開催報告:第8回国際フォーラム
市場個人主義の時代
―ロナルド・ドーア(ロンドン大学名誉フェロー)講演―
(2005年4月28日)

開会あいさつ

薦田

独立行政法人労働政策研究・研修機構の労働政策研究所の副所長をしております薦田でございます。主催者を代表してごあいさつを申し上げます。

あしたから大型連休という、その前日に、このようにたくさんの方にお集まりいただきました。私どもは、年に何回も労働政策フォーラム、あるいは国際フォーラムをやらせていただいておりますが、こんなに大勢お集まりいただくのはそうございません。今回は、ドーア先生の名声、そして、コメンテーターをお願いしております稲上先生、お二人の魅力の威力をもってこんなに多くの方々においでいただいたものと、厚く御礼を申し上げます。

既にご承知の方もあろうかと思いますが、ドーア先生のお人柄を表すようなお話を少しご紹介して、あいさつにかえたいと思います。

ドーア先生は、1925年、日本の元号で申しますと大正14年の丑年に、イギリス南部のボーンマスという町にお生まれになりました。稲上先生は、書かれたご本の中で、ドーア先生ご自身の次のような言葉を紹介しておられます。「私の父親は、8歳のころから肉屋で働き、しばらくして南鉄道会社の鉄道員となった。機関車の掃除夫から始め、罐焚きを経て、最後は急行列車の運転士をして、退職した。息子の私は、大英帝国の恩恵をこれっぽっちも受けて育っていない。だから、大英帝国を懐かしむ階層の人たちとは思想的に全く無縁である。」ということを語っておられます。稲上先生は、ドーア先生の偽善をも見抜くユーモアのセンスはここからきたのだと書いておいででございます。

ドーア先生と日本との出会いですけれども、ご自身の言葉では、17歳のときに軍隊の通訳に応募したところ、自分の希望に反して日本語のコースに回されたということだそうです。この点につきましても、稲上先生は、ドーアさんご自身の希望を退けて日本語コースに回した試験官は、まことに偉かった、先見の明があった、全く戦争のおかげであったという評価をしておられます。

若き青年ドーアさんが、政府の給費留学生として我が国に来られたのが1950年(昭和25年)、25歳のときであったということです。ちなみに、当時お住まいになったのは上野だったそうです。以来、日本とのご縁が非常に深く、私たち日本人が、高度成長やバブルで浮かれて有頂天になっているときには厳しい叱責を、そして、しょぼんと落ち込んでいるときには力強い激励をしていただいてきたことは、皆様ご承知のとおりでございます。

ドーア先生の社会研究、日本研究における壮大な業績につきまして、稲上先生は、生命力あふれる大きな森というふうに表現しておられます。本日は、そうした「ドーアの森」とでも言うべき先生の研究成果から、「市場個人主義の時代」をテーマにご講演をいただきます。

皆様の中には、早くもお読みになった方がおいでかもしれませんが、つい3日前に中公新書から、『働くということ』という著作を出版されました。本日は、私たち自身以上に、日本人、日本社会について造詣の深いドーア先生にご講演をいただき、それに続いて稲上先生のコメントをいただく予定となっております。ご静聴をお願いいたしたいと思います。

それでは、ドーア先生、よろしくお願いいたします。

講演「市場個人主義の時代」
(ロナルド・ドーア・ロンドン大学名誉フェロー)

ドーア

温かいご紹介をいただいて、ありがとうございます。2005年になって、何で大正生まれの人間の話を聞く価値があるかと皆さん思うでしょうから、なるべく1時間を超えないようにいたします。

ちょうど35年ぐらいになりますが、労働協会がまだ芝大門のそばにあったときに、いろいろお世話になって、あそこの図書館で松村さんの指導を受けて勉強した、非常に懐かしい思いがありますので、こちらに招待されて、おしゃべりできる機会を持ったことを非常に喜んでおりますし、光栄に思っています。

労働の「意義」の二つの次元

働くことの意義について、私がこういうことを一生で初めて反省する機会を得たのは、「New Forms and Meanings of Work in an Increasingly Globalized World」という題を仰せつかって、ILOの講演をしたときです。考えてみますと、仕事の意味、働くことの意味は、2つの次元で分けて考えることが重要、有益ではないかと思います。

1つは、主観的、個人的な次元です。稼ぐためでなければ誰もしようと思わないようなつまらない仕事、金もうけのための苦痛でしかない、例えば日本でいう3Kの仕事というのが一方にあって、また、いろんな満足を与えてくれるような仕事もたくさんあります。むしろそちらのほうがだんだん増えていると言えるでしょう。例えば問題を解決する知的満足、あるいは画家や作曲家がものを創造すること。あるいは、遺憾なことですが、このごろますます増えている、大変金ももうかるんだけれども、非常にギャンブルの本能に訴える仕事。今の金融業は、為替の売買とかデリバティブの売買ばかりして、毎日賭けをして、非常にギャンブル、競馬に行くと同じような楽しみができるような仕事になっています。

それから、職場における社交の楽しみ、あるいは団結の楽しみといいますか、1つの目標を持っている集団、企業あるいは組合が、集団に向かってみんなで一緒にやっていこうと呼びかけるコンパニオンシップの喜びはいろいろあります。それは人間普遍のものか、あるいは時代によって、社会によって、労働の構成が変わるものかといえば、特に社会維新から得る楽しみ、満足は、時代によってかなり違うと思います。

私が最初に日本に来た1950年ごろ、東大の教育学部の先生だったと思いますけれども、その先生の話を聞いて、非常に印象に残った話がありました。自分が若いときに、いつも人力車で大学に来ていたけれども、車引きを自分より下劣な人だとは思わなかった。車引きも、自分は世界一の車引きになるというような仕事のプライドを持っていた日本が、今はなくなっていると嘆いていました。まさになくなっているだろうと思います。

それは個人的な次元で、もう1つの次元は、社会にとってどれだけ役に立つことをしているかということです。封建時代の身分社会においては、身分に応じて働くということは最大のことでした。寺子屋の手習い本、往来物には、よく書き出しのところに4つの絵があったんです。士、農、工、商。まず侍の絵で、侍は国を防衛して、国、庶民を統治する、国を知ろしめす役割を持っている。農民は、みんなの食糧をつくる。職工が、食糧以外のいろんなものをつくる。そして商人は、生産地から消費地まで物を持って運ぶ非常に有用な役割をしますけれども、時には買い占めをしたり、ずるもするものだから、気をつけろというふうになる。社会的役割が非常に重要視されました。

ところが、明治になって四民平等の世界になったんだけれども、非常に国家主義的な四民平等だった。みんな身分に縛られず出世できる。

先週、台湾の台北公立図書館に入りましたけれども、心理学の書庫が50ぐらいあったんです。そのうち13台が出世の心理学、人生の成功。いかにも明治時代のようなところがまだ残っていると思いました。

ところが、出世する目標は何だったかというと、身分がないといっても、やっぱり官尊民卑の時代であったんです。だから、みんな官僚になるか軍人になるかというのが出世の目的でした。

しかし、明治、大正になって漸次的に、個人の尊厳という思想、市民権の思想がだんだん出てきたんです。東北の1898年のストでは、労働者が何を要求したのかといえば、賃金ばかりではなくて、人間の尊厳が問題であったんです。つまり、間違いをすれば駅長の前にひざまずいて謝らなければならないというような。文章が面白いんですけれども、青二才の中学卒の横柄な事務員が、我々を下劣な者としか扱わないということに対するプロテストが非常に重要になってきました。戦争まで、そういう傾向が続いていたんです。軍国主義時代でも、例えば部落民も一流市民として扱わなければならないというのは、日本軍も推進した平等化の1つの形態であったと思います。

終戦後、民主主義の時代になって、また変わってきました。私は、最初来たときに、公僕ということをよく聞きました。公僕というのは英語のシビルサーバントの直訳なんですけれども、もちろん「僕」といえば非常に軽べつした意味が入っています。それは、官尊民卑を逆転しようという動きの表れの一つだったと思います。最近は、特にこの界隈では、公僕という言葉をあまり聞かないと思いますけれども。

教育制度の使命論の二つの要素

しかし、とにかく教育制度の使命、役割は何であるかということは、戦後の民主主義で再定義されたと思います。つまり、非常に大ざっぱな話ですけれども、2つの原理です。教育制度は国家に奉仕するため、東京大学をつくるための制定法(帝国大学令)は1885年に、国家に有用な学究活動を推進すると規定しました。一方は国家に奉仕するための原理、他方は、国民一人一人が能力を達成し、自己達成ができるような教育をするという個人的な点です。

