労働者が自主的に織物工場を再稼動

※この記事は、旧・日本労働研究機構(JIL)が作成したものです。

インドの記事一覧

  • 国別労働トピック:2000年1月

ムンバイ市で労働者が織物工場を接収した。この工場は数カ月前に閉鎖されており、1600人の労働者が解雇されていた。40歳代後半で過去28年間その工場の機械化された織機で働いてきた労働者は、「今日から我々が所有者であり労働者である」と語った。

損失を出し経営が危ぶまれていたこのラグバンシー織物工場は、10年以上前に閉鎖され、アメダバ織物研究協会の支援の下で、労働者によって経営困難な企業として産業と金融再生委員会(BIFR)に付託された。しかし、BIFR が労働者の提案に判断を下す前に、工場の所有者のサッカー氏は、労働者が実際に工場を接収するのを防ぐため反対の提案をした。

所有者の提案の下、ムンバイの中心地にある工場は、評価額の高い建物や土地の営利的な利用を通じて復興するようになった。所有者の計画は1993年10月裁可され、復興計画の下、850人の労働者を雇用し、4万2648の紡錘を作動させるようになっていた。新しい機械と追加の4400の紡錘は1996年3月31日まで設置された。また、復興計画の資金を調達するために BIFR は、工場の所有者に、他の営業目的で8万3799平方フィートの建物を建設することを許可した。加えて、再興計画を実行を促進するために無利子の借入金を認めた。

しかし、計画は実行されなかったと労働組合活動家メノンは述べた。工場は再開されたが1万9278の紡錘だけが稼動され、全部で1600人の労働者の内たった500人が雇用された。一方、工場の敷地内での建設工事はフル回転していた。

メノンは、建設工事はムンバイで適用されている開発統制規則を明らかに違反していると主張し、BIFR は所有者に土地を手放すことを許可したため、これにより土地が売却されたと非難した。また、メノンは、その過程で、工場の所有者は使途不明金のかなりの額を蓄財したと主張した。

労働者は、独自に工場を運営するという考えを以前から持っていたが、1999年6月所有者がもはや工場を経営する興味を持たないことを発表したとき、彼らは工場を運営することを決定した。賃金は完全に止められたが、水と電力が所有者が未払いであるにもかかわらず供給されていた。

所有者は明らかに、工場を全債務と共に労働者に引き渡すことをいとわないでいるが、財産は別である。メノンは、「その提案はおかしなものである。労働者が完全に負債を引き継げば、彼らは全ての財産を与えられるべきである」と語った。

一方、いくつかの労働組合と多数の支持グループは労働者の求めに応じている。メノンは、人々は、食料から金銭まで出来る限りの援助を提供していると述べた。

こうした方法には先例がある。労働者は、共同運営により約10年前カマニチューブという会社を引き継ぎ、鋼管市場の激烈な競争にもかかわらず今日でも経営されている。カマニの経験は西部のインド労働組合の動向に新しい時代を切り開いた。しかし、この方式はその後のいくつかの試行にもかかわらず続かなかった。ラグバンシー織物工場の労働者は、困難な仕事に着手した。労働組合の活動家シェティーは、「労働者が得たのは骨組みだけで、中身を入れなければならない、労働者は事業の制度的援助が必須で、商業ベースで生産を始めるために産業的労働者階級に完全に戻る必要がある」と述べた。

2000年1月 インドの記事一覧

関連情報