の日系企業の対策

2003年6月2日までにおける、中国政府のSARS対策の問題点と日系企業の今後の対策における重点を挙げてみる。

中国政府の対応上の問題点

SARSの被害が拡大した中で、中国政府の対応に批難が向けられている。主なものを挙げると以下のようなものがある。

  1. 広東省政府が、進出外資系企業に与える影響、海外からの投資悪影響を考慮し、伝染病に対する初期の情報公開を怠ったと見られている。
  2. 胡錦涛主席、温家宝首相による新政権発足に際して、同政権初の全国人民代表大会を平穏に乗り切ろうとの政治的配慮から、首都北京市でのSARSの実態隠しを行ったと見られている。(注7)
  3. 多くの市民に影響を与えうる伝染病の拡散予防であっても、国務院衛生省には、政治力の関係から軍の医療機関を査察する権利が全くなかった。
  4. 衛生省は、医療機関に対して、SARSなどの治療方法の確定されていない新しい伝染病に対する制度的、設備的対処法を準備していなかった。

    尚、2003年月日現在における中国のSARS禍の被害状況は次の表の通りである。

表 2003年6月24日日現在のSARSによる感染者数と死亡者(注8)
感染者 退院患者 死亡者 死亡率
5326人 4901人 347人 6.5%

5.今後の日系企業の対策

今後日系企業は、中国進出におけるリスク管理として、中国国内における生産拠点の分散化がテーマとなりつつある。各社、グローバリゼーションに対応するため生産コストの安い中国の一地方、に生産を集中させる経営方針を採用してきた。しかし、SARS禍により、リスク管理にも注意を払う必要性を再認識し始めた。

マブチモーターやキヤノンは、中国での事業展開において、一極集中を避け、分散型の生産をしてきた。マブチモーターは、1996年2月、主力生産拠点だったマレーシアの工場が火災に見舞われた。この時の経験から、中国での生産基地は、北部の遼寧省大連市、中部の江蘇省呉江市、南部の広東省東莞市に分散させた。分散させることのより、各地方政府との交渉、労働者の研修などにコストはかかるが、広い中国の北部、中部、南部の3地域で同時に不慮の災害に遭う可能性は少ない。キヤノンも大連市と広東省珠海市などに大規模生産拠点を分散し、それぞれの地方の事情に適した労務管理を敷いている。

SARSは、改革開放政策の先行地域の広東省、全国展開の要所である上海市に生産を集中させていた日系企業に対し、生産基地の中国国内の分散化、あるいはアジア諸国への配置を検討させる機会を与えている。

また、危機管理の新たな情報源としては、5月1日から放送開始された、24時間のニュース放送、「CCTV新聞(注9)」が、非常に重要なカギになると見られている。中国の近現代史を見ても、活字に残したものは、後世に批判を浴びる証拠を提供するリスクが残る。反面、テレビの場合は、証拠が残りにくいし、また、コメントなしの映像だけの部分も放送できる。このため、「CCTV新聞」が、真実が政治のベールで覆い隠されている伝統的な政治風土に、一石投じるのではないかと期待されている。

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