1885年が東京大学制定法、1926年は大正時代になって、より平等思想、新教育思想が出てきました。その次の1950年には、戦後の個人主義の原理が進み、2000年になると、中曽根臨教審以来のもう少し国家に奉仕するための教育制度が重要視されてきました。国際経済における競争に勝ち抜くために、優秀な人間の能力を発揮することが最も重要であるという思想は、中曽根臨教審以来の傾向ではないかと思います。

仕事の社会的価値

自由民主主義時代になって、仕事の社会的価値をどういう基準で測るか、どういう基準で評価するかということについて、新古典派経済学者が非常に強い影響を与えていると思います。ある人たちは、明示的に、仕事の価値の問題と民主主義との問題、政治における民主主義、そして経済における消費者至上主義、消費者主権主義は類似性がある。なぜかというと、民主主義は1人1票。非常に利口な人であろうが、全くばかな人であろうが、とにかく1票しかない。また、市場においては1人1財布。100万ドルが入っている財布であろうが、空っぽの財布であろうが、とにかく1人1人が平等な立場に立っている。

ものの価値が何であるかというと、市場でどれだけのお金で売れるか。人の仕事の価値は何であるかというと、労働を直接売るか、あるいは製品として労働の成果を売る場合の価格によって、その価値が決定される。英語でよく言いますけれども、「Economists are people who know the price of everything but the value of nothing」。プライスとバリューは別なものであるという一般人の常識によることわざですが、学者に言わせれば、それは当たり前。同じものであるという考え方がますます浸透してきて、一般市民の何が公平であるかの常識に影響を与えてきているのではないかと思います。

それはいいことであるか悪いことであるかといえば、人の立場によって違うと思います。労働市場において売り手市場に直面している、例えばソフトウエアのエンジニアとか、非常に高度な技術を売っている人にとっては非常にいいことで、就職難の心配をする必要は全くない。ところが、スーパーで働いているおばさんとかオフィスの掃除をやっているような人、買い手市場に直面している人にとっては、自分の仕事の価値が市場における価格と同一視されることは、必ずしも喜ばしいことではないと思います。

原理未徹底の(幸いな)現実

その原理がどれだけ貫徹しているか、どれだけ徹底しているかということは、社会によってかなりの違いがあると思います。例えば日本と米国を比べてみると、1つの大きな違いは、金融業の仕事と、製造業やサービス業の仕事、日本語でよく片仮名で書きます、「カネづくり」と「モノづくり」の対比。そして、バブルのときにしょっちゅう、工学部の非常に優秀な学生が銀行に行ったり、証券会社に流れていっていることがいかに悲しいことであるかという記事を見かけましたけれども、その仕事の価値の基準は、アメリカよりもずっと日本のほうに残っているのではないかと思います。

金融業について、最近面白い数字を発見しました。アメリカの国民所得の統計を見ると、法人全体の利益総額の部門別の構成で、金融業の企業がとっている割合が随分上がってきています。1947年に8%だったのが、70年には20%。2001年から03年までの間の平均は40%とすごい上がり方で、それほどアメリカ人の働きの成果、業績を吸い上げているのが金融業であり、1つのメルクマールではないかと思います。

日本では、最近非常に面白いことに、バブル以来の90年代の傾向を少し逆行させようという意図なのかどうか知りませんけれども、最近しきりに、ものづくりという言葉を聞くようになりました。去年日経が、月刊『ものづくり』という新しい雑誌をつくったし、隣の経済産業省が『ものづくり白書』を出すようになりました。そして、総理大臣まで動員されて、いかにものづくりが大切であるかを広報しています。これは2、3カ月前の外務省の英語雑誌「The Resurgence of Japanese Manufacturing」なんですけれども、後ろにいる人の心配そうな顔。

市場個人主義への傾斜と並行するもう1つの傾向

仕事の価値イコール価格という一連の思想を、私は市場個人主義と言ってもいいんじゃないかと思います。市場個人主義への傾斜と並行したもう1つの傾向は、労働強化、労働の長時間化ということではないかと思います。なぜ今、生活、労働のバランスが問題になっているかというと、生活における労働の位置が拡大していく傾向にあるからではないかと思います。

1929年にちょうど大不況が始まったときのケインズの講演ですが、彼の全集に、我々の孫の時代の経済的可能性、『Economic Possibilities for Our Grandchildren』という論文があります。その中で、今は不況だけれども、とにかく技術の進歩が続いている。そして将来も加速的に続くでしょう。生産性がうんと上がって、70年先、2000年頃になると、我々はみんな週に5時間しか働いていないだろうという、見事に外れた予言をしました。

しかし、それでも70年の間、まあ50年間はそういう傾向にあったわけです。あるイギリスの経済学者の分析ですけれども、1880年から100年の間に、生産性の向上の成果をどういうふうにイギリス人が消化したのかというと、余暇で消化した分と、消費水準を上げることで消化した部分との割合は、大体1対2でした。日本で、実質賃金の傾向と労働時間の傾向を調査してみると、1975年からの20年間に、余暇で消化した分が4分の1、消費水準を上げることで4分の3ということでした。

しかし、労働時間の短縮は、1980年代までは先進工業社会において普遍的な現象だったんです。その後逆転が始まります。逆転の年は、イギリスやアメリカでは1982年、イタリアは85年、ノルウェー、スウェーデンは88年。ドイツは、96年まで労働時間が減少しましたが、それ以後は増えていて、日本の経団連に当たるドイツの経営者団体が、35時間の習慣を38時間にするような政治的運動をやっています。

日本でも、1990年の終わり、ドイツと同じ時期だったと思います。労働力調査で見ると、週60時間以上働いている人が、1995年の15%から2002年には21%に上がっている。NHKの生活時間調査では、技能職、作業職の人の毎日働く時間が、90年代半ばの7時間45分から、2002年までに8時間13分に上がっています。

競争と市場個人主義への志向

この2つの傾向について、仕事の価値を市場個人主義的に考えると、そして競争について考えると、供給面及び需要面の両方の説明がつくと思います。供給面では、なぜ余計働くかというと、消費の欲望が無限にある。ある時代にはぜいたく品と思われていたものが、そのうちに必需品となって、それを持てば1人前の人間と見なされる。3Cの時代とか、いろいろ日本にはサイクルがありましたが、まさにそうなんです。

しかし、消費の意欲の中で、2種類の消費を区別しなければならないと思います。イギリスの優れた経済学者だったフレッド・ハーシュが、『Social Limits to Growth』の中で非常に強調していることです。消費財の中には、例えばいいワインを飲むなど、消費する経験を楽しめるものがあります。もう一つは、自分の消費する価値が、ほかの人たちがどれだけ同じものを消費しているかによるもの。つまり、自分が軽井沢に別荘を持っていることの価値は、みんなが別荘を持つようになればなくなるんです。自分が一番高価なシャンペンを飲むこと、ほかの人たちはここまで手が届かないだろうという楽しみは、ほかの人たちもそのシャンペンを飲めばなくなるから、より良いものを求めます。また、教育においても、みんなが学士になったら、労働市場において優位性を保とうと思えば修士にならなければなりません。みんなが修士になったら、自分は博士にならなければ比較的優位になりません。

消費の中で、単純消費財よりも、そういうポジショナルグッズのほうがますます増えているから、加速的に消費意欲が増えていく。そして、所得の分布などにもよります。アメリカの経済学者は、所得分布のばらつきと平均労働時間の相関関係を見ました。所得分配が不平等であればあるほど長時間労働をしているという結果が、かなりはっきり表れています。まず供給の面、つまり、みんなが自発的に余計働くようになっている。

ジュリエット・ショーというアメリカの社会学者が、『Overworked American』、働き過ぎのアメリカ人という面白い本を書きましたけれども、彼女は、アメリカで1週間の労働時間が長くなっているのには2つの要因があるとしています。まず、単純労働の賃金が低下して、夫婦共稼ぎで長時間労働をしなければ1人前の生活ができないということが1つ。もう1つは、経営層、あるいは職業人などの層、つまり楽しめるような仕事を持っている人々の間では、競争が激しくなって、より一生懸命に働かなければ浮かび上がれない世の中になっているということを強調しています。

