大宇自動車、会社更生法適用を申請

※この記事は、旧・日本労働研究機構(JIL)が作成したものです。

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大宇自動車は11月8日に最終不渡りを出し、10月には仁川地裁に会社更生法適用の申請を提出した。これで、経営不良企業ビッグスリーの1つといわれた東亜建設が会社更生法の適用で整理されたのに続いて、大企業の安全神話(大馬不死:大手企業グループの場合経済や社会に与える影響が大きすぎるため、経営不良の状態に陥っても、政府や銀行が助け船を出して救済せざるをえなくなるという慣例に基づいたもの)に支えられていた大宇自動車までもが同じ運命をたどることになった。これは、政府と債権銀行団が企業構造調整方針において市場原理に基づいた原則を貫き、これ以上政治的配慮による特例措置は認められないという強硬な姿勢を明確に示したことを意味する。

大宇自動車は、1999年8月26日にワークアウトの適用で事実上債権銀行の管理下に入り、フォードとの独占的売却交渉でフォードへの売却がほぼ決まりかけていた。その矢先に(2000年9月)、フォードが突然同買収計画を白紙に戻すことにしたため、大宇自動車の外国メーカーへの売却案は振出しに戻ってしまい、大宇自動車は、売上の急減で毎月1000億ウオンの赤字を出すなど経営状況が急速に悪化した。

その後フォードに代わって、GMが大宇自動車の買収に関心を示したこともあって、債権銀行側は、GMとの売却交渉を少しでも有利に進めるためという思惑からか、新規融資の条件として、大宇自動車の経営再建案に労組の同意書を添付するよう強く求めるようになった。特に11月6日に一次不渡りを出してから、11月8日12時に最終不渡りを出すまで、債権銀行側は、6回ほど不渡り処理を猶予しながら大宇自動車に対して労組同意書添付の経営再建案の提出を執拗に迫った。そのため、いつのまにか「労組の同意書が同社の最終不渡りを決定づける直接の原因」という構図となり、労組にその責任を負わせる格好となった。このような構図は、労組側の政府および債権銀行側に対する不信や反発を増幅させるだけで、結局、双方は不信をつのらせ、最終不渡り、そして会社更生法の適用という最悪のシナリオとなった。

債権銀行側の言い分は次のようである。つまり、1999年8月26日に大宇自動車にワークアウトが適用されて以来、合計2兆2000億ウオンの資金を投入したにもかかわらず、経営状態が改善されるどころか、フォードが手を引いてからは毎月1000億ウオン以上の赤字を出している。そういう状況で、同社の経営再建、さらには GMへの売却に欠かせない条件として期待していた労組の同意書が得られなかったため、企業価値の急落や9864社に上る協力会社(1次504社、2・3次9360社で約60万人雇用)の連鎖倒産などの悪影響を覚悟のうえ、同社に対する金融支援を打ち切らざるをえなかったということである。

それに対して労組側は、「労組の同意書は経営再建案に盛り込まれている3500人の整理解雇案に同意することになるので提出できない」という立場を貫いた。労組委員長は、「経営側が事業構造調整を先に実施するのが最も重要で、労組の同意書は、それに続く副次的なものである」と述べている。もともと同労組側は、政府と債権銀行団の責任をも明確にするために、労使協議会ではなく、4者協議会での話し合いを先決条件として強く求めていた。また、主な争点である人員削減案をめぐっては、前執行部が8月に会社側と5年間の雇用安定協約を結んでおり、同意書の提出は「それを覆す格好になる」という事情もあったようである。そのため人員削減方法をめぐって同社の労使は、早期退職や配置替えなどを望んだのに対して、債権銀行側は、それにかかる原資の支援を拒み、整理解雇を求めていたといわれる。

  • 11月27日に同社労使が新たな構造調整案に合意したのを受けて、仁川地裁は11月30日に同社に対する会社更生法の適用を決定した。

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