特集解題「職場のメンタルヘルス」

2003年11月号(No.520)

『日本労働研究雑誌』編集委員会

精神的な問題を抱える職業人が増えている。長期休職している人や産業医から「要観察」とされて定期的に診療所に通う人など、その数、割合ともに増加傾向にある。このような状況に陥ってしまうのは、仕事上のストレスが原因だといわれるが、個々人が持つストレス耐性によっても変わってくる。今回の特集では、いま働く人々の意識と行動および働く人々をめぐる職場の環境に何が起こっているのかという点を意識しながら職場のメンタルヘルスの現状と課題を明らかにすることをめざした。

しかし、残念ながら11月号は、編集上の年間計画の関係でミニ特集しか組めない事情があった。通常の特集なら、2-3編の論文と2-3編の紹介などを組み合わせて、多元的あるいは多段的なテーマへの切り込みができるのであるが、今回は、基調となる論文、継続的または縦断的なデータを基にした論文および最も現場近くでこのテーマに関する活動をしている紹介、そして巻頭言という構成で企画書が作成されたのである。

基調論文は、通常特集の2編分にも匹敵し、職場のメンタルヘルスにかかわり裏も表も知り尽くした上で、現状を概観していただくという重要な位置づけなので、産業医としてご活躍の方に依頼するのがよいのではないかということになった。日常的な業務の中でぶつからざるを得ない様々な矛盾、制度と現実の狭間で感じている思いの丈を直接感じさせるような論文は、こうした執筆者にしか求められないであろうということである。荒武・廣・島論文(以下荒武論文と略)は、全体の状況を目配せの効いた抑制のある論文でこの難しい企画者の思いをカバーしていただいている。

荒武論文は、職場のメンタルへルスを、行政がはじめてその対策に言及した昭和63年の労働安全衛生法改正におけるトータルヘルス・プロモーション・プラン(THP)と呼ばれる労働者健康保持増進対策における「心理相談」の実施から説き起こす。そして、その後の行政の対策が、平成4年「事業者が講ずべき快適な職場環境形成のための措置に関する指針」(快適職場指針)から、平成12年「事業場のおける労働者の心の健康づくりのための指針」(メンタルへルス指針)へと発展する歴史を振り返りながら、メンタルへルス指針に基づくさまざまな対策に含まれる問題点を指摘する。さらに、「職業性ストレス簡易調査表」「仕事のストレス判定図」などを紹介しつつメンタルへルス指針に基づく具体的な活動実践の難しさに触れる。また、精神障害における労災補償、うつ病・自殺に関する対策、復職に関する課題の章を設け、最もホットな話題を提供している。読者は、荒武論文の現状への批判を抑えた論調の陰に、職場のメンタルへルスに取り組む産業医や産業カウンセラーなどの専門職が直面する問題の困難さと遅々として進まぬかに見える対策へのもどかしさへと想像力を働かせて欲しいものである。尚、本特集がミニ特集である点を補う意味で本文の末尾に若干の文献を掲載している。初学者の更なる探求の手がかりになれば幸いである。(この文献作成に際して、医療法人二本松会山形病院院長横川弘明先生のご援助をいただいた。名を記し感謝の気持ちを表したい。)

今井論文は、自殺の分析を通し、自殺の増加を単純にうつ病と短絡させることの危険性を指摘した上で、自殺動機の重回帰分析をして、自殺者を3万人台に押し上げた要因が経済的困窮にあることを指摘する。また、JMI健康調査票データを基に、職場のマネジメントに関わり、組織目標の明確化が従業員のメンタルヘルスに与える影響を指摘する。今井論文の強みはその背景にある圧倒的なデータ量である。今井論文は淡々とした文章が並んでいる。その記述や結論をみて「そんなの常識じゃないの」「当たり前のことしか書いてない」とも思われるかもしれない。もしそう感じられた読者がいたら、それは研究という経験がないか、専門家としての責任を心に刻みつつモノを言った経験がないからであろう。単純な言い方をすれば、今井氏の論文中の記述や結論は、安心して引用していいのである。

田原紹介は、いきいきとした職場をめざしたある労働組合の記録である。会社や事業所の経営状況の変化に伴う経営者や管理職および従業員のメンタルヘルスに対する意識や行動の変化が記述されている。特に印象的なのは、組合執行委員が研修で出合ったN氏の存在が、この一連の活動の源流にあるという点である。職場のメンタルヘルスを悪化させるのも改善させるのも人であることを端なくも示している。

浅川提言は、職場のメンタルヘルスに関わる人々のそれぞれの立場からの思いを簡潔な文章にまとめ、その方向性を示唆している。短い表現に凝縮された課題提起とその克服のヒントを味わうべきである。

職場のメンタルヘルスを巡る現状は問題が山積している。景気が少し上向いてきているといわれているが、とても悲しいことではあるが今年も恐らく多くの尊い人命が、直接的・間接的に職場や仕事に起因した「経済生活」的事情によって失われることであろう。しかし、本特集を通してすべての論者から提起されていると思われるのは、人、および、人と人とのネットワークである組織のあり様がそれらの課題解決のキーになっているということである。まず解決のキーが我々の手の内のあることを再認識することから始めるべき事を示しているように思える。

大森健一他編「臨床精神医学講座第18巻『家庭・学校・職場・地域の精神保健』」(中山書店 1998年)

中田輝夫「職場のメンタルヘルス・サービス」(新興医学出版社 1997年)

加藤正明監修、大西守・島悟編「職場のメンタルヘルス実践教室」(星和書店 1996年)

責任編集 松本純平・藤村博之(解題執筆 松本純平)