しかし、それは結局、供給面、つまり自発的に長い時間働くこと以外に、需要の面、つまり企業の行動が変わった面も非常に重要ではないかと思います。1980年代のサッチャー、レーガンの新自由主義的革命の一つのきっかけは、国際競争の激化、経済競争でした。国際的ばかりではなくて、国内市場における企業の競争が激化してきたというのはどういう関係かというと、技術の進展により、品質や製品の新しさで市場シェアを獲得しなければならなくなり、ますます無理をして、競争が激化する。これが国内の市場。

それから、途上国からの低廉な輸入品の競争に直面して、それに対応する必要性から、企業がますます競争しなければならない。政府の政策は、企業の競争力強化が至上命令となってきています。産業政策については、イギリスの場合だと、労働党がやってみようとしたものは全くだめだとサッチャーが言って、むしろ民間企業が自由に、束縛されないで競争できることが重要であると主張しました。束縛されないための1つの重要なポイントは、労働保護法制を解体、緩和して労働市場の柔軟性を図るということでした。

市場個人主義浸透の2側面

こういう市場個人主義の浸透の2側面といえば、今の日本で行われている変化の2つの面で、1つは業績主義の浸透。年功主義を排撃して、業績主義、成果主義に移らなければならないというのが常識になっています。年功主義というのは、年功賃金、年功昇給制はどういうものかというと、英語でシニオリティーペイ、シニオリティープロモーションシステムといつも言いますが、それは年功の正しい訳ではないでしょう。シニオリティーだったら、「年イコール功」。ところが、日本の会社、役所も、「年イコール功」ではないんです。年功制度は、「年プラス功」によって昇給して、賃金が上がる制度と解釈したほうがいい。そして、年と功の比重はどうあるべきかが1つの問題なんです。つまり、50歳にならなければ会社の役員になれないという制度が当たり前であるか、あるいは、日産で社長が46歳になったように、年の比重を低くして、功の比重を高くするかです。

もう1つは、「年プラス功」であるとすれば、功の解釈をどうするかです。功は、人の働きが効果的、効率的であるか、頭のいい働き、てきぱきとやるかという成果、業績という面もあります。ところが、日本の評価システムはそればかりでなく、どれだけ努力しているか、そして協調性、どれだけみんなと情報を分け合って協調しているか、あるいはスタンドプレーをやろうとしているか、そういう業績以外の努力や協調性を評価するのが今までの制度だったんです。そして、業績、努力、協調性の相対的な比重は、今まで一般の日本人の公平の観念にわりに合致していたんじゃないかと思います。その制度を変えて、業績、成果1本でやれば、同じように公平の観念に合致するかどうかは非常に疑問だと思います。

本日の講演には、富士通の方が来ることになっていたそうですけれども、富士通でそういう革命を起こして手を焼いたという話はかなり有名であって、一般の富士通の職員の公平さの観念に合致していなかったということが分かったんじゃないかと思います。

市場個人主義のもう1つのあり方は、企業の価値をどう思うか。企業価値イコール時価総額という考え方は一般的になっているんじゃないかと思います。企業のお偉方、経営者は、よくCSR、企業の社会的責任など、すごいレトリックを使いたがるんですが、実態はやっぱり変わってきていると思います。昔は、どちらかといえば経営目標は、市場におけるシェアの拡大、そして収益を拡大して、利益よりも収益を重視する。そして従業員の福祉を、できればよそより良い待遇にすることが目標であったのが、最近は、むしろ株価の維持が第1の目標となってきている。そうでなければ時価総額が下がって、乗っ取り、敵対的買収にあう心配もあります。

企業価値イコール時価総額という思想が浸透してきている一つのメルクマール、指標は、最近のライブドアの事件に対する、メディアなど、一般の人の評論に見られるのではないかと思います。ニッポン放送が、ライブドアに対して東京地裁に訴訟を起こし、裁判官はニッポン放送の訴訟を蹴ってしまったのです。敗訴にした理由は、裁判官が言うには、それはただ経営陣の防衛戦術であって、会社ひいては株主全体の利益にならないから蹴ってしまった。「ひいては」という日本語は非常におもしろい。会社ひいては株主全体、会社イコール株主全体という考え方がそこにある。とにかく企業の価値の考え方が株主にとっての価値しかないというのは、今の裁判所の常識になっていると言えるのではないかと思います。

市場個人主義時代の「公平さ」に関する常識と不平等

市場個人主義の浸透の1つの結果は、所得分配のばらつきが開く、貧富の差。雇用者の中の、あるいは現役労働人口の第1次所得、つまり市場がもたらす所得分配の格差が開くということは、イギリスにおいては1980年代の初めからかなり開くようになって、日本も最近かなり開くようになってきているのではないかと思います。

その変化は、所得分布が開くということばかりではなくて、所得分布が開くことを容認する常識、つまり当たり前じゃないか、悪平等を是正することじゃないかという考え方がますます支配的になっていくのではないかと思います。労働人口の間の所得分配が開いていくということは、みんなが機会平等だったらいいんじゃないか、機会の平等はもちろん必要。しかし、結果の平等はだんだんなくなっても仕方がないんじゃないかということです。ところが、機会の平等が成立するような条件がだんだんなくなっているのではないかという心配が、格差社会という言葉に表れているように、ますます認識されるようになっています。つまり、日本の階層制がますます世襲的になりつつあるのではないかという心配が当然そこで出てきます。

先週の経済財政諮問会議の、2030年のビジョンの中で、格差の固定化、つまり階層の世襲化ということが将来心配しなければならない問題ではないかと指摘しています。関係していた方の話によると、その言葉が入ったのは橘木さんと玄田さんのおかげで、自分は反対だったと言うんです。

どういうことになりかねないかというと、米国の社長の給料を考えればいいと思います。1960年代の米国の企業は、現在の日本の企業と似通ったものでした。1970年には、社長の中で、生え抜きの社長が95%だったんです。社長の給料は、一番大きい100社だったと思いますけれども、アメリカの平均給料の39倍だったんです。ところが今は、同じ100社をとっても1,000倍以上になっています。そして、生え抜きではなくて、外部の市場から入ってきた人たちは、5%から35%に上がっています。5%から35%に上がることによって、社長の給料の決め方が変わってくるんです。どういうふうに変わるかというと、外から入ってくると、取締役会の報酬小委員会で交渉するんです。あんな安い給料で誰が来るものかということで、給料、ストックオプションズ、年金給付など、いろいろ交渉します。そうすると、外部から来る人が35%だったら、内部から上がってくる人も同じような交渉をするんです。

日本では、大体慣習的になって、専務から社長になれば、給料が10%上がるか15%上がるかということが決まっている。それがアメリカ式に変われば、自分の職種のほんとうの職業能力に加えて、能力の市場価値以上の組織力、つまり報酬委員会に自分の友達が全部行くように仕組むという組織力もかかわってくるんです。

格差拡大が必然的か

格差が拡大するようなことが可能であるか、そして固定化するかというと、私は、そういう傾向、そこへの道を日本がたどっているのではないかと思います。どういう変化でそれが一番端的に表れているかというと、年俸制度に移ったのも一つの要素だったんですけれども、今までの日本の企業において、トップの経営者から課長までの給料の上昇率は、大体労働組合の賃上げ率と同じように、歩調を合わせていたんです。組合がベースアップ5%を取れば、社長を含めて経営者も大体平均5%ぐらいの給料引き上げになっていた。ところが、最近の多くの企業では、それが全く切り離されています。

去年、経済産業研究所のアンケートをやらせてもらったんですけれども、そういう変化が起こっているということを意識していた課長、部長が非常に多かったんです。つまり、今は経営側の給料は何にリンクするかというと、利益にリンクする。労働者の賃上げは労働市場の条件によって決まる。ところが経営者のほうは、むしろ利益にリンクされるようになっている。それが、ますます株価中心の経営に走るもう一つの要因になっていますし、また、アメリカでこの30年に起こった、社長のべらぼうな給料引き上げの要因ともなっているのではないかと思います。

