メールマガジン労働情報2000号記念企画
第3回 労働関係の基礎研究の継続を
2024年10月11日(金曜)掲載
私の理事長任期は2013年4月からの5年間であったが、この間は、労働政策が第二次安倍政権において経済政策の中心として多彩に進展していた。それらは、労使に対する春闘賃上げの要請、地域最低賃金額の持続的引上げ、正規・非正規労働者間の格差是正、女性活躍推進、長時間労働是正、「一億総活躍社会」推進などであり、立法上も、女性活躍推進法・青少年雇用促進法の制定、雇用保険法・労働者派遣法・育児介護休業法・障害者雇用促進法・労働安全衛生法の改正などが行われ、その仕上げのように、2018年春の働き方改革関連法の制定(総合労働施策推進法・短時間有期労働者法への改正、労働基準法・労働契約法等の改正)に至った。とりわけ、「同一労働同一賃金」、「働き方改革」などのかけ声で労働市場や雇用関係へ働きかける政策が進められた。これに伴い、労働政策研究・研修機構(JILPT)にはそれら矢継早の労働政策の基礎・参考資料とするために、厚生労働省から多数の調査研究の要請が行われた。
また、上記任期以前にも、民主党中心政権による労働政策が、失業者の救済、非正規労働者の格差是正、東日本大震災後の雇用対策などのために、求職者支援法の制定、労働者派遣法の改正、労働契約法・雇用保険法の改正、等として行われた。そこで、JILPTも、雇用多様化の実態・動向、雇用調整助成金の政策効果、基金事業の実効性、人口高齢化の労働力需給への影響、若者の雇用行動の変化、転職市場における人材ビジネスの変化と実情などについて、諸政策の効果を確かめるための様々な調査・研究を実施し続けた。
以上の具体的な調査研究については、テーマの設定、調査方法の策定、調査結果の分析等について、機構内での発表・質疑応答を興味津々にお聴きした。労働政策の形成・評価の過程におけるデータの蒐集・分析の有用性を垣間見た思いであった。
それと共に私は、JILPTにおいても、そのような労働政策の具体的実際的テーマを生ぜしめている労働市場や労働関係の基本的変化を、大きな視野で把握・分析するための基本的研究があってしかるべきと感じるようになった。特に、マスコミで盛んに表明された労働市場流動化論や日本的雇用システム時代遅れ論については、より基本的で長期的視野の研究があってしかるべきと考えるようになった。
そこでまず、JILPTが行ってきた多様な調査研究の全体を、ホームページ上に「外部労働市場」、「内部労働市場」、「労働者」という三つの領域(円)の相互関係として表示し参照できるようにしてもらい、そのうえで、それら実践的調査研究の基礎となるような研究も行ってしかるべきではないかと問いかけた。そのような研究として何があるのかは議論してもらったが、私としては、近年、労働市場の流動化や日本的雇用システムの改革論が巷にあふれている状況に照らして、日本的雇用システムの生成・発展・変貌の経路を全体的に、そして全体ないし諸側面につき、解明を試みることが最たる基礎研究ではないかと提起した。
実は、基礎研究の典型例として念頭にあったのは、前任の山口浩一郎理事長時代に理事長発案で行われたという、欧州諸国における産業別労働協約の研究(山本陽大=細川良・労働政策研究報告書No.157『現代先進諸国の労働協約システム─ドイツ・フランスの産業別協約─』2013)であった。同報告書では、ドイツについては金属産業労働協約と小売業労働協約が、フランスについては、銀行業の産業別労働協約が解説・訳出されて、産業別協約システムの枠組みが詳論されおり、欧州の労働市場や雇用労使関係を理解する必須の基礎資料となっていた。非正規労働者の待遇改善として2016年早々に官邸より打ち出された「同一労働同一賃金」のスローガンが、もしも欧州での同原則をイメージしているのであれば、産業別団体交渉を基礎とする職種別賃金テーブルあってのものであることを、この資料から学び取ってほしい、というものであった。
JILPTでは、事務局と研究員の皆様が、私の雇用システム研究の提案へも積極的な対応をして下さり、私の任期終了時に意義ある成果を挙げていただいている。
