歴史は評価に先行する─大田区中小機械金属工業集積における分業構造の質的転換と政策言説の転回

要約

砂川 和範(中央大学教授)

戦後日本の中小製造業は事業所数の長期的減少をたどり,近年の言説はこれを「中小企業の過剰」ゆえの非効率とみなし,統廃合による淘汰論へと収斂しつつある。本稿は東京都大田区の機械金属工業集積を,評価枠組みと史的現実との乖離が集中的に露呈する〈場所〉として分析し,この淘汰論が,すでに歴史的有効性を失った評価枠組みの再帰にほかならないことを示す。二重構造論は,農村の余剰労働力の吸収を前提とする1960年代半ばまでの局面でのみ妥当でありえた。だが余剰労働力の枯渇という転換点を経て,大田区の中小企業は「低生産性部門」にとどまるどころか,フルセット型分業から自己組織化した水平的ネットワーク型分業へ,さらに国際分業のローカルな基盤へと,分業構造を質的に高度化させた。経路依存的に蓄積されたこの集積は,1990年代以降のグローバル化した環境のもとで不可逆的な解体へ向かう。にもかかわらず1985年以降の政策言説は,失効したはずの線形的・置換的時間観を「効率化」「最適配置」「淘汰」の語彙のもとで反復する。本稿はここに,評価が史的現実に時間的にも空間的にも追随しえない「2つのズレ」を見いだし,歴史が評価に先行するという視座から,現代の中小企業淘汰論の時代錯誤を照らし返す。分析にあたっては,現存企業の創業年分布(フローデータ)と規模別の長期時系列(ストックデータ)を併用し,集積の歴史的形成過程を実証的に跡づけた。


2026年9月号(No.794) 特集●中小企業を捉え直す

2026年8月25日 掲載