イラク戦争と中東の出稼ぎ労働者の雇用環境

※この記事は、旧・日本労働研究機構(JIL)が作成したものです。

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  • 国別労働トピック:2003年6月

イラク戦争は、中東諸国全体で約150万人いるフィリピン人出稼ぎ労働者と本国の政府及び家族に様々な影響を与えた。

1 政府の対応

フィリピン政府は、中東対策チームを直ちに設立し、トップにフィリピン軍出身のロイ・シマツ氏を当てた。このチームは、イラクの国境から約100キロメートル離れたクェートの南部地域に、約1000人収容できる避難センターを設置し、その後、サウジアラビアとの国境付近に第2の避難センターを増設した。

労働雇用省(DOLE)によると、2003年3月24日現在で、384名の出稼ぎ労働者がこれらの避難センターに収容された。

フィリピン軍は、C-130輸送機をいつでも海外出稼ぎ労働者の避難に向かえるよう準備した。

海外労働者福祉庁(OWWA)は、海外出稼ぎ労働者の家族に、無料の国際電話サービスを開始した。OWWAは、この事業を「2003年の緊急事業」とし、各地方出張所で24時間無料通話サービスを実施した。マスメディアは、国内の家族が、このサービスを利用して海外で働く出稼ぎ労働者に電話をかける様子を連日感動的に伝えた。フィリピン長距離電話会社の説明によると、利用者の70%はクェートに電話をした。ただし、電子メイルや携帯電話の普及により、利用者は、1991年の湾岸戦争時よりは少ない。

2 フィリピン中央銀行の対応

2003年2月18日、フィリピン中央銀行(BSP)は、海外出稼ぎ労働者が、緊急帰国を余儀なくされた場合には、通常は交換に応じていない、イラクディナール、クェートディナール、イスラエルシュケル、トルコリラの交換に応じると発表した。また、中東各国の中央銀行に対し、海外出稼ぎ労働者が緊急に本国送金する場合、各国の銀行業界が特別な計らいをしてくれるよう要請した。

2003年3月3日、BSPは、こうした中東諸国の通貨との交換資金として、75億ペソを準備したことを明らかにした。また、銀行業界に対し、(1)緊急帰国した海外出稼ぎ労働者やその家族に対する貸し付け金に対し、BSPからの貸し出し金利を割り引く、(2)海外出稼ぎ労働者への貸し付け金額は、月収の3倍を目安に実施するようにと通知したことを発表した。

BSPは、こうした対策を湾岸戦争や米国の起きた同時多発テロ発生時に取っている。

尚、BSPが、海外出稼ぎ労働者やその家族に対しこのような特別な計らいを実施するのには次のような理由がある。全世界に在住している、約600万人から700万人の海外出稼ぎ労働者からの本国送金は、年間70億ドル以上に達し、これが、為替市場でのペソ安を抑止する効果を上げている。このため、BSPは、海外出稼ぎ労働者の保護政策を無視できないのが実情である。

3 受入国側の対応

今回の戦争で、特に出稼ぎ労働者に対する緊急保護政策をしいたのは、サウジアラビアである。サウジアラビア政府は、戦争勃発後直ちに、フィリピン政府に対し、クェートで就労している約6万人の出稼ぎ労働者の避難行動を支援することを表明した。

サウジアラビア政府の移民局は、2003年3月24日、フィリピンのサウデ駐クェート大使に対し、クェートから避難する出稼ぎ労働者のために、サウジアラビア駐クェート大使館のビザ発給業務を週末も休まず実施すると通知した。しかし、バハナリム・グイノムラ駐サウジアラビア大使は、サウジアラビア政府に対し、特別な計らいに謝意を表明しながらも大部分の出稼ぎ労働者は、クェートを出国する意思の無いことを伝えた。

4 労働者の対応

イラク戦争勃発後、イラクで就労していた出稼ぎ労働者は、帰国または近隣諸国に避難した。クェートで就労していた一部の出稼ぎ労働者は、サウジアラビアに移動したが、多くは、そのまま就労し続けた。イスラエルの出稼ぎ労働者は、平常どおり就労し続けた。

多くの海外出稼ぎ労働者は、あわてて帰国し、その後出稼ぎに行く機会を得られなくなるのではないかと危惧していた。

5 現地の大使館と派遣会社の対応

中東の大使館関係者や派遣会社は、開戦当初から、戦後の復興景気で、建設労働者に大量の求人があると見込みアロヨ大統領に早急に準備するよう進言している。

特に、クェートの大使館関係者は、一方で、万一の場合に備え避難所を準備しながらも、他方で、本国政府に対し、イラクの破壊された石油精錬関連施設や住宅の再建事業で、少なくとも、5万人から10万人の求人があり、更に、クェートの空港の免税店や石油精錬会社の日常業務にもかなりの求人が見込まれると報告している。

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