まずは、明治維新後の近代化から戦後の高度経済成長を経て石油危機後の経済調整に至る長い過程において、日本的雇用システムがどのように生成・確立・変容してきたかを描き出した、草野隆彦元理事による『雇用システムの生成と変貌─政策との関連で─』(JILPT 2021)がある。同書は、日本における雇用労使関係や労働市場のあり方が、江戸期以来の政治・経済・社会の大きな変動の中で、法制度や政府の政策と関連し合いながら「日本的雇用システム」といわれる仕組みに生成・発展し、その後変容してきた様相を、20世紀末のバブル経済崩壊前までの壮大な過程として描き出した大著である。
また同時期のもう一つの雇用システム研究の成果は、高橋康二研究員らによる第3期プロジェクト研究シリーズNo.4『日本的雇用システムのゆくえ』(JILPT 2017)である(JILPTリサーチアイ第25回に要約あり)。同書は、日本的雇用システムを「主に経済成長期以降の大手企業と製造企業に典型的に見られた『成員に対する長期的な生活保護・能力開発を図る雇用・労働の仕組み』と捉えたうえで、官庁統計の分析や人事管理研究の知見を用いて、同システムが最近20年間において、(a) 長期雇用慣行、(b) 年功的賃金・昇進、(c) 協調的労使関係、(d) OJT中心の幅広い教育訓練、(e) 雇用バッファーとしての非正規労働者、(f) 労使の規範意識と国民の支持、の諸側面においてどのように持続ないし変化し、どのような課題に直面しているかを分析している。そして、少なくとも同システムの「本丸」である製造業大企業では正社員の長期雇用慣行はおおむね持続しており、非製造業大企業でも、産業の拡大により転職入職率は拡大しているが、離職率が大きく増加しているわけではないこと、企業や国民の意識調査でも長期雇用慣行に対する基本的支持は持続していることを析出している。
さらに、次期の樋口美雄理事長下の中期目標期間には、非製造業の拡大という産業構造の趨勢からすれば、長期雇用慣行は衰退し、雇用システムの主役が「長期雇用型」から「雇用流動型」へと移行するシナリオとなるのではないか、という問題意識に発する池田心豪・西村純研究員らによる第4期プロジェクト研究シリーズNo.6『雇用流動化と日本経済──ホワイトカラーの採用と転職』(JILPT 2023)が出された。
同書は、企業の人事管理に関する事例調査と個人の転職行動に関する全国調査の双方から、大略次のような結論を提示している。まず、日本の大企業は新卒採用・長期勤続・内部登用が原則とされてきたが、飲食サービス等の非製造業の一部に、部長相当職を含む管理職を中途採用により外部調達することが一般的な企業がある一方、近年成長著しいIT企業では、今後の成長が期待される新規事業の開発を担う人材は内部調達を重視する傾向があるなど、必ずしも基幹人材の雇用流動化に前向きとは言えない面がある。また、労働者のキャリアにおいても、大企業のサービス業を中心に、初職の離職率が高く転職が活発な労働市場が広がりつつあるが、かかる雇用流動型セクターであっても、失業不安や仕事への不満が高いとはいえず、また転職経験者の収入は長期勤続者よりも低い。これらのことから、日本の大企業には、「長期雇用型」と「雇用流動型」と呼びうる異質な二種類の雇用システムが併存しており、サービス業の拡大に伴い後者の労働市場が拡大傾向にはあるが、非製造業においても成長が期待される事業の担い手は内部から調達される傾向にあり、労働者の収入の面でも長期勤続した方がメリット大である。こうして、経済成長をけん引するポテンシャルのある業種の企業をマスとしてみた場合には、高い収入を得ている労働者は「長期雇用型」の特徴を有しており、これに代わる選択肢として「雇用流動型」の労働市場が活性化する兆しは現状では見られない。
私としては、JILPTが時々の労働政策の企画と評価に役立つ実践的な調査研究に邁進することに加えて、それら個別研究の土台となる労働市場・雇用労使関係の基礎的研究を継続して下さることを切に祈っている。