近年の多発する労使紛争
インドネシアでは2000年から労働争議が活発化している(表1参照)。その要因として、2000年8月に施行された新労働法が最も大きな影響をもたらしたと考えられている。今回は、最近の労働争議の動きとその要因をまとめた。
労働組合の歴史とスハルト政権の崩壊
インドネシアでは、政権政党が支持者形成のために労働組合を組織したという歴史が組合の交渉力の弱さを示している。スハルト政権時の1973年、政府は労働組合の管理がしやすいように、産業別組合の連合体としてインドネシア労働組合連盟(FBSI)を発足させ、次いでスドモ労相時代(1985年)には産業別組合の連合体という構成を改め、単なる統一組織へと変化させ、名称も全インドネシア労働組合(SPSI)に変更された。(後に国際的に批判を浴び、1990年SPSIを全インドネシア労働者組合連盟(FSPSI)へと変革)。スハルトの権力が衰えを見せ始めた頃、パクパハン氏によって1997年にインドネシア福祉労働組合(SBSI)が正式に結成され(1992年7月に設立されたが当局に認可されず)、一部FSPSIの独占を崩すこととなったが、 労働者の組織化への動きが本格化するのは、1998年5月のスハルト政権の終焉後、先進国の強い圧力の下、結社の自由及び団結権の保護に関するILO 第87号条約を批准してからのことである。
新労働組合法
その後2000年7月、国民議会は新労働組合法案を可決し、官製労働組合である全インドネシア労働組合連合(FSPSI)以外に各種労働団体の設立が認められた。公務員も公務員連盟(Korpri)以外での労働団体に属することが可能になった。これにより、組合結成は最低10人から可能になり、組合の結成手続きも労働力省に届け出ることだけが義務付けられた。(実際には、1997年に労働組織の複数化を認める「労働問題に関する1997年法令第25号」が成立していたが、のちにハビビ大統領の指示により2000年10月に施行延期となっていた。)
その結果、組合数は爆発的に増加し、2000年8月までに、全国レベルで24(2001年3月末までに38)、企業レベルでは1万以上の組合が存在するという「乱立」状態に陥った。その結果、1企業に複数の組合が存在するようになり、使用者側がどの労組と団体交渉をし、労働協約を結ぶかで混乱を招くことになった。
経済危機による経済・社会的な苦境
その他にも要因がある。労働者の生活が一向に改善しないという不満である。2001年1月1日付で地方別最低賃金が改定されたが、それでもなお、生活必需品(KHM)の水準を満たしていない地域が多い。また、国家家族計画局(BKKBN)が2000年2月から4月にかけて行った統計調査によると、「貧困世帯」とみなされる世帯は、1999年の690万人から770万人へ増加し、全4730万世帯のうち、約16%が貧困状態で、2000年に生まれた新生児の約3割、100万人が栄養失調であることも明らかになっている。それにもかかわらず、十分な社会保障制度は未だに整備されていない。
労働運動の暴力化 ―使用者側の危機感
以上のような要因から、2000年の、特に8月以降、労働紛争が活発化してきたことは前述した通りである。本誌で取り上げた記事だけでも、日系企業では、2000年4月に起きたソニーのストライキ(解決までに約5カ月、損失額推定2億米ドル)や、同年のアイワでのストライキ、2001年3月のトヨタの下請け工場PTカデナ社(解決までに約2カ月、製造損失台数1500台事件にも発展)など。また、2000年6月の石炭発掘会社KPCのスト(解決まで約2カ月、損失額推定30万米ドル)、2000年末のシャングリラホテル(解決までに約5カ月、損失額180万米ドル)、バリのホテル組合などがある。その他にも労働争議は各地で多発しており、2000年の労働争議数は1999年の倍以上だったと推定されている。
これらの一連の労働争議は、繊維、靴、電化製品といった分野で多く、工場の海外移転問題にまで発展している。インドネシア経営者協会(Apindo)のソフヤン会長は2000年5月のコメントで、ジャカルタと西ジャワにある少なくとも20の外資系製造業者が、労働者のデモによって操業が妨害されており、今後政治的な安定性が望めないと見越した場合には、インドネシアから撤退もありうると述べている。また、暴力的なストライキが多発し、法的な安定性が欠如しているために、相当数の外国資本家(シンガポール、香港、日本、韓国など)がインドネシアへの投資を見送っていることを指摘した。彼は、タンゲランで起きた工場放火事件や、国会前での暴力的な労働ストライキ、東ジャワのスラバヤで起きたビジネスマンへの暴力などの最近の労働運動の例を挙げ、政府が労使関係の改善や労働者の安全についての法律の強化に失敗している点を指摘した。また、ほとんどの従業員が、労働争議を行う際に法的な手続きに従って行わなければならないことを知らない現実に言及し、現状の改善を訴えた。
2000年~2001年のインドネシアでの労働争議数
労働争議の件数 | 参加した労働者数 | |||
---|---|---|---|---|
2000年 | 2001年 | 2000年 | 2001年 | |
1月 | 8 | 23 | 4,259 | 10,853 |
2月 | 30 | 17 | 6,045 | 8,260 |
3月 | 14 | 22 | 5,685 | 12,432 |
4月 | 11 | 24 | 5,297 | 15,818 |
5月 | 31 | 6,345 | ||
6月 | 20 | 8,640 | ||
7月 | 22 | 8,717 | ||
8月 | 37 | 12,793 | ||
9月 | 26 | 15,769 | ||
10月 | 24 | 15,009 | ||
11月 | 28 | 19,268 | ||
12月 | na | na | ||
合計 | 251 | 86 | 107,863 | 47,363 |
注:2001年4月までのデータ。
出典:労働省報告「労働争議の動向」2001年12月号
インドネシアウングォッチ2001年2月第1週号、5月第2週号
不安定な為替の動き
為替相場も不安定になっている。ルピアの対米ドル為替相場は、1997年の通貨危機以前は1米ドル=約2500ルピアであったが、98年以降1万ルピア台に下落。スハルト大統領の退陣及び暴動の際には1万5000ルピアまで下がった。その後、ハビビ政権、ワヒド政権と続き、7000~8000ルピアまで回復、安定化してきた。しかし、2000年末より政治情勢が再び不安定になり、労働紛争が多発したことも影響してか、ルピアはじりじりと下落し始め、2001年4月下旬には1万2000ルピアの水準にまで達した。2001年5月末現在、1万1000ルピア前後を推移しているが、ワヒド政権の存続に揺れる現状で為替がさらに不安定になる可能性は多いにあるだろう。
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