逆転の可能性

市場個人主義への傾斜が直される、逆転される可能性があるかどうかということを考える場合に、第1に、こういう傾向がなぜ起きているかということを考えなければなりません。もちろん小泉派の構造改革を推進している方に言わせれば、競争が激化する世界経済において日本が勝ち抜くためにという曼陀羅を唱えるでしょう。とにかくそれに対応するための、経団連のコーポレートガバナンスの報告書だったと思いますが、グローバル金融市場に好かれる企業にしなければならない、そうでなければ資金調達が不可能になると。ところが、ゼロ金利で、銀行が3%ぐらいで一生懸命に金を貸そうとしている日本で、資金調達が不可能になることは当分あまり心配ないのではないかと思います。日本人の膨大な貯金がどれだけ円に残っているか、どれだけドルに逃げているかといえばほんのわずかです。だから、そういう必要性は、私はあまり説得力がないと思います。

むしろ、変わってきているのはイデオロギーだと思います。イデオロギーの変化は、日本ばかりではなくて、ヨーロッパを見ても、ドイツやイタリアなどでも同じ現象が起こっています。そして、そういうイデオロギーをもとへ戻そうという動きが出るかどうかは、エリート層の心理によると思います。ところが、日本の世論、常識を形成しているエリート社会層は、別に苦に思っていません。自分たちの子供は就職難にぶつかる心配も全くないし、買い手市場に面しているわけでもないからいいんじゃないか、悪平等是正はやはり進歩じゃないかというマインドになる可能性が非常にあると思います。

ですから、最後にやはり儒教に返りますけれども、逆転の可能性はどこからくるかといえば、仁政、つまり力を持っている人、権力を持っている人たち、そして非常にいい生活をしている人たちが、こんなに自分たちはもうけているんだけれども、あそこでこんなに貧乏な人、ホームレスの人、フリーターがあふれているような社会に住むことは何だか良心がとがめるというエリートの改心でしょう。どういう預言者が出てきて、どういう説教をしてそれが起こるのか、私は知りませんが。

労働組合の人たちは、本来、貧乏人の味方をすべきです。儒教から仁政をとって、復初というのは荘子の言葉だそうです。辞書で見たら、欲望に迷った状態から、人間本来の正しい状態に戻るとある。労働組合が労働運動の本来の使命に戻ることも、1つの重要な条件ではないかと思います。それはどういう形でというのは、後の討論のときに、また話が出てくると思います。

コメンテーターのコメント(稲上毅・法政大学教授)

いつものことですが、ドーア先生のお話は、時代の核心に一直線に迫る、とても迫力に満ちたもので、私も大変勉強になりました。皆様もきっとそうであったろうと思います。

たくさんのとても大事なことにお触れになりましたから、何に絞ってお話をするのがよいか分からないんですが、おそらくお見えの皆様も、ドーア先生にいろいろお聞きになりたいことがあろうかと思いますので、私からは簡潔に、いくつかの話題を絞って議論の口火を切ることにいたしたいと思います。

さきほどドーア先生は、ケインズの予言についてお触れになりました。私は不勉強だったものですから、先生のお話を聞いて、ケインズの論文を読んでみました。大恐慌で大量の失業者が出てくる状況の中で、ケインズはその当時、人間の歴史、過去4000年を振り返りながら、いまこそ100年先を見据えるべきだとして、正確には次のようにいっております。

重大な戦争と顕著な人口の増加がないものと仮定すれば、経済問題は100年以内に解決されているか、あるいは少なくとも解決のめどがついているだろう。そして100年先を考えると、深刻になっているのはむしろ余暇問題のほうではないか、どういう風にして余った時間を過ごしてよいか分からない、いま(1930年当時の)の富裕層の奥様方を見てごらんなさい、みんな神経衰弱になっていますよ、というようなことをケインズは書いています。

きょうはケインズに倣いまして、少し楽観的になって、ドーア先生がお話しになったことの可能性は大いにあるし、共感できるところも少なくありませんが、私のスタンスとしては楽観的なシナリオのほうを重視して、こういうこともあるのではないかというお話をさせていただきたいと思います。

まず、今日のお話に出てくる中心的な概念は市場個人主義という言葉ですが、その意味は何だろうかということです。私が繰り返す必要はないかと思いますが、もう一度整理してみますと、こういうことを言っておられるのであろうと思います。

市場個人主義にも、セーフティーネットは欠かせない。しかし、できるだけ自助努力と自由な競争を大事にすべきだという。結果として、しばしば大きな格差が生じるが、それは仕方がない、もっといえばそれが正当なことではないかと考える。そうなると、必ず機会の不平等になるが、それは受容すべきものである。したがって、市場個人主義は優勝劣敗を是とする思想であり、また行動様式である、そういってよいだろうと思います。

ドーア先生の『働くということ』という出たばかりの中公新書の134ページをご覧になりますと、こういうふうに書かれています。市場個人主義という考え方の背景にある予断といってよいのでしょうが、権力は――おそらく政府とか公的部門というものを考えればよいのではないかと思いますが――社会や人を腐敗させるが、市場は規律をもたらすという考え方がある、と。私も、そうした考え方が市場個人主義という思想の中にはあるのだろうと思っています。

しかし、果たして市場は規律をもたらすのでしょうか、仮にそうだとしても、一体どういう規律をもたらすのか、ということが大変気にかかります。最初のほうの問い、市場は規律をもたらすのかについていえば、「ノー」という方がたくさんいらっしゃると思います。もちろん、エドモンド・バークとかマルクスなどを引き合いに出すまでもなく、1997年の2月だったでしょうか、タイのバーツが暴落し始めて、アジアの通貨危機が起こったことはまだ記憶に新しいことではないかと思いますし、そしてそこから10年さかのぼりますと、日本経済がバブルに突っ込んでいる真っただ中で、ほとんどの人はまだ自覚がなかったわけですが、しかし、バブルですから定義上弾けるわけですね、泡ですから。そういう苦々しい、ある意味では愚かな経験をいたしました。ですから、市場が規律をもたらすかといえば、必ずしもそんなことはないというのは、山のような証拠があると私は思います。

ちなみに、この日本のバブル経済についてはなぜそうなったのかについて、もっとたくさんの研究が必要であると思っています。基本的な背景には、日本の経営が大きな「成功」を収めたということがあると思います。しかし、成功して手に入れたお金を何に使ってよいか分からなくなった。当面株を買うか土地を買うかということをやって、バブルになっていくわけです。ただ、これは未曾有の経験であり、研究者を含めて、なぜバブル経済に突入したのかということをもっと真剣に、反省を込めてその因果関係を明らかにしておく必要があると思っています。

本筋の問いのほうですが、市場は規律をもたらすのかといえば、そうでないことが山のようにあると思います。もうひとつ、仮に市場が規律をもたらすとしても、それはどんな規律なのかということが問題です。再びケインズについて申しますと、ケインズは、資本主義の牽引力について、それは貨幣欲である、ラブ・オブ・マネーであるといっています。ケインズという人は、株で大損をしましたけれども、大儲けもするといった経験をしながら、だけどそういう投機はよくないといっているので、なかなか面白いと思いますけれども、彼は貨幣愛を軽蔑しておりました。しかし、そういうものが資本主義を動かしているんだということを直視しておりました。市場がもたらすものは結局のところ、飽くなき貨幣欲の自己増殖と弱肉強食ということなのでしょうか。

では、ふたつの自問に対する答はこれで十分なのでしょうか。必ずしもそうではないと私は思っています。つまり、市場は規律をもたらすことがないのかといえば、実はそういうこともあり得ると思います。それから、どんな規律なのかといえば、貨幣欲と弱肉強食といったことだけでもないと思います。市場あるいは市場競争というものが、立派な徳目、バーチュー(virtue)をもたらす場合があると思います。実際、そういうことが歴史的にもあったと思います。私は、NHKの「プロジェクトX」という番組が流れ始めた頃、よくみておりました。同じく市場競争といっても、ドーア先生がお触れになった市場個人主義とはちょっと違った種類の魂がそこには息づいていたように思います。「プロジェクトX」に取り上げられたさまざま苦難の成功物語の場合、一方では厳しい市場の競争が働いていました。他方、この競争に勝ち抜かなければならないという前提で、良いものを作るんだという技術者魂のようなものが横溢していました。企業の枠を超え、儲からなくて、企業まで潰れそうになりながら、しかしそれを乗り超えていった技術者たちの「勤勉物語」であると思います。

市場の競争がいつでも人間をダメにしてしまうのか、いつでも破壊的なのかというと、そんなことはないと思います。市場が規律をもたらす場合があると思います。しかも立派な徳目、バーチュー(virtue)をもたらす場合があったという代表的な歴史上の経験でいえば、アダム・スミスの時代のスコットランド啓蒙の世界がまず思い浮かびます。

アダム・スミスよりも先輩のジェイムズ・ステュアート、往年のハリウッド・スターと同じ名前ですが、この人に『経済の原理』という立派な本がありまして、それを読みますと、「インダストリー」という言葉がキータームとして繰り返し出てきます。その場合のインダストリーとは、製造業とか工業、産業という意味ではありませんで、まずは勤勉という意味で使われています。のちに、このスコットランド啓蒙の世界と対立いたしますが、同じように「産業主義」という言葉を提唱した人がおりました。ご承知のサン・シモンです。そしてサン・シモンの愛弟子で、オーギュスト・コントという人物がおります。この人が社会学という言葉を造ったんです。晩年のサン・シモンの作品はかなりコントが書いております。後に仲違いしましたけれども、この人々がインダストリアリズム、産業主義という言葉を造りました。

かれらが産業主義というとき、「産業は平和、産業は有徳をもたらす」という命題を主張しました。もちろん、マルクスの世界を考えると、何をバカなことを、ということになるでしょう。そういう議論があることは十分承知しておりますが、しかし近代資本主義の歴史のなかでは、一方にインダストリアル・キャピタリズム(産業資本主義)というものがあり、それとは異質なファイナンシャル・キャピタリズム(金融資本主義)がもう一方にあるという風に考えられるのではないかと私は思っています。インダストリアル・キャピタリズム、産業資本主義が立ち上がってくる時代には、市場は平和をもたらし、また市場は有徳をもたらす。あるいはその人々によって市場が支えられるという世界がとにかく存在していたという歴史的事実がとても大事なことで、日本でも渋沢栄一とか中上川彦次郎の世界を考えますと、「実業の思想」の中には、そういうものが生き生きと躍動していたと思います。それが市場個人主義的な世界とどのぐらい重なり合うかは大いに疑問の余地がありますが、しかし競争市場というものが平和をもたらし、有徳をもたらすこともあり得るのだということは、一応念頭に置いてもよいのではないかと思います。

もう少し突っ込んで申しますと、私から見ると、ドーア先生がお話しになりました市場個人主義というのは、強いて申しますとファイナンス型の市場個人主義であると思います。私がいま申しましたほうは、インダストリアル型の市場個人主義というものです。歴史を広く捉えれば、そういうものを考えておく必要があるということです。あるいは、もっと大事なことは、アダム・スミスの世界というものと、例えばデービッド・ヒュームであろうと、ファーガソンであろうと、ウィリアム・ロバートソンであろうと、いろんな人がいるわけですけど、かれらが何と闘おうとしていたのか、その産業型市場個人主義が闘ったのが何であったかが非常に大事なことだと思います。それは、ひとことでいえば、専制君主あるいは歴史学上の用語でいえば絶対王政と、それに基づく植民地支配というものとかれらは闘おうとしたのだということです。この点が歴史的に大変大事なことではないのかと、私は思います。

ですから、いまもし市場個人主義というのであれば、そういうことを主張する人たちに対しては、日本の社会もまさに倫理の時代を迎えていると思いますが──、というのも生命倫理、環境倫理、情報倫理、企業倫理、山のように○○倫理という言葉が考えられると思います──、いま倫理の時代にあって、私から見ると狭隘なファイナンス型の市場個人主義を主張する人々に対しては、あなた方は何と闘おうとしてそういう主張をしているのか、と問いたいと思います。なにか立派な大義名分でもあるのでしょうか。いま申しましたように、産業型の市場個人主義がかつて絶対王政と植民地支配をほしいままにしていた世界に対して闘いを挑んだという歴史的事実に照らして、そういう問いが脳裏を掠めます。

それから、2番目に、この市場個人主義について、ドーア先生がお触れになったことを補足する議論になるのかもしれないと思いますが、現在の市場個人主義には大いに問題があると私も思っています。とても同調できない、そういうことがたくさんあります。しかし、その力は大変強い。根強い力をもっていて、しばらくの間これからも強まっていくだろうと思います。けれども、それを見過ごすことが望ましいと思わないのであれば、誰がどのようにしてコントロールするか、制御できるのかということが大切な問いになります。

その点で申しますと、いろんな主体が考えられるに違いありません。ここからが、おまえは楽観的に過ぎるとドーア先生から叱られそうですが、なお幾つか申し上げてみたいと思います。

ひとつは、端的に言いますと、誰が一番頼りになるのかというと、残念ながら労働組合ではない。いま、日本の労働組合が市場個人主義を制御する第一の主体たり得るかというと、そうではないと思います。では誰だろうか。それは、ドーア先生もお触れになりましたけれども、啓蒙的な精神に満ちた経営者層であるといまは思っています。もちろん、いろんな人たちがその動きをサポートする、あるいは時にかれらを叱責し、批判することも必要なことだと思いますが──、政府でもなければ労働組合でもないし、マスメディアの方がいらっしゃるかもしれませんけれども、残念ながらメディアの方であるとも思いません。政府というときには役人が入りますから、この近所であまり大きなことを言わないほうがいいかもしれませんけれども、それらの人々よりは、やっぱり経営者に私は期待いたします。

なぜそういう「甘い」ことをいうのかと申しますと、ドーア先生が特に最後のほうでお触れになりました、例えば経営者の報酬ひとつとってみても、次第に報酬システムのありようが変わってきていますが、それを決める場合、いままでどこに目を向けてきたのかといえば、それは企業中、従業員との比較が大切にされてきたといってよいと思います。それが、いま段々と従業員よりも株主のほうに関心を向けるようになったという側面は確かにあると思います。

でも、理論モデルを考えたときに、先ほどドーア先生がお触れになりましたように、日本の経営のあり方、あるいはその中での経営者の役割をAと考えておきまして、それが例えばアメリカ的なるものに変わっていく、それを仮にBといたしますと、確かにAからBへ動いているように見える。そういう側面はあります。問題はどこまでAからBに動くかということなのですが──、この点、どこまでもBに近づけていこうとしている経営者が日本にどれだけいるかというと、私が数年前にやった調査結果からすれば、真正面からそういう風に考えている日本の経営者は、せいぜい1割ぐらいではないかと思います。この連合総研の調査は、東京証券取引所の一部上場企業、常務取締役以上の方々から回答をいただいたものですが、有効サンプル数は1211人でした。

その方たちは、これからの日本の経営のあり方についてどんな風に考えているのかといえば──、もう少し資本効率を高めて、株主利益を大事にしていかざるを得ない、あるいはいくべきであると考えています。しかし、例えば基本的には企業は誰のものかとか、企業はどういうものですかという問いに対して、企業は株主の所有物であるといった考え方に賛成の人は1割ほどです。無回答はほとんどありませんで、9割ぐらいの方がノーと言っている。きれいごとで聞こえるところもありますが、ステークホルダーズ、企業の利害関係者というものを広くとって、その利益も同時に大切にしていかなければならない、株主だけの利益を大事にすればよいということではないという風に大方の経営者がいまでも考えている、私はそう思っています。ドーア先生もお触れになりましたように、いろいろ変わりつつあると思います。しかし、どこまでもアメリカ型経営に近づいていくのかといえば、どうもそうは思えないのです。

さきほど所得格差のお話が出てきました。一般の従業員と経営者の所得の違いは、アメリカをとりますと、あるいはイギリスでも、ドイツでさえも、確かに相当大きな格差があります。いまふれた同じ調査の結果では、大卒の新入社員の年収を1としたときに、ご自分の年収はどれくらいかを聞いているのですが、代表権をもつ社長あるいは会長で11.2倍ぐらいです。平均をとりますと9倍ぐらいでした。そうすると、仮に20万円掛ける17倍で新規学卒の年収350万円程度でしょうか、それの10倍ですから、せいぜい3500万円とか4000万円といった水準にあるということになります。なぜかというと、ドーア先生もお触れになりましたように、これは内部昇進の経営者であるということが決定的に大きいと思います。

つまり日本の役員の場合、直前の役職はたとえば○○事業本部長といったもので、その後その人に取締役という冠がついて、どのぐらい年収が増えるかというと、さきほど先生もお触れになりましたように、せいぜい1割とか2割といったところです。従業員の所得と大きな断絶的格差をもった報酬が手に入るような経営者の外部労働市場といったものはまだ日本では成立していないんです。

そういう現状から、これから5年経ち、10年経つうちに、現在の10倍といった格差が50倍になるだろうかということを聞いてみましたが、ほとんどの経営者がノーという答えでした。

それから、同じ所得格差ということで、今度は経営者ではなくて、従業員を考えたときですが──、別の調査で、もう少し古くて、いまから10年ぐらい前の調査になるでしょうか、でもいまでもあまり大きく変わっていないと思っていますが、例えば大きな企業であれば、同期入社の者が何十人もいたりする。その平均を100としたときの望ましい年収格差について聞いているんです。最高グループと最低グループ、同期の中の上位5%とか下位5%という数字を聞いているんですけれども、最低、最高でどのぐらいの格差があるのが望ましいとみなされていたか。平均を100とすると、下のほうは80で、上のほうが130です。この望ましい格差イメージは非常に興味深いことに、世代横断的に変わらないんです。30歳でも、40歳でも50歳でも変わらないんです。そして50歳ですと、現在の格差と望ましい格差とが一致しています。そうした規範意識といったものがどのぐらいドラスチックに変わるだろうか、上下に50と200といったように変わるのだろうか。例えば平均年収が1000万としたとき、40歳の人を考えたとして、最低500万、最高2000万が望ましい年収格差であるというように、多くの大企業のホワイトカラーが考えるだろうかというと、なかなかそう簡単ではないように思います。比較的近い将来、例えば5年先を考えたときに、そんなに大きな変化が生ずるだろうかというと、希望的観測が入っているかもしれませんが、私はそんな風には進まないだろうと思っています。

さきほどドーア先生は、成果主義管理のことについて、なにも富士通に限ったことではありませんが、ある種の揺り戻しがあったということにお触れになりました。それは結局、従業員のパイの分配に関する公正さ、あるいはジャスティスという感覚に合わないからではないかとお話しになりました。同感です。そして、経営者のキャリアについても、ストックオプションがもつ意味についても同じことがいえるのではないかと思っています。

委員会等設置会社に移行するといいましても、例えばある電機グループの例など考えてみても、グループとしてまとまって30数社が委員会等設置会社に移行していますけれども、当面、見通される5年ぐらいについていえば、目立って急増するとは思えません。

外資の力を見ていないのではないかと言われますと、そうかもしれないとは思います。その外資のことで申しますと、2、3日前にROE(株主資本利益率)の2004年度の数字を新聞でご覧になった方がいらっしゃると思いますが、日本が8%ぐらいに上がって、アメリカが15~16%でしたでしょうか。市場個人主義的な動きが強くなり、グローバライズしてきているのだとすると、為替の問題はありますが、そんなに株主資本利益率の低い日本の企業に、なぜ投資する人がおり、機関があるのでしょうか。確かにROEというのは、変動的な性格が強くなってきている従業員あるいは経営者にとってのボーナスみたいなところがあって、企業によって1年1年、非常に乱高下する数字なんです。いろいろ戦略的にも使われる数字であったりします。

結論的にいいますと、いましばらく経営者の良心といいますか、責任感、自負心、それこそドーア先生は何とおっしゃいましたか、儒教の言葉で仁政でしたか。相対的に誰に一番期待するかというと、私はやっぱり経営者に期待したいと思います。

それから、株主ですが、少なくとも日本の株主についてはまだ得体が知れない。端的にいって、私たちの中にも株主性というものがある時代になっています。企業年金というものを考えますと、401kであればもちろん明示的にそうなります。少し挑発的なことを申しますと、株主としての自覚をもたなければならない、どういうことを企業の経営者に対して要望するのかということについて自覚をもつべき時代に私たちは生きていると思います。

企業年金でも、身近な例を念頭に浮かべて申しますが、保険料を上げるか、給付水準を下げるか、あるいはその両方を同時にやるとかいった状況に直面していて、外資を含めて投資信託等にお金を預ける。その場合、ファンドマネジャーがどのように投資すべきかということについて、ただ何パーセントの利回りがあればよいと言っているようなところが、いまでも圧倒的に多いと思います。こういうことをそのままの状態にしておくことは、必ずしも望ましいことではないと私は思います。同じことは、従業員持ち株制度についてもいえるのではないでしょうか。

もう少し一般的に申しますと、いろんな株主がいる、非常に悪質な人たちもたくさんいると思いますが、ともかく株主は多様なものになっていると思います。私どもの中にもある種の株主性があるのであって、そういう側面での自覚をもつことがこれからは必要になってきていると思っています。

労働組合ですが、ほんとうはやるべきことが山のようにあると思いますね。ですが、なぜか元気がない。大変残念なことです。やるべきことで最も大事なことのひとつに、これは経営者にも期待しなければならないことですが、ドーア先生がお触れの市場個人主義と並行して進んでいる最も重要な現象に、実質労働時間の長期化という問題があります。10年来、大いに心配しています。ますます少ない人で多くの仕事、難しい仕事をやるようになっています。しかも企画業務型の裁量労働が入ることについては、率直に言って、賛成しておりませんでしたけれども、そういうものも浸透しはじめている。

私は、労働組合も含めて日本が取り組まなければならない非常に大きな問題のひとつは、この長時間労働をどうするかということであると思っています。雇用の機会をつくり出すという意味でのワークシェアリングということより、それはサイド・エフェクトとしてあってよいと思いますが、まず何より長時間労働そのものをなくしていくということが極めて大事なことだと思います。

ドーア先生は、CSR(企業の社会的責任)の実態は何かということについてお触れになりましたけれども、世界に名立たる会社で、CSRというと必ず話題にされるような会社があります。固有名詞は控えますが、外資です。しかし、例えば、その会社の営業マンが実際どういう生活をしているか。身近な者がそこに勤めていて、毎日車で300キロも動く。私は大いに心配で、いつ事故を起こすかわからないし、生活が大変不規則になっている。そういう実態をよく知っていながら、こんな白々しいことを企業の社会的責任として喧伝しているのだろうか、と思っています。日本の企業でも、社会的責任経営などと立派なことをいっているが、トップ経営者でそういう現実を知らない人がたくさんいます。そういう現場のモニターをきちんとしていくことはもちろん極めて大事なことです。だから、法令遵守という意味も込めていえば、モラル(moral)とモラール(morale)をきちっとモニターするという、労働組合としての基本的な役割をきちんと果たすべきだと思います。

それから、個別紛争処理という問題もあります。日本の労働組合というか、企業別労使関係というのは、集団的なことはやるんですが、しかし個別紛争の処理はほとんどできない。苦情処理委員会はあるんだけど、ほとんど動いていない。動いていると、その企業の労使関係は乱れているという、うがった見方をすることさえできます。最近では、コミュニティー・ユニオンがたくさん出来てきていますけれども、それの背景にありますのは、個別苦情処理ができていない企業内労使関係という現実があるからだと思います。

そのほか、たくさんありますけれど、労働組合はいろいろ悪循環に陥っているように思っています。連合にも、もう少しちゃんとお金を出して、スタッフを充実させて、研究所をDGBのような立派なものにしなくてもよいかもしれませんが、政策・制度要求をめぐってもまだまだ出来ることがたくさんあると思います。そのためには、お金も人も要りますし、時間も必要です。そういうことに対して、きちんと企業別組合も投資すべきでしょう。率直にいって、組合経営というものについて根本的に考え直す必要があるのではないかと思ったりします。

市場個人主義を制御できる、企業にとって侮りがたい存在としては、とくに厳しく異議申し立てをするNGOの存在があると思います。もうすこし広げていえば、ボランティアの人々が、あるいは私たちが消費者としての厳しい監視の目をもつということも大いに役に立つように思います。

政府ですが、例えばサービス残業といったことでいえば、政府自らがコンプライアンス、法令を遵守するということについてこれまで甘かったと思います。法律がきちっと守られているかどうかをチェックし切れていなかった。何となく物わかりのよい顔をして見過ごしてきていることがたくさんあると思います。もちろん、望ましいことではありません。企業の努力義務という規定がいろんな法律に書き込まれていますが、ふつう、企業はやらなくてよいのが企業の努力義務だと受け止めていくふしがあります。それが経験則のようになっています。罰則がついたり、名前を公表するというと、顔色が変わりますが、企業の努力義務ですというと、努力しなくていいものだと考えるところが多いというのが私の率直な印象です。

社会変化の方向性について、ドーア先生はこの『働くということ』という本の中でも一つの章を割いていろいろ議論しておられます。さきほど申しましたように、私もまた資本主義の多様なあり方ということが極めて大事なことだと思っています。その場合、さきほども触れましたように、経営者がどういう風に考え、舵取りしていくかが当面の焦点になってくるかと思います。皆さんは、「社会的責任投資」(SRI)という言葉をお聞きになることがあるかと思います。社会的責任投資はもちろん投資家の行動です。日本では、経済同友会が『第15回企業白書』の中で「社会的責任経営」という考え方を打ち出しました。「企業の社会的責任」というと、どこの国でも使われている言葉ですけれども、社会的責任投資ではなくて、社会的責任経営という言い方が日本から出てきたことは興味深いことだと思います。経済同友会が、大塚万丈以来、修正資本主義というスローガンを掲げて活動してきたということまでさかのぼりますが、さきほどから申しますように、いましばらくは「甘い」と言われましょうけれども、経営者の役割に期待したいということであります。また、その人々がある仕方で、複数資本主義の可能性を大切にしていくという方向で行動してくれるように、労働組合を含めて多くの人々がときには厳しい批判もしていく、そういうことが求められているというのが、ドーア先生のお話を伺っていて、私がもっとも申し上げたかったことです。

ドーア

稲上さんのコメントに対するコメントを1つだけ申し上げます。

市場の規律がいいことになることもある。それは確かにそうです。ところが、いろいろなリスクをとるということ、起業家は非常にリスクをとることによって成功する。よく思うことは、渋沢などの話も出ましたけれども、渋沢の場合は、自分が商人ではなくて実業家であるということを強調しています。実業家は、起業、業を起こして、リスクをとる。それによって社会的に有用な仕事をして、金をもうけるというものです。ところが、起業家のリスクと投機するリスクの区別、渋沢にとって非常に重要な区別が、今失われているのではないでしょうか。

私が非常に面白いと思ったのは、竹中大臣が大臣になる前に、日経の1面の広告の記事の中で、リスク・アンド・リターン、いかにして世の中が巧妙にできているかということを、子供にも、小学校でも教える必要があるのではないかと言っていたことです。つまり高いリスクをとれば高いリターンが来る可能性がある。損する可能性もありますが、リスク・アンド・リターンがつり合っている可能性もある。その中で、リスクの観念は、投機的なリスクと企業を起こすリスク、つまり社会に対して何かサービスや製品を送ろうとして、それが成功するかどうか、お客さんに喜ばれるかどうかによるようなリスクをとるのと、ただデリバティブズの商売をすることとの区別が全くなくなっているような世の中ではないかと思います。

もう1つ、稲上さんのような楽観主義者がまだいるということには、おめでとうございますと言いたい。めでたいというのは、つまり甘く見ているのではないかという気持ちもします。つまり、企業は株主のものだと賛成するような経営者は10%しかいない。ところが、例えば私が先ほど、労働組合のベースアップと経営者の給料アップが歩調を合わせることが望ましいかどうか、それがなくなったことは悲しいことであるかどうかを聞けば、やっぱり10%、90%ということにはならないと思います。今の世の中では、まあ当たり前と見ている人が多いと思います。つまり90%の人たちが、非常にはっきりした信念を持って、昔のような日本的経営を守ろうとする意欲がほとんどないと思う。信念を持っている人はいますけれども。

経済産業省で、乗っ取り、敵対的買収に対する防衛策、ポイズン・ピルの防衛策についての企業価値研究会をつくりました。その研究会の一人に研究会の模様はどうですかと聞いたら、まずしゃべったのは経済学者、法律学者、それから金融界の人たち。産業界の人たちもいましたけど、ほとんど発言しませんねということを聞いて驚いてしまいました。そして悲観しました。

質疑応答

質問者

ドーア先生にお聞きしたいんですけれども、今そういう新しい傾向が、アメリカとか日本の労働市場で起きているんですが、究極的にはイギリスと日本の国家戦略がかなり違うのではないかと思うんです。特に先生も本で書いておられたように、サッチャー首相のときに、イギリスが非常に大きな転換をした。日本はその後を追っているけれども、日本の場合は、大英帝国のような歴史を持ったことがないわけです。イギリスの場合は、大英帝国という大きなバック、過去があったわけです。それが崩壊して、サッチャー首相は、もう一度イギリスの栄光を取り戻したいという野心を持って、経済改革をかなりやったのではないかと思うんですけれども、日本の場合には、そういう政治的な意思というものはあまりなくて、グローバル経済に適応するという形で経済改革が行われているというところで、そこら辺の政治的な意思の違いがあるのではないかと思うんです。

ドーア

サッチャーの解釈は、私はちょっと違うと思います。何も帝国時代の栄光を取り戻すということは一番大きな目的ではなくて、むしろ国内でインフレを克服することが最も重要なものでした。それは、労使協調的な所得政策で解決しようとした労働党の政策、産業政策及び所得政策によって過去のすばらしい英国のイメージを取り戻そうとした労働党の方法がだめであって、金融の引き締め、自由市場、規制緩和によってそれを達成することができる。つまり、サッチャーに転換して目標が変わったということではなくて、むしろ手段が変わったのだと思います。

日本の場合は、グローバル経済に対応しようと言っていますけれども、むしろ1990年代に、バブルの後で経済成長率がぐんと下がった。失われた10年、そして同時に、80年代にもうだめだと言われたアメリカが勃興したことに対する自信喪失の治療策として、アメリカのモデルを取り入れようとしたというのがむしろその解釈ではないかと思います。

質問者

今日のテーマから我々が今論議すべきことは、日本国内で今の情勢にどう対応したらいいかということだと思います。そういう意味では、ドーア先生がおっしゃった指導者の仁政ということも大事だし、稲上先生のおっしゃった、啓蒙的な経営者がもっと増えて、日本の立場をはっきりさせようということも大事だし、また、労働組合の役割も大きいと思います。

ただ私は、とっぴなことになると思いますけれども、市場個人主義というのは、冷戦の終結で、アメリカが、軍事的にも政治的にも経済的にも1人勝ちで強くなった。それでアメリカの考え方が世界を支配して、そのやり方をどこも採用する。例えば日本だけではありません、ヨーロッパでも途上国でも、政治家にしろ経済界にしろ、社会の指導層はみんなアメリカに行って勉強して、アメリカの考え方を持って帰って、それが1番いいんだというやり方になってきていると思うんです。従いまして、極端なことではありますけれども、アメリカのやり方が成功しているわけですが、これが行き詰まって失敗して、大変な危機が起こるということになれば、みんなが考え直すのかもしれません。もしくは、アメリカ主義に対抗する考え方、システムがどこかで起こって、それが成功すれば、みんなも考え直すと思うんです。

そういうことからいきますと、EUがだんだん大きくなっていますけれども、これが将来どうなるのか。また、大きな勢力としては中国があります。中国が、対アメリカということではかなりの意見を持っていると思うんですけれども、残念ながら現状は、中国の中でもアメリカと全く同じような市場個人主義が極端に出てきて、ますます格差が拡大しているのが現状であります。また、ロシアが崩壊といいますか、危機にあります。プーチンが、ロシアの石油資本を強権をもって押さえつけたというのは、ある意味では、この行き方はよくないんだと示したのかなと思うんですけれども、残念ながら民主主義というものがいまだかつてちゃんと確立したことがない国ですから、期待はできません。そういうところで、何か突破口となるような国際的な動きというか、そういうものについて、ドーア先生、稲上先生のご意見があればと思いまして質問いたしました。

ドーア

問題の中核は、アメリカの文化的覇権にあることは確かだと思います。ところが文化的覇権は、軍事的覇権及び経済的覇権にも支えられています。経済的覇権はどれだけ続くかということで、短期的な問題と長期的な問題があります。

短期的な問題は、3カ月続いてアメリカの消費者コンフィデンスが低下している。アメリカの経済を支えてきたのは、消費者が非常に元気がよくて、どんなに借金しても物を買おうとしてきたこと。だから、アメリカが過去5、6年間に、生産する分よりも5%以上多く消費して、そうするためにアジア諸国から金を借りてきている。そういういびつな状態はいつまでも続かないわけです。それがどういうふうに破綻するかというのは、また1930年代のような不況になるかどうか。なれば、みんなが考え直し始めるのではないかと思います。

長期の問題については、文化的覇権の競争相手は、EUよりも中国ではないかと思います。EUは、イギリスが入ったおかげで、ますますアメリカ化が加速されています。しょっちゅう経済政策、競争政策について、ヨーロッパ全体の経済学者に支えられたイギリスの主張が通るのです。ドイツやフランスやイタリアの官僚の反対を押し切って、英米化が進んでいます。ところが中国は、おっしゃったようにアメリカ的な市場個人主義の一面もありますけれども、中国の国営企業は日本的な要素がまだかなりあると思います。将来、中国の資本主義がどういう資本主義になるか、私は、まだはっきりしていないのではないかと思います。それがアメリカに対抗する、特に今の胡政権になって、所得の格差が開くことを心配するような政治になりつつあるので、究極的にどういう資本主義になるか、まだはっきりしていないのではないかと思います。しかし、長期的な展望は、私の年になってなるべくしないほうがいいと思います。

稲上

長期展望については分かりませんけれども、こういうことだけは大事なことだと思います。それは、日本もドイツもどういう経済発展の構造をもってきたかいうことです。それを極端に単純化しますと、製造業が先頭に立っていて、ファイナンス、金融の世界が銀行を中心にしてそれを後ろから支える。戦後日本の経済復興は、先頭に製造業を押し立てて、メーカーでいえば、工場でブルーカラーがよい物をつくるために、ほかの人々がそのスタッフとしてその活動をサポートしていく。マクロにみれば、銀行を中心にして金融界が製造業を支えていく。そういう構造があって経済成長を遂げ、それなりに立派に成功を収めたわけです。

しかし製造業や工場が成功を収めると、こんどは1991年にバブルが弾けた直後ぐらいから明確な動きになったことですが、企業の中では80年代から、ブルーカラーではなくて、ホワイトカラーの国際競争力、生産性をどうやって高めていくかということが議論されるようになりました。マクロでみると、ファイナンスのセクターの国際競争力についていえば、産業分野をコンペティティブ(競争)セクターとシェルター(保護)セクターとに分けますと、金融は後者のほうに入っていましたから、ある意味で国際競争力がないのが当たり前なんです。

将来どうなっていくかという点でいえば、一貫して楽観的なシナリオを書きますと、10年、20年経って、この保護セクターがそれなりの国際競争力をもっていないとは言い切れないように思っています。

本筋の製造業の国際競争力ですが、90年代の多くの呻吟難苦の末に、いまようやくたどり着いたのではないかと思いますが、日本経済の浮揚にあずかって力があったとすれば、それはファイナンスではなく、やはり製造業セクターの国際競争力によっていたと思います。日本についていえば、しばらくは製造業の国際競争力がなお大事で、その間に、次第に国際競争にさらされているファイナンシャルのセクターが、これまであったものとは変わってくる、その成長に期待したいというのが楽観的な話の筋書きです。

質問者

先ほど、ドーアさんが最後のところで言われたように、いわゆる良心的な経営者が日本的経営を守ることが市場個人主義を克服することだと思うんですが、そのためには、ステークホルダーソサエティーといいますか、いわゆるステークホルダー社会をつくらないといけない。そのためには良心的な経営者が、先ほど、企業はだれのものかといったときに、ほとんどの方が株主のものではないと言った場合のように、経営者も企業のステークホルダーの1人だという概念がないとだめだと思うんです。

要するに経営者にとってのステークホルダーはだれかというと、それは株主であり、従業員であり、住民であり、地域社会であるという概念です。そうではなくて、やっぱり経営者もステークホルダーの1人、すなわち自分たちは企業という法人の中の1人だとすると、共同決定的な社会になるし、そこに効率と民主主義──民主主義ということはあまり言われなかったと思うんですが──のトレードオンがなされるんじゃないかと思うんです。立場論というものが非常に強くて、奥田さんが非常にすばらしいことを言っていますが、例えばリストラをするときに、人をリストラするんだったら自分もやめるといった発言が昔はあったと思います。それが経団連の会長になってしまうと、立場論ではありませんが、あまりそういうことを言わなくなった。1人の労働者を切るということは、自分も辞めないといけない。それがほんとうの平等だと僕は思うんです。300人以上の人を切ることが、1人の経営者を首にすることだ、それと同じように考えているんじゃないかと。1人の従業員の気持ちと、経営者の1人の気持ちは同じだと僕は思うんです。その辺が、もうちょっと人間尊重というか、そっちのほうに戻っていくべきではないかと思います。

ドーアさんの言っていることも、民主主義と効率化で、今、効率主義、市場主義がものすごく大きくなっている。だから、もう少し民主主義を取り戻して、それとトレードオンすべきだということだと思うんです。その辺をどういうふうに考えてらっしゃるのか。要するに経営者に、自分もステークホルダーの1人で、ある意味従業員だ、経営労働者だという概念、コンセプトにきちんと戻れというか、そういうふうにしなければいけないのではないかと思うんです。

ドーア

ちょっと簡単に。稲上さんがさっき引用した調査で、役員にお聞きになったでしょう。自分は従業員であるという意識がどれだけあるかという質問もあったんじゃないですか。経営者もステークホルダーの1人。エンロンの経営者は、自分は1番大事なステークホルダーだと思って、企業から搾り取ったんです。

私は、むしろ経営者が従業員の1人として、従業員集団というステークホルダーに対する責任を持っていると考えることが1番大事だと思います。そう考えるか考えないかということは、当事者の置かれている立場によって違います。置かれている立場の非常に重要な面は、先ほどから言っています、組合の賃上げ率と経営者の給料が歩調を合わせていくか、あるいは全く別な次元で判断されるか、そういう意味での企業の環境が非常に大事だと思います。そして、歩調を合わせるような力として、労働組合が果たす役割があり得るのに、全然果たしていないと思います。

昨日、連合の笹森さんと対談しましたけれども、笹森さんは、連合は経営権、人事権にあまり立ち入らないほうが賢明だ、団体交渉で、労働組合は労働組合員の賃金だけの話をして、経営者はどれだけ取っているかということを話すことは禁じられていると言っていました。それは1949年の労働組合法に戻ることなんです。労働組合法において、まず労働と資本という敵対的な2つの集団があって、労働組合の独立性を確保するために、使用人の利益を代表する立場に立つ。課長などが労働組合員になってはいけない。ところが、1955年に生産性本部ができて、協調的な企業組合主義になってから、そういう敵対関係が非常に緩和され、むしろ従業員全体の代表となるような組合があり得ると思います。だから、組合が団体交渉において、組合員でない経営者の賃金、給料を問題にしていいのではないかと思います。そこで、良心的な経営者と労働組合が一緒になれるところもあるのではないかと思います。

稲上

経営者の位置づけについてですが、ステークホルダー・ファーム(多くの利害関係者との信頼関係に基づく企業経営)というとき、株主、経営者、従業員、消費者、地域住民、顧客等々があるわけですから、一方では、経営者もそのステークホルダーのひとつということになってしまいます。しかし、お話を伺っていますと、従業員の優れたシニアとして、経営者は従業員の利害関心を十分代表できるような性格を大事にしていってほしいということでしょうか。現状は、一方では、外に対してはステークホルダー・ファームという言い方をしていると思いますが、顧客を無視して従業員の利益だけ大事にできますかというと、そんなことできるわけがない。取引先を無視して従業員の利益を大事にできるかという、そんなことも成り立たないと思います。

経営者はワン・オブ・ゼム、多くの利害関係者のひとつだという言い方より、依然としていまも、そしてどこの国でも、経営者が基本的に大きな権限をもっていると思います。アメリカでもイギリスでも。だからこそ、経営者がどういう役割を果たすべきかが厳しく問われているのであって、みんな等しく、同じ立場ですよというのはまったく事実と反すると私は思います。くりかえしになりますが、経営者はどこの国でも依然として最も基本的な大きな権限をもっており、そのことを曖昧にしてはならないと思います。

だから、ステークホルダー・ファームといっても、経営者は、自分が最も基本的な責任の主体であるという意識を強くもつことが大切であると思います。もちろん、その実際の振る舞い方が問題なわけで、そのときに従業員の利害を一部代表できるような側面も重要になるでしょう。その場合、そんなことは組合の意見を聞かなくても分かっているという風になると、それはやはり大いなる間違いで、傲慢なことだと思います。逆にいえば、そういうことで経営者をきちんとチェックしていく役割を組合が果たさなければならないと思います。ともかく、経営者はステークホールダーの中の1人、ワン・オブ・ゼムであるというようには思いませんし、実際にそうなってもいません。中心的リーダーとして、その責任は極めて大きいものだと